ボケはしっかり自己申告
クラスメートを遠目に見ていると、テストが終わってからの一週間は学生にとって憂鬱なのだと感じる。追試があったり、テストが返却されたり――早く終わってくれと思う生徒が多いのだろう。
幸一は「夏休みの終わりにでも肇に勉強教えてもらえばよかった……!」と頭を抱えていた。平均以上の点数だったらしいが、それでも納得がいかないらしい。
学校に行って、ちょくちょくバイトにも行って、そうすればもう次の週になっている。約束のことは忘れたかったが、どうにも忘れることができなかった。
映画館のどのあたりで待っていればいいのか、何時に行けばいいのか、何を見たいのかなど、花凛からは何一つ言われていない。
シアターに着いたので、とりあえず発券機の近くで待っていることにした。放課してすぐに来たのできっと待たせることもない。
本当に来るのかどうか疑問に思ってしまって、ここに来る人――そしてエスカレーターに視線を向けてしまう。時折嫌そうに視線を送り返されることもあったので、リュックの中身を整理して待つことにした。
かがんでいれば視線も合わないだろう。
筆入れ、参考書、ノート――忘れ物はなさそうだ。肝心の財布もバッチリあった。
ふっと影が差して、ポニーテールの先が視界の端で揺れている。
「ごめん、待たせちゃったね」
まさか来るとは思っていなかったので、一切の動きを止めてしまう。花凛は穏やかに笑って「驚かせちゃった?」と尋ねてきた。
チャックを閉めるよりも先に「大丈夫だ」と答えると、またしても彼女は笑って、礼を言ってくる。
チャックを閉めてリュックを背負い立ち上がった。花凛の礼に対してなんと答えればいいのか分からなくて、「あ、ああ」と曖昧に言った。
「それより、こんなところで荷物の確認してたら危ないんじゃない? 椅子とかで待っててくれてもよかったのに。私が探したよ?」
「いや、探させるのは気が引けた。ここで待ってれば絶対に見つけられると思ったんだ」
「……そっか。うん、確かに見つけやすかった! ありがとう!」
元気のある声と力強い頷きだった。
あまり気乗りしていなかったが、真正面から礼を言ってくれる人と一緒にいられるのは心地よい。
花凛は早くも発券機を見て、口許を緩めていた。その顔に、思わずこちらも顔を緩めてしまう。
「何か見たいものでもあるのか?」
「うん。実はね――」
花凛が見たいと言ったものは新作のミステリーだった。花凛のような可愛らしい見た目の女子もミステリーを見るらしい。上映中は静かにするのがマナーなので、一緒に推理できないのが残念だ。
スタッフロールのときに「楽しかったね」と笑った顔は、見たこちらまで笑い返してしまいそうなほど魅力的だった。
誰彼にも満開の笑顔で接するのだから、アイドルという異名がついてもおかしくない。ほんの少ししか一緒にいないが、アイドルよりも神対応してくれそうな気がした。
映画を見終わったあとは併設されているカフェで感想戦をしていた。断ろうとしたが引っ張っていかれたオチだ。
母には連絡済みなので、文句を言われることはないだろう。父さんみたいな時間に帰ってこないでね、というメッセージを頂いたけれど。
「男子と映画を見るのは初めてなんだー」
ストーリーの感想も犯人の動機などの考察も済んだところで、そんなことを花凛は呟いた。
テーブルに肘をついて前屈姿勢になった彼女は、屈託のない笑みを向けてくる。
「意外と楽しいね」
「……なあ、どうしてここに来たんだ?」
肇自身なんの脈絡もないことは自覚しているが、それでも訊きたいことがあった。
学年のアイドルだからこそ、人気者だからこそ、最初に誘うに相応しい人物がいただろう。それなのに何が悲しくて陰な人物のもとに来るのか。
屋上で話したきり彼女は話しかけてこなかったから、関わりたくて関わっているわけではないと感じた。
笑顔を崩さずに質問を反復した花凛は、
「約束したからだよ?」
「それならどうして俺を誘ったんだ? 映画館に誘ったこともだし、こうしてカフェに誘ったことも」
もう誘うな、そんな願いを込めて言った。面倒くさいやつだと思われたかった。
どうしてって、眉間にシワを寄せた彼女は、手に顎を乗せて唸り始める。
あっ、そんな小さな呟きが聞こえた。慈愛に満ちた瞳は嘘をついていなかった。
「だって、肇はたくさんの映画を見てるだろうから。そんな人と一緒に話せたら楽しいんだろうなーって思ったんだ」
それに、と椅子に腰掛け、花凛はカップを傾けた。
その一連の動作は育ちのよさを如実に表しているように感じられた。
「この人なら大丈夫だって期待しちゃったのかもしれないな。迷惑だった?」
「……いや、迷惑ってわけじゃないが……疑問に思って」
「そっか、それならよかった。これで迷惑なんて言われたらどうしようかと思っちゃったよ」
――面と向かってそういうこと言うか?
