直感的な判断基準
トレイを持ったまま、バランスを崩さないように引き戸を開ける。
花凛は不安そうな面持ちで部屋を見ていた。と、こちらに気付いて息を呑んだ。それから微かに笑って、肩を下ろす。
「ここ、肇の部屋?」
「ああ。勝手に連れてきて悪かったな」
完全に起きてるんだな、というのが率直な感想だった。図書館のアレを見た後ではどうにも実感が沸かない。
トレイを丸テーブルに置き、ベッドに腰掛ける彼女を見やる。
「寝起き、悪いのか?」
花凛は一瞬眉を寄せ、何かに思い至ったように首を上下させた。半開きの口がやっちゃった感を醸し出している。
「そういった性質なら仕方ないんじゃないか?」
「ううん。私、これでも寝起きはいい方なんだよ?」
一時間とちょっと前の出来事だ、彼女が寝ぼけていたのは。覚えていない可能性は十分にあるが、確認を取った方がいいのだろうか。視線を落として考えていると、
「心菜の前で寝ると、いつも寝起きが悪くなっちゃうみたい。それが肇の前でも出ちゃったんじゃないかな」
「心菜の前限定だったのか?」
「うん。ていうかそもそも、私、親を除くと心菜の前でしか寝たことないから。ぐっすり眠らずに途中で起こされるとどうにも頭が働かないんだよね~」
肇が驚いたのは、心菜以外のクラスメートの前で寝たことがなく、授業中も寝ず、バスの移動なんかでも寝たことがないという事実だった。今年はじめて知ったんだ、という続きの報告で我に返った。
「肇、読書に集中しててさ? 声掛けられなかったんだよね」
「なんかすまないな」
「いや、私もウトウトしちゃったし。ごめんね?」
お互いに何度か謝って微妙になってしまった空気を整えようと、丸テーブルを見た。
「差し入れなんだが、飲むか?」
「あ~……もう帰らないと」
少し考えた様子を見せ、そそくさと立ち上がってバッグを取る花凛。泊まってくことはできないのか、と尋ねると、「え」という小さな疑問が漏れていた。更に気まずい空気になった。
「いや、今日はもう遅いし、親御さんに連絡すれば問題ないと思ったんだ。明日が休日なのもあったしな。まあ、もちろん、花凛の家がどのあたりにあるのかにもよるが……」
「ねえ、肇?」
こちらの必死な言い訳の間隙を縫って発された声。物音一つしていなかったから、明るくお淑やかな声はよく響いた。
ん、と声を漏らして彼女を見る。ちょうど手前に、いたずらっぽく笑う花凛がいた。
「今、焦ってたでしょ?」
「……まあ、それなりにな」
「だよねっ、珍しくたくさん話してたから」
花凛は顔を花開かせる。何を言われるかとヒヤヒヤしていたが、拍子抜けしてしまった。何事もなかったかのように首筋を掻いて「で、家までどれくらいかかるんだ?」と尋ねると、「電車乗り継いで一時間くらいかな」との返答が。
徒歩三十分の男には、実感の沸かない距離だった。運のいい場所に家があったんだなとしみじみ思う。
「肇のお父さんお母さんは、私が泊まることって知ってるの?」
「母さんは知ってる。父さんは……おそらく、大丈夫だって言うと思う」
「そっか~……」
【あせらせない】
バッグを肩に掛け、花凛は再びベッドに腰を下ろす。返答を焦らせないように、肇は黙ってその様子を見ていた。
異性なのが引っかかっているのだろう。警戒心が強いようだし、同性の家に泊まるとしても彼女は躊躇するかもしれない。
どうして連れてきたのか、意地でも起こせばよかったんじゃないか、など後悔の混ざった思考がぐるぐると回る。
咳払いで思考をリセット、今は花凛の答えを待っていよう。
「……泊まろっかな」
「ん?」
「泊まろっかな~、って。本当にいいの?」
こちらの様子を探るような上目遣い。それに首肯すると、唇が穏やかに弧を描いた。
「親御さんへの連絡は頼んでもいいか? こっちから連絡しようと思ったんだが、できなくてな」
「ああうん、それなら大丈夫。友達の家に泊まるって今連絡するよ」
ケータイを取り出したのを見て、肇は飲み物の準備を始めた。具体的には、丸テーブルを近くに寄せて、トレイからカップを出したくらい。
閉め切っている部屋に二つの匂いが充満している。
ケータイから目を離した花凛。
「いい匂いだね」
「どっちが?」
「紅茶」
「そうか……」
花凛はケータイを見たまま何度か頷き、バッグにしまって、床に横座りした。紅茶のカップを顔に近づけ、瞑目して微笑を浮かべている。
衣替えしたばかりの見慣れない制服が、彼女の優艶さを際立たせていた。
花凛はカップを小さく傾け、安心したかのように吐息した。
「目が覚めたら知らない天井だったって展開、アニメだとよくあるんだけどさ、現実に起こると案外怖いんだね」
「そうかもしれないな」
「うん。どうして私はここにいるんだろうって真剣に考えても分かんなくて。心菜の部屋とは明らかに違ったし、監禁されてるような感じもしなかったし」
後者だとしたら、ずいぶん綺麗な監禁部屋だ。そんなことを思いながらコーヒーを口に含み、数秒口の中で味わう。
「何してたんだっけってこと考えて、部屋の内装をよく見て、それで――ああ肇の部屋なのかなって思ったんだよね」
「合ってたな」
