空読幸一の情報網
教室に入って席に着くと、幸一が来て「昨日はどうだったんだ?」と机に手を乗せる。言うまで肇の席から離れないという圧力を感じたが、どう、と尋ねられると当たり障りのない回答しかできない。
昨日はというと、思い切り抱き合ってその日は五時になって、変な空気のままリビングへと降りていった。ケーキと紅茶の相性など分かるわけもなく、花凛にたくさんのフォローをされた。
「どうだったんだよー? 俺にしてはしっかりアドバイスできてただろ?」
「それは、そうなんだが……」
花凛の過去は、幸一にも話せない内容だった。顎に手を当てた肇は昨日の出来事で突破口を探す。
微妙な空気感であったとしても、花凪子はもはや問うことをしなかった。ニヤニヤとした笑みを隠す気もなく見せつけてきて、何もなかったのね、と。それはそれは睨みたくなった。
――本当に困ったら、こっちにお邪魔してもいいですか。
何かを予感しているのか、花凛は去り際にそう言った。
花凪子は、結婚する気でいらっしゃいと笑みで応じた。稀にしか見ない母としての言動だった。
肇も花凛に笑みで応じた。
総合的に昨日をジャッジするなら、
「距離が縮まった……って言えば正確だと思う」
「すっげえざっくりしてんな。あれしたとか、これしたとか、何かねえのか? 参考にしようと期待してたんだが」
「参考? 心菜とのことか?」
頷いた幸一の表情が変わったので、肇は地雷を踏み抜いたと確信した。適当な相槌を挟みながらリュックからノートなどを取り出す。全部取り出しても幸一は静かにならなかった。クリアファイルを手に持って今日の日程を確認する。
クラスメートからの視線が苦いものに変わったところで声を掛けた。
「今日、数学の小テストだろ? 今のうちに詰め込んだほうがいいんじゃないのか?」
ピタリと行動を停止させ、幸一は表情を引き締める。教えを請われることを見越した肇は範囲の問題集を取り出す。その問題集に、野球部限定の日焼け跡が目立つ手が乗せられたので。
「まさか、対策しないとか言わないよな?」
今日一番の険しい顔をして幸一を見た。一方で幸一は余裕そうな笑みを浮かべている。
「まあまあ落ち着けって。今日の俺が対策してないように見えるか?」
「見える」
「おおう……秒で断言されると悲しくなるな」
「で、実際どうなんだ?」
「……ちょっと冷たくねえか?」
「朝一番で惚気話を聞かされた身になってみろよ。けっこうキツイぞ」
怪訝な顔をする幸一。その問いに対して肇は真顔で答える。
で、と再度話を戻したところで、腕を組み始めた幸一は「ふっふっふ」と芝居がかった声を出した。今日の幸一は、話すのが億劫になるくらいテンションが高い。
「実はな、心菜と勉強会を開いたんだよ。何がすごいかって言うとな、初めて心菜の家に行けたことなんだよ。この話は二回目になるんだが」
「ああ、そうだな。すごいな」
「『お前らが勉強会するなら俺らもやろう!』って流れで勉強会することが決まったんだよ。いい流れついでに、よっしゃ誘ってみるか、って心菜の家に行くこと提案したらオッケーもらえたんだ。すごくないか?」
「ああ、本当にすごいな」
『お前らも勉強会する』と警戒心の欠片もなく言い切った幸一はすごい。恋は盲目というが、なぜ第三者が盲目の害を被るのだろう。
案の定クラスメートの何人かから視線を向けられた。
聞き間違いだと認識させるために肇はいつもどおりを貫く。ここで「ちょっと来い」と幸一と廊下に出ていったら、自分から誰か幸一以外の人と勉強会してましたと白状することになるから。
バレないように願う肇は冷や汗をかいていた。時計を確認する回数が増えている。
担任が来るまで幸一の惚気話は続いたが、それ以上彼がボロを出すことはなかった。連絡事項も何も聞かず、肇は静かに息を吐いた。
いつものように、四時間目終了のチャイムが鳴る。肇と幸一は手洗いに行ってから階段を登る。前を行く幸一はなんの前触れもなく、
「今日の朝は悪かった。夢中になってて全く気付かんかった」
流れるように謝られたものだから、肇は何を言われたのか理解する時間を要した。
その間、幸一は無言で階段を登り続けた。猫背の背中が心中を語るに、幸一は本気で反省していた。