こちらの返答として出てきた言葉は途切れ途切れで、言った自分が驚いてしまった。素直と言えばそうなのか、これは素直なのか。疑問が頭を駆け巡る。
花凛から離れるように背もたれに全体重をかけた。空気を弥縫するように、コーヒーの入ったカップを手に取る。
「今まで何回かナンパされてるんだけど、周りの人は見てるだけでさー」
「……ん? ああ」
軽いトーンだった。コーヒーを飲んでいる間に彼女はどんどんと話していく。
「誰かが近づいてきたときに彼女のふりをしたり、チグハグな受け答えをして絶対に動こうとしなかったして乗り切ってきたんだけど、今回のはしつこくてしつこくて」
それにイライラされちゃったし、小声で花凛は付け足した。
「声掛けてもらえなかったら危なかったなー。本当の意味で誰かから助けてもらったのって初めてで、こんな人いるんだー! って感動しちゃった」
「別に感動するほどのことでもないだろ」
「そんなことないよ? 行動してくれる人って、意外と少ないんだから」
首を傾げてケロリとそんなことを言うものだから、こちらとしては背中がむず痒くなる思いだった。もともと助ける気がなかっただけに、相反する気持ちがぶつかっている。
吐息一つで言葉を流して、制服を整える。ついでにワイシャツで扇ぐと、少しは胸元が涼しくなった。
花凛もこれ以上話す気はないらしく、紅茶のカップを音を立てて置いた。
もう十分話し込んでしまったように感じられる。
ケータイを取り出そうとポケットをまさぐり、そこで手を止めた。今ここでケータイを手にとったら『ID交換しようよ』と頼まれるかもしれない。彼女の勢いはどうやっても止められないと体感したので、頼まれたら最後、連絡先を入手してしまうだろう。
数秒考えて、何事もなかったかのように掛け時計を見た。三十分くらいしか話していないらしい。
「退屈だった? それとももう帰る?」
「ただ時間が気になっただけだ。特別な理由はない」
「そっか」
小さな声でそう返し、花凛は伸びを始める。「ん……ん~っ」なんて喉から出る女性らしい声が聞こえた。「あっつる」って声が聞こえたけど、背中がつるなんてことはあるのだろうか。運動不足だったら、なくはないのかもしれない。
花凛はゆっくり息を吐いていたが、それはつらなくてよかったと安堵したようなものだった。
「帰るなら帰ってもいいんじゃないか? 疲れたろ?」
「いや逆。こうやって無言の時間も味わってくれるからリラックスできるんだよ。高校だと周りのみんなが元気で」
うるさいと言わずに元気と言うあたり、なんともアイドルらしい。肩を竦めて応じると、その適当さがいいんだよね、と目を細められた。
カフェから人が出ていく音、流れる音楽、店員さんの気楽そうな話し声。掃除がなんとかかんとかなんて聞こえてくる。夜の九時が近いから、そろそろ潮時だろうか。
二人の間で交わされた会話は、カフェの閉店時間のことくらいだった。あとはお互いに無言。
店員さんに話しかけられれば自然と解散するような雰囲気だった。
「ナンパから逃げる絶対の方法ってないのかな」
ん、と問い返すと花凛はもう一度同じことを言った。どうやら独り言ではないらしい。
肇は顎に手を当てて視線を落とした。
「ボケた感じになったんだが、それでもいいか?」
「お願い。肇のボケはボケじゃなさそうだから」
「……誰もいないところを指さして、『あそこにいる人たちって知り合いなんですよー』って言う。それからその誰もいない空間に走っていって、一人で楽しそうに会話し始める」
