映画の余韻
映画の日、肇は約束通り映画館に向かった。今回はケータイの連絡先を知っているので、見つけやすい場所にいなくてもいいかと椅子に座って待つことにした。ソファ形式の椅子の、座れる場所を探して歩く。
見覚えのある横顔と艶のあるポニーテール。どうやら彼女は、お菓子やタペストリーの方を見ているようだった。尻目にこちらを捉えたのか、おっという顔をして正面を向く。
「今着いた。少し遅れたようで悪いな」
花凛は「大丈夫」と微笑んでから、何かに気付いた顔をして、小悪魔のように鼻を鳴らした。立ち上がり、肇の胸元に人差し指を近づけて言う。
「やっぱダメ。罰として、今日は目いっぱい楽しんでね?」
「……ああ、そうだな」
「ちょっと何その微妙な顔ー。むう、カレカノなんだから、もうちょっと乗ろーよー」
「あ、ああ、そうだな」
「さっきと返事変わってなーい!」
ため息混じりの苦笑を返すと、ジト目を向けられ、ため息をつかれた。
あまり人と関わってこなかった肇には会話の経験値が少ない。アイドルと呼ばれ、学校でたくさんの人と関わっている花凛とはどうにもレベル差があるようだった。
事実として付き合っていないが、ギクシャクしたカップルに見られるのは花凛が嫌そうなので、会話のノリに気を付けることにした。具体的な案は浮かばなかったけれど。
むー、と腰に両手を当てて眉を寄せる彼女が関わってくる理由は謎のまま。
と、覗き込んでいた彼女が背筋を伸ばした。手のひらを見せながら、
「不自然じゃないように手でも繋ぐ?」
「……いや、設定だから、そこまで本気にならなくてもいいと思うが……するのか?」
「ん~、いい案だと思ったんだけどなー。肇がそんな感じならしない方がいいのかもね。罪悪感なくカップル割引使えると思ったんだけど」
「……罪悪感なく使うんなら、本物の彼氏ができてからだな」
「じゃあ今は無理かー」
笑った花凛は手を腰に戻した。
何度か手を握られたり引っ張られたりしたことがある気がするが、改めて意識すると恥ずかしかった。頬に熱が出ないように親指で軽く掻いたり、頬を軽く押したりする。
「上映まで時間あるけど、チケット買いに行く?」
「そうだな。行くか」
そう返すとすぐに歩き始め、手慣れた操作で発券する花凛。後ろに立ってお金を渡すだけで、いつもチケットが手に入る。
これを彼氏彼女と言うには無理があるような気がした。交代で発券した方がカップルらしいと思った。
「――どうしたの? 椅子戻ろ?」
「あ、ああ」
花凛がこちらに戻ってきて手首を掴み、くいと力を入れた。並んでいる人を一瞥したので、そういう意味もあったのだろう。制服ではなく手首を掴んできた花凛の手は温かく、柔らかかった。
さっきまで居た椅子に腰を下ろす。手を放した彼女が心配そうに見ていた。
「考え事してたの?」
「……そうだな。考え事だと思う」
「自分でも考え事って確信してないんだ……」
呆れを含んだ黄色の目は宙を見ている。話さないでいると意味ありげな視線が送られてきた。
二人で映画を見るようになってからは花凛がいつも発券してくれるため操作方法を忘れるんじゃないかと懸念していること、カレカノって持ちつ持たれつの関係なんじゃないかということなどを口にすると、花凛は気難しい顔をした。
「そこまで難しく考える?」
「映画じゃわりと持ちつ持たれつだからな……恋愛物だと、女子が精神的にキツそうであれば男子が側にいるし、逆だってある。違うのか?」
「どうなんだろうな~。アニメだと一方的なことが多いから……寧ろちゃんと恋愛してる物の方が少ない……?」
アニメにそれを求めるのは違うだろうから言わなかったけれど、どちらかが寄りかかる恋愛関係はそのうち崩壊するだろう。ちゃんとしたアニメの恋愛物を挙げようとして、花凛はうーんと唸っていた。