うん、と静かな返事が聞こえた。パニックを起こしていなくて、しっかり目覚めていて、正直ありがたかった。
どうやってここまで運んだのかや、部屋にテレビがあることを話して、お茶会は幕を閉じた。
夕飯のことを話すと「食べれるならすぐに食べたい」とのことだったので、軽くなったトレイを持って一階のダイニングへと向かう。
魚の骨のとり方が綺麗だったのを見て、やっぱり育ちがいいんだろうなと感じた。
夕ご飯――時間的に夜食を食べ終え、洗い物を移動させる。食後の一杯でもどうかなんて話しているときに、花凪子が戸を開けて入ってきた。彼女はこちらに気付いて顔を上げた。
「夕ご飯は食べ終えた?」
「ああ」
「ありがとうございました! 身が詰まっていて、おいしい魚でしたっ」
「いえ、お粗末様」
花凛の屈託のない笑みを見てか、花凪子はかなり穏やかに返答した。
よそ行きの顔だなと思ったら視線が飛んできたので、これ以上は考えなかった。
「洗い物は私がしておくから、どっちかお風呂に入った方がいいわね。どっちがいいかしら?」
「花凛が先に入れよ」
「んー、家の人より先に入るのは~……いいの?」
「肇がいいって言うんならいいんじゃない? 先に入っちゃいなさい。風呂洗いっていう大役は肇にやってもらうから」
元気よく礼を言って花凛は立ち上がった。それからピタリと止まり、こちらに視線を向けてきた。何かに気付いたような顔をしているが――錆びたブリキのおもちゃみたいな首の動きだった。
そのまま花凛は固まった。
「肇、下着ってどうするのっ?」
この間のアニメ映画のような、テンションの高いアニ声が近くから聞こえた。その言葉を理解して、花凛が固まった原因が分かった。
「……盲点だったな」
「盲点だったな、じゃないよおっ! 近くにコンビニってある!? すぐ買いに行く!」
「……二十分くらいかかるか? 学校と反対方向なんだが」
「まず学校がどっちにあるか分かんないし! ていうか二十分って何で換算したの!?」
「徒歩だな」
「だと思ったけど!」
テーブルに両手をついて元気に吠える彼女はさておき、肇は花凪子を見た。
「新品のって持ってないのか?」
「ねえ肇、伏せてくれたのはありがたいんだけど、それってもろに言ってるじゃない? あなたのそういったところがダメなんじゃないかなって私は」
咳払い。謝り、本題に話を戻す。
「新品のは脱衣所にもう置いてるわ。タオルとかも置いてるから、それを使ってちょうだい。……寝間着は肇の服でいいかしら? 私の服だと小さいと思うし。花凛ちゃんはそれでいいかしら?」
「えっ? あー……二人がそれでいいのなら、私は……。寧ろそこまでしてもらっていいんですか?」
「大丈夫よ。制服で寝てシワが付いたら嫌でしょ? 肇は服の用意をお願い。下着を見ないように、私が脱衣所まで持っていくわね」
花凛に「本当にいいのか?」と確認を取ると、「うん、本当にありがたいよ」と返された。
あまり着ていなそうで埃のかぶっていない服を持って階段を下りると、花凛が控えていた。今ここで服を受け取るつもりだったらしい。
ありがとうと笑みを向けられたものの、目を逸らして服を手渡した。
「それじゃあ一晩だけ借りるね?」
「……異性のなんだが、本当にいいのか?」
「いいってば何が?」
「いや、嫌じゃないのかってこと」
首を傾げてから、嫌じゃないけど、と彼女は言う。貞操観念が緩いのか、いやしかし育ちがいいならそういったところもしっかりしていそうだが、などと考えてしまう。
「異性かどうかじゃなくて、安全かどうかだよ」
「……安全?」
「そう。男の子でも女の子でも、危険な人は危険だし、安全な人は安全なの。異性がどうのっていうのは二の次なんだ」
儚げに語られた言葉に頷いて返す。どうやら、花凛にとって、肇は安全な存在らしい。花凛は、それじゃあね、と微笑して脱衣所へ向かってしまった。
「……洗い物でも手伝うか」
テスト終わりだし、ゆっくりしよう。そう考えてキッチンに向かった。
流しに向かうと、小さな背丈の女性が一人、ただ黙々と作業していた。布巾を取って隣に立つと、
「胸のサイズ、大丈夫だと思う?」
華麗にスルーしようとした。神妙な顔と声で何を言い出すのかと思えば――思わずため息が漏れると、ムスッとした顔を向けられた。
「そもそも、あれは私が買ったものなのだけれど」
「金は俺が出す。だから花凛にプレゼントしてやれよ」
「プレゼントってお金払ったらダメなんじゃない?」
珍しい真っ当な返しに閉口。
ところで、胸のサイズには触れたほうがいいだろうか。触れないことにした。ぱっと見で、花凛と花凪子では後者の方が大きいと分かるからだ。
一晩くらいならサイズが合わなくても問題ないんじゃないか、と未経験ながら思う。
寝るときに外す人もいるらしいから、個人の感覚なのだろう。
「私、赤の他人に下着をあげるほど優しい母親じゃないの。ごめんなさいね」
「いや、それが普通だろ」
機械的なトーンに同じトーンを重ね、それ以降は口を開かなかった。
肇の風呂上がりにあったことを挙げるとすれば、紅茶の話で二人が藹藹と話していたことくらいだった。その近くで、肇は、勝手に注がれた紅茶を飲んでいた。