「ちょっと待ってね? それって危ない人だよね?」
「そうは言うが、それが一番手っ取り早い方法だと思う。ヤバイ奴って思われとけば声を掛けられる心配はないからな」
最初に忠告したものの、花凛は明らかに困惑していた。優しい黄色の瞳が左右に揺らめいている。
体裁が悪くなってコーヒーのカップを空にしてもなお、花凛は同じ顔だった。
すまない、そう言おうとして手を動かした瞬間、
「それじゃあ今度から実践すればいいのかな……? 誰もいないところ……あそこを指さして、私あそこにいる人たちの連れなのでダメです! って言えばいいんだよね?」
「……そうだな、そんな、感じだ」
意外と怖かった。笑いを堪えようとして手で口を覆うと、花凛は何かを察したらしい。
「これって肇が提案したんでしょ!? まさか適当に言ったの!?」
「真に受けるとは思ってなくてな……悪い」
「も~っ! 信じちゃったじゃん! 真顔でそういうこと言わないでよっ!」
「いや悪かったって。……迫真の演技だったぞ」
「フォローになってないって! 演技するのは得意だからそう言ってもらえると嬉しいけどっ」
縦シワが寄って、それから口許が弧を描いて、忙しい顔だ。
花凛は優雅なため息をついて「でも」と続けた。
「意外とボケるタイプなんだって分かった」
「最初に言ったぞ」
「えっだってあんな顔でボケるなんて言われても……」
「知らん。さ、帰るぞ」
「あっ今しれっと帰ろうとしたーっ!」
立ち上がると、手首を掴まれた。手を放すのを数秒待っていても花凛は放さなかった。
座り直して、
「何かあるのか?」
「うんっ。来週はアニメ映画が公開されるんだー」
「――アニメも見るのか?」
「それなりにね。最近だと肇みたいな男の子が活躍するんだよ?」
「どんなストーリー展開だよそれ。スパイとか正義の味方とかじゃないだろ」
「まあねー。透視貰っちゃいましたとか、いきなり異世界ステーキとか。そういったものが流行りかなあ」
「あー……あれか。最近本屋によくある本」
「そうそれ! 本も読むんだ?」
「多少な」
わりと序盤で何を言いたいのか察したので、故意に話を逸らした。
それで、と聞こえたので花凛を見ると、明るく優しい笑みがあった。
「今度の月曜日も一緒に映画見ない?」
「いや、俺」
「いいでしょっ? じゃあ、今度の月曜日にね!」
「アニメは見ない」
「わー聞こえない聞こえなーい! もう約束したもん!」
食い気味に答えられてこっちが面食らってしまった。耳を塞いで意思表示をする彼女のポニーテールが右に左にと動いている。
呆然と花凛を見続けて、あるときため息と笑みがこぼれた。諦めてリュックから財布を取り出すと、花凛は息を呑んで笑顔で礼を言った。
自分で強制したくせに礼言うのかよ、とジト目を送りたい。それだと話が長引きそうだったので、ひとまず代金を訊いた。
「金、どうするんだ?」
「んー、どうしよっか。私はもう少しここにいるよ?」
「それなら置いとく」
ハメられた分少しだけ金を少なく置いておこうかとも思ったがやめた。
代金ぴったり、しっかり置いた――勉強道具を取り出している花凛が目に止まった。言動から学力がアレなのかなと思っていたが、意外と努力家なのか。
後頭部を掻いて、頑張れよとエールを送ってカフェを出る。予定より少し多く出費してしまった。