「なんだろう……最近の純愛って、病気になっても愛するとか、記憶が飛んでも絶対に愛し続けるとかそういった物が多い気がする……」
「美化されてるな」
「っふふ、そうかもね。現実ってそう甘くないからなー」
花凛は天井を仰いで呟いた。
学校では人の中心にいる明るい高校生。それが諦念に染まった顔で現実を直視している。しかしながら、非現実であるアニメのことを話すときは目を輝かせる。
天体観測をしているのかってくらいに上を見つめ続ける花凛。
その横顔を見続けていると、細められた目がこちらを捉えていることに気付いた。
「肇はリアリストだよね」
「そんなにか?」
「うん、そんなにだよ? ……現実をしっかり見てる人と話すと安心するんだよねー」
穏やかな声音が耳に届くと同時に、三段論法でコトを理解しようとする脳があった。まさかと思って中断しようにも、僅かな期待がそれを許さない。
確認するように、花凛が聞き逃さないように、
「花凛は思ったことを口にするよな」
「そう? ……あっはは、確かに、肇とか心菜の前だとそうかもね」
何を言っても許してくれそうだからつい、彼女の口は美しい弧を描いているであろう。
花凛の周りにいる連中よりも好感度が高い――優越感に混じって疑問もある。けれど口には出さなかった。
心菜が話題に挙がって、そこから、とある二人の話に移行した。幸一からは一切進捗を聞いていないが、心菜は色々なことを花凛に話しているらしい。
花凛の暖かな声に耳を傾けているうちに上映時間が迫ってきた。最後に花凛は、「あの二人付き合えばいいのにね」と声を出さない笑みを作った。
予習のかいあってか、アニメの世界観にすんなりと入ることができた。劇場版の作品だから、アニメから派生した細い物語なのだろうと思っていた。それが見事にひっくり返された。細かな伏線や感情の動き、推理しながら見れる楽しさなど、ありったけの面白みが二時間弱に収まっていた。
椅子に腰掛けて見ていたはずが、いつの間にか前へ移動するほどの面白さだった。興奮冷めやらぬままカフェに入る。エアコンの利いた店内の冷気が心地よかった。
いつもどおりドリンクを注文した。待っている間、彼女は身を乗り出して話しかけてきた。
「いやー熱いバトルだったね~。まだ余韻が」
「そうだな」
「いや~、っふふ、面白かったね~」
見たこちらまで頬が緩んでしまうような嬉しそうな顔。いやーと何度も首をひねり、単語を口にしては笑みをこぼす。
届いた紅茶のカップを傾けて、やっと落ち着いたように見えた。
「家だとこんな風に余韻を味わえないんだよねー。学校とかでもニヤニヤするわけにはいかないし」
「ニヤニヤか」
「してるでしょ? なんかこう、ゆるゆるーっとさ。思い出すとどうしてもこうなっちゃうんだよね~」
そう言いながら再び笑む。ふっと真顔に戻って、こちらが楽しめたかどうか尋ねた花凛。楽しめたと言うと、ふうと静かに息を吐いた。
「よかった、楽しんでくれたんだ。てっきり興奮してるのは私一人だけで、肇のこと置いてけぼりにしてると思っちゃった」
「楽しかったって。映画の余韻はゆっくり冷ましていくから、花凛みたいになることはないがな」
カフェで話していると、本当に花凛は映画好きなんだなと感じる。アニメの話もちょくちょく入ってくるけど、雑談は映画の内容についてだ。周りの人は俳優や声優についてばかり話すらしいので、内容のことを話せなくて今まで寂しかったとのことだった。
だから、今も映画好きであることを隠しているらしい。人並み程度、流行りのものを抑えている程度という振る舞いらしい。
カップを持ったまま、神妙な顔で銅像化する花凛。
「映画を学年に普及させようかな……」
「できるのか?」
