律儀な彼女と、ちょっとした提案
昼休みという長いようで短い時間に、肇は幸一と一緒に階段を登って屋上へと向かう。疾走感も何もない、ドン、ドンと体重をかけてゆっくりどっしり上る音。一段飛ばしで軽やかに上る音。その二つが、下から聞こえる生徒の声に混じって響いていた。
登り終わったら息を吐いて、肇は扉が開くのを待つ。「今日も腹減ったな」なんて言葉に相槌を打って屋上に出ると、いつもどおり、フェンスの近くに腰を下ろした。
青空に雲がまぶされている。朝よりも少し雲の量が増えて、五割と言ったところか。今日の予報は晴れだったが、もしかすると、もしかするかもしれない。
登校して傘立てにそれを入れたことを思い出してから、弁当箱の蓋を開けた。
花凛との噂が絶えてから奇異の目も綺麗サッパリなくなった。新しいリュックを見て『もしかして』と思った人も居たには居たが、少数派だったらしい。
実際、髪を下ろした花凛と一緒に買い物に行ったのだから『もしかして』が当たっているのだけれども。
弁当のレパートリーに最近追加された漬物を一口。
花凛は学校ではいつもポニーテールなので、髪を下ろした姿を見たことのある人は少ないようだ。花凛のように肌の白い人が元気に振る舞っているのを見ると、無理しているようで心配になる。廊下で話している姿が、誇張なくそう見えてしまうのだ。
登場人物として、色白の病弱キャラは鉄板だろう。
冷えたご飯と漬物が口の中で混ざり合う。
花凛が病弱という話は聞いたことがないので、思い過ごしかもしれない。ただ、時々見かける姿は、やはり――。
「手、止まってんぞ」
「ん、ああ、そうだな」
幸一への返答に、自分自身、どこか上の空であることが分かった。しかしながら、怪訝な様子も見せずキノコハンバーグを食べる幸一。キノコをハンバーグの上にしっかり乗せてから口に運んでいる。
そろそろ頭が寒くなる時期だが、幸一はそんなこと微塵も感じていなそうだ。
「考え事っつーか、花凛のことで何かあったのか?」
「……何もねえよ」
「絶対ウソだろ」
「なんでだよ」
エビデンスのないジト目にジト目で応じる。数秒、睨み合うように視線を交わした。「いいか?」と箸を置いた幸一が指を立てる。
「まずは間だ。俺が訊いてから答えるまでの時間に間があっただろ?」
「あれは、何かあったかどうか考えてたんだよ」
「……まあいいや。次、お前あれだからな? 何かを食べては空を見上げ、何かを食べては空を見上げって繰り返してたからな?」
「そうなのか?」
「ここまで露骨にアピールされて訊かないわけにも――待て今なんて言った?」
まさか、とかなり早口で言って、信じられないものを見るような目つきでこちらを見てくる。
「……気付いてなかったのか?」
確認するような口調だった。きっと幸一は、こちらが冗談交じりの演技をしていると期待しているのだろう。残念ながら、肇は己の奇行に気付いていなかったわけだが。
答える代わりに、目をすーっと逸らし、ご飯を口に運んだ。
「おまっ、マジか……」
微妙な空気が流れていた。乾いた秋風とはまた別の、人間関係でやらかした時に吹く、居心地が悪い独特な風だ。
幸一が箸を動かさずに固まっていることが何よりの証拠だと直感した。
「……お前もあれか、恋の季節がやってきたか」
静かに考えていたなと思えば、彼は自信満々に誤答してきた。失望などではなく、恋煩いと勘違いしてくれたらしい。うんうん分かるぞと力強く頷く幸一。ネタなのか素なのか分からなかったため相槌を打って済ます。
「やっぱ恋ってぼーっとするよな~っ……!」
幸一は『な~』を噛みしめるように言う。おそらく素なのだろうが、違うと否定しても聞いてくれなさそうなので、ため息一つで無視を決め込むことにした。
そのまま心菜の話に突入した彼をほっとき、空になった弁当箱を片付け始める。話すことに夢中だった幸一の弁当はまだ残っている。
袋の中に弁当一式を入れ視界の端に置いた。フェンスを背に座ると、穏やかな風を背中に感じることができる。
ポケット単語を取り出して、英語の綴りを見て日本語に訳す練習をしていた。集中しているのが伝わったのか、幸一は話しかけてこずに黙々と弁当を食べてくれていた。
と、静かに扉を開けるときに出る、甲高い金属の音が聞こえた。
ああ告白か――そう思って扉に目をやると、花凛がこちらを見ていた。小走りでこちらにやってきた彼女は「やっほー」と手を振って、肇の斜め前で横座りする。
「何か用事か?」
「うん。映画見終わったから返したいなって。いつ返せばいい?」
小首をかしげる花凛は、辛子色の目を純粋な色で染めている。
そうだな、と出入り口の方に目を向けて考える。尻目に花凛を捉えていたが、彼女はこちらから目を逸らしてはいなかった。
「今度の休みは……二日ともバイトが入ってたはず」
「じゃあ返すに返せないんだね」