「別に気にするなよ。確定情報は出してないだろ?」
「……どうだろうなあ」
暗に答えは分かっているだろと言われた気がした。先の噂や、心菜や幸一と仲がいい人物などから推理すれば、自ずと答えは出る。それは肇も分かっていたから反論しなかったし、幸一が深く言及してくることもなかった。
今回悪いのは幸一なのだが、だからといって責める気にはなれなかった。付き合っている噂が流れても自分はいいと、花凛は言っていたのだし。肇もそれは、吝かではないし。
「……いざとなったら鎮火作業に付き合えよ」
「ああ」
体裁を考えての発言に、幸一は笑みで応じてくれた。
屋上の扉を開けると、清々しすぎる天気とともに、秋の終わりを告げるようなからっ風が吹いてきた。
冷凍食品のオンパレードな弁当を食べ終える頃には、肇も幸一も、すっかり寒さにやられていた。
耐えられないほどではないが、これ以上寒い中で食べたら風邪をひく。それが二人の出した結論だった。
紐でしっかり閉じられた弁当袋が二つ、肇の横に並んでいる。立ってフェンスの向こう側を見る幸一はそれを流し見、眉を寄せた。
「そろそろ教室で食べるべきかもな」
「流石に風邪ひくか」
「ああ。それは嫌だろ?」
「……だな」
天気の悪い日を除いて、もう半年以上教室で昼ご飯を食べていない。
居心地の悪さと、自分がゆっくりできる場所で食べられないという事実が眼前に控えていた。教室で食べることには、抵抗があった。
「そうため息つくなよ。俺も一緒に食ってやるから」
「悪いな」
「いいや。まあ、ここで食うよりは賑やかになるよなっ?」
「周りがな」
春頃の記憶が確かなら、昼休みの教室は動物園である。映画館や本屋を往復する肇にとっては苦痛だった。満足げな笑い声を響かせる幸一は気付いていないだろうけれども。
フェンスに体重をかけると、金属の軋む音が少しだけした。
「心菜と花凛にも言っておかないとダメだよな。心菜には俺から伝えとく」
「分かった、花凛には俺が言っておく。明日にでもここに来るよな?」
「だと思うが……メッセージで伝えてもいいんじゃないか?」
【はな】
意外なものを見るような反応だった。
メッセージという選択肢が端から存在しなかった肇は、それも一理あるよな、と腕を組んだ。
「花凛のアカウントは持ってるだろ? なら、そっちのほうが楽じゃね?」
「持ってるには持ってるんだが……言葉で正しく伝えられるか自信がな。そこを考えれば面と向かって伝えたほうが伝わりそうだろ?」
「まあお前のメッセージだからなあ……」
眉間に指を当てる幸一。思い当たる節がいくつもあったのか、何度も頷いたあと、「端的すぎるんだよ」とこぼした。
フェンスから背中を離して幸一を見る。坊主が困り顔を披露する様子はシュールだった。
「母さんとのやり取りはいつもアレで通じるんだよ」
「それはお前の母さんだからだろ? 言っていいのか分かんないがな、お前の母さんは結構トリッキーだぞ?」
『結構』に妙なアクセントが付いていた。そこをそう発音する理由には肇も得心しかなかった。だからといって、メッセージのやり取りにも得心できるわけではなかった。
他に、
「花凛とのやり取りも連絡だけだぞ? 会う日の予定決めたりとかはあるが、それも情報だけだしな。何か大事な話は会ってするようにしてるし、雑談も会ってしてる」
「ああうん、花凛も肇と同じタイプだってことは分かったわ。女子にしてはかなり珍しいな」
お互い依存しない程度に寄りかかっているのである。
肇は馴れ合いが得意でないからだった。面倒と言い切ることでメッセージアプリとはあまり関わらないようにしてきた。
花凛は、クラス以外で明るい自分を見せるのは疲れるだろう。演じすぎて壊れないようセーブするためにメッセージアプリの使用を控えていると推測できた。
それだと、アカウントを交換できる人は自分を演じなくてもいい人――素を出せる人ということになる。
「俺の知ってる限りだと、っていうか野球部の情報網の限りだとな? 花凛のアカウント持ってるのは心菜だけだって言われてるぞ」
バレていないこと、男子は自分だけなこと。
肇は咳払いをして口元を押さえた。