分かんないと彼女はカップを口に運ぶ。
「まずは私が映画好きってことをみんなに話さないといけないよね。あ、それならいっそアニメのことも……」
「ああそうか、そっちも知られてないのか」
静かに「うん」と頷いた花凛は、悲しそうにも、寂しそうにも、何かを堪えているようにも見えた。確かなのは、彼女の雰囲気がしんみりしたものに変わったことだった。
だって話す必要ないんだもんと彼女は俯いた。
「同級生の話に相槌打って、共感してもらえるようなこと言って、何か頼まれたら引き受けて。そうやって穏やかに過ごしてきただけで、自分の話なんてちゃんとしてないもん」
「今のは女子ウケの話か?」
「うん。男子からは……たぶん、見た目と言動で人気出ちゃったんじゃないかな。しんみりしないようにとか、悪口言わないようにとか、色々と気を付けてきたし」
時々本音を言っちゃうんだけどね、と花凛は諦めたように笑って肩を竦めた。
彼女の笑みが何を求めていたのかは分からない。けれど、何か言わなければならないと直感した。
「素がどうかは知らないが、今までの話を聞くに、花凛ってとにかく性格がよさそうだよな」
思ったことを正直に言う。自覚がなかったのか、花凛は一瞬豆鉄砲をくらった顔で硬直した。ふふと淑やかに笑い、
「なんか気使わせたかも。ありがと」
「……フォローになってたならいいんだが。人と話さないから、どうやったら元気になるのか分からん」
「笑わせてくれただけで十分元気になったって。普段はツッコんでばっかりの肇がボケるなんて……やっぱりこれは相当気を使わせたんじゃない?」
「気を使わせた自覚があるなら、そこに触れるな」
敢えて触れないという日本ならではの心がけがあるだろうに。
花凛は改めて礼を言って、カフェの外を眺めていた。椅子に深く腰かけた姿は先程と違い、凛々しさのある端正な横顔を披露していた。
十分ほど花凛は黙ったままだった。そうしておもむろに、解散しよっかと言った。
「寝てなかったんだな」
「ちょっとー……確かに黙ってたけどさあ。それより、あれ、結構反省してるんだよね」
「ん? 何がどう反省してるんだ?」
「お母さんにも色々してもらったこと。あの、アレとか、ね?」
自分で言って自分で紅潮。名前を出さずにジェスチャーでそれとなく伝えようとしてくる。それも恥ずかしくなったのか、とにかく、と花凛は勢い強めに声を出した。
「あのときはありがとうって。肇だからよかったんだよ? ……他の男子だったらさ?」
「無理に言わなくてもいい。ほとんど人前で寝ない花凛なら、これからのことを心配する必要はないだろうしな」
うん、と花凛は優しく笑った。ころころ表情が変わるものの、そのほとんどが笑みの類だから感心する。ボケてみたら表情のレパートリーが増えるだろうか。
「俺だからよかったって言ってくれたのは嬉しかったが、変に誤解するぞ?」
「……肇ってさ、お母さんと同じ感じで淡々とボケるよね」
ツッコミとは言えない抑揚のない一言をくらった。ジト目を向けてくる花凛を見るくらいだったらボケる必要はなかったかもしれない。ボケたことへの後悔という、今までに味わったことのない悲しいボケパターンだった。
「それじゃ少し早いが、帰るか」
「恥ずかしくなったから話そらしたよね?」
「……さ、会計済ませるぞ」
「あっもうほら! ほら!」
そう言いつつ花凛は立ち上がってくれる。
空いている椅子に置いていたリュックから財布を取り出し、背負おうと紐を掴む。若干の重さの後になぜか軽さが来て、何かが落下したような音がした。
「あれ、肇? それ切れたんじゃない?」
「…………そうらしいな」
右肩が見事に分離した。愛着が湧いていたので、繋がっていた部分をじっと見てしまう。次いで出たのはため息だった。