「そうなるな。来週は空いてるから、そのときにでも返してくれ」
「分かった。ケータイで後で日にち教えて」
「ああ」
学校でケースの受け渡しをできないため、休みの日に会ってするしかない。肇はバイトとの兼ね合いがあるが、花凛は常に空いているのだろうか。
そういえば、今日は新しく入った本を並べなければいけないことを思い出してしまった。重労働に空を見る。
「幸一ってさ」
「ん?」
「いつも肇とご飯食べてるの?」
「いつもは野球部の仲間と食ってるな。なんでだ?」
「ん、ちょっと気になって」
花凛を見ると目が合った。若干気まずそうに口許を結んで、上目遣いになっている。心菜のことで何かあると踏んでいたが、違うのかもしれない。
問おうとするのを阻むように、風が勢いよく吹いた。突然のことにポケット単語を握り、飛ばないようにした。風が止まってからポケットにそれを戻した。
「……寒いのか?」
花凛が二の腕をさすっていた。見えた手の甲は白く瑞々しくて、そこだけを見ると寒いとは到底思えなかった。
しかし、彼女は照れくさそうに笑って頷いた。今度は両手をこすり合わせて温めている。縮こまってふーと息を吐く姿は小動物のようだ。
「逆にさ、肇は寒くないの?」
「まだ寒くないな。時々風が冷たいとは思うが」
「意外だなー。てっきり寒がりだと思ってた」
顔色が悪いとよく言われるし、見た目からは確かに寒がりに思われるかもしれない。
「こいつはあれだぞ。寒いのにも暑いのにも耐性あるぞ」
「ちょっとだけその耐性分けてもらいたいな~。着込まなくていいし汗もあんまりかかないってことでしょ? そういうのいいなー」
「だと、肇」
「俺に振るな」
羨ましそうな目で覗き込まれても、どうすることもできないのである。耐性を分け与えるなんて聞いたことがない離れ業だ。
「皮膚移植とかでその耐性って分けられないの?」
「絶対提供しないからな? 第一、俺と花凛は身内じゃないんだから拒絶反応を示して終わりだろ」
「いーや、意外と馴染むかも」
「遠い親戚、もしくは血が繋がってましたってパターンか? よくあるが、やっぱりそういうのは伏線が欲しいんだよな」
「映画の話じゃんそれ! 私と肇はそういうのじゃないでしょ」
微笑してから、花凛は真面目な顔に戻る。
「ん~、じゃあ、日々の生活習慣とか食べる物のおかげなのかな?」
人並み程度の早寝早起き、冷凍食品や野菜などを三食しっかり取っているだけ。至って普通に生活していてこうなったのだから体質の問題だろう。
子どもが純粋な疑問をぶつけるときのような笑顔で訊いてくる花凛には、どうしても、天からの贈り物だなんて言えなかった。
幸一とアイコンタクトを交わし説明をしてもらった。何それ羨ましい、と花凛は即答していた。
花凛は珍しくため息をつき、諦めの混ざった笑顔を浮かべた。
「私たちも屋上でお弁当食べたいねって話してたんだけど、寒いから無理っぽいなあ」
「私『たち』って言うと、心菜も入ってるのか?」
「うん、いっつも心菜と二人で食べてるから」
ふーん――何度か頷く幸一が言わんとしていることは分かった。幸一と目が合った。
「なあ肇」
「一緒に食うなら俺を抜いてくれ」
「まだ名前しか呼んでないだろっ!」
「あっじゃあ私も外れるから二人でご飯食べたら?」
「花凛も乗るなよ! 嬉しいけどな!?」
もし二人が一緒に食べ始めたら毎日ぼっち飯だ。幸一との昼食はいい息抜きになっていので、それがなくなると思うと残念だ。やっと付き合うのかというちょっとした安堵も混じっているけれど。
「……お前らマジでその目やめろ。『俺らは一人でご飯食べるけど二人は幸せそうだね』っていう生温かくて残念そうな目止めろ」
「私たちそんな目してたかな?」
「してないと思うが。勘違いじゃないのか?」
「マジでこういうところで連携すんのやめろよッ!」
目を大きく見開いて言う幸一の姿に思わず笑ってしまった。花凛も口許に手を当てて穏やかに笑っている。如何せん背筋の伸びた横座りなので、彼女だけ貴族のお茶会に出席しているような雰囲気である。
「お昼ご飯を食べた後にこうやってお話しに来たほうがいいかもね」
今度から来ようかなと呟いた花凛。幸一が先に反応して、続いて肇も彼女を見た。
「心菜も来るよな?」
「ん? うん、誘えば来ると思うよ?」
「っしゃ! 誘ってくれ、頼む」
「分かった分かった、今度私が来るときに誘ってみるね。……でもあれか~、見せつけられちゃうよね」
「仕方ないだろ」
「…………頼むからその目やめてくれ!」
「勉強会のときみたいに私たちが気まずくなるんだねーこのパターン」
「言っても無駄だと思うぞ」
「……もういいや、もうそれでいいよ!」
これから毎日、幸一と昼食を共にすることになりそうだ。昼休みが終わるまで、胸焼けについて花凛と話していた。
幸一は、野球部で鍛えられた声を遺憾なく披露していた。