花凛が寄ってきて、切れた部分を覗き込む。触ったり引っ張ったりもしていた。
「……あー、うん。これはもう戻らないんじゃないかなー。今日って重いもの入れてた?」
「いや、テスト明けだったからかなり軽かったはずだ」
「それなら老朽化じゃないかなあ。何年使ってるの?」
「中学入ってからずっとだから……三年と半年くらいか」
「そっかー……」
花凛は、ワークで難しい問題に出くわしたときくらい真面目な顔をしていた。それだけ考えてくれていると思うと、悲しさに嬉しさがブレンドされる。
「かなり長い間使ってたみたいだし、やっぱりもう寿命なんだと思う」
「……だよなぁ」
「バッグの予備ってある?」
「あるが、荷物が全然入らないな……」
答えてからすぐ、心中で今週の土曜日に買いに行こうと決めた。
顔を上げた花凛と目が合った。彼女は心配そうに眉尻を下げて、
「お店紹介しよっか?」
「ああ……そうだな……」
「いいところ知ってるから、私に案内させて?」
寄り添ってくれる声色だった。
リュック一つで大袈裟な気がしたが、何を考えようにも頭が真っ白になるあたり、自分がどれほど正気じゃないのか理解できた。肇が固まっている間にも彼女は畳みかける。
「泊まらせてくれたお礼とかもあるしさ、肇がこんなに落ち込むのって珍しいじゃん?」
「……落ち込んでたか?」
「うん。なんかもう生きてるかも怪しい。表情が同じだし、体も全然動いてないし、メデューサと目が合ったんじゃないかってくらいだよ?」
「……そんなに言うか?」
「あ、今ちょっとだけ表情変わった」
花凛なりに気を利かせた発言がメデューサらしい。もうちょっと他の例えがあったんじゃないかと考えて、これはボケてくれたのかと思い至る。
店についてはてんで疎い肇なので、彼女の提案がはとてもありがたかった。けれど、一緒に出かけるというのはリスキーな行動だと気付いた。おそらく表情に出ていたのだろう。
花凛が慌てて、
「バレないように工夫するから! 例えば……えっと、髪下ろしたり伊達メガネ掛けたりとかさ? ウィッグとかもあるじゃん!」
なぜそこまで手伝ってくれるかは分からない。けれど、必死になってくれている花凛の様子を見て、少しは前向きになれた。
バレることを肇だけが気にしているようで、どれだけ自分は敵を作りたくないのだろうかと冷静に問うことができた。
リュックの紐を取って離すと、やはりプランと一本だけ下に伸びる。大きく深呼吸して未練を断ち切った。
礼を言うために、行くと答えるために、花凛を振り返る。
彼女はちょうどゴムを外したところで、靡いた髪が重力に引かれてふわりと漂う。結んでいた箇所――首元で一度髪がすぼまり、再び広がっていく。
ポニーテールがトレードマークだったためか、彼女の姿がえらく新鮮で、目を奪われた。
「ほ、ほら……こんな、感じにさ?」
不安げに見上げてくる優しい黄色の目。見た目からは、活発な印象とは正反対のおとなしめな印象を受けた。髪一つで詐欺レベルに見た目が変わっている。
父親とは違う人の良さを見た。誰にでも手を差し伸べるのではなく、自分で決めた人に手を差し伸べる姿。まるで飼い主を守り抜かんとする犬のように強情で、それに不安を足した人間味のある優しさ。
気が付いたら答えていた。
「似合ってる……というか、想像してなかったくらいにお淑やかに見えるな。変装しなくても、いざとなったら幸一を当てにするから……その、買い物に付き合ってくれ。頼む」
「うん、私が言い始めたことだから、しっかりやるね?」
「ああ。……ありがとう」
「うんっ!」
嬉しそうな視線に耐えきれなくなって、リュックの左の紐を掴み、「会計」とだけ言った。しかしながら、ぶっきらぼうさに反応することなく、花凛は笑みの花を咲かせて頷いた。




