本の香りと自己採点
テストが終わって、午後の授業もやっと終わった。ワークやノートを提出したおかげで軽くなったリュックを背負って、肇は徒歩で図書館へと向かう。
数年ぶりに図書館に来たものの、入り口には誰もいなかったので、ひとまず近くで待機する。ケータイを取り出してメッセージを見たところ、花凛は出発して間もないらしかった。
人の往来でも眺めていようかと、ケータイをポケットに入れてあたりを見回す。数回しか来たことのない場所は景色が新鮮だ。
街路樹が窮屈そうに並んでいる。今日のように天気がよくても、このビルの量じゃ満足に光合成できていなそうだ。
その下を制服やスーツを着た人たちが歩いている。光合成する必要はないか。
風が吹けば葉の揺れる音が聞こえ、喧騒が少しだけ遠く聞こえる。都会の中心から少し外れたこの街は、意外と人通りが少ない。
映画だったらビルの屋上からでも超人的な何かが降ってきてバトルになりそうだ。正義のヒーローなら街を壊すなよと幼心に思っていた。
「……外の空気か。なんだか珍しいな」
テスト後は家で映画を見ているかバイトに行くかだったので、全く慣れない感覚だった。
そういえば英語のテストで『彼女はこの場所で一時間も待ち続けていた』なんて文章があった。
腕を組んで空を見る。
「……いや、まさかな」
花凛のことだからないだろう――そう思って、自分はずいぶん信じているんだなと息を吐いた。温かい気持ちになったときに自然と出る、穏やかで安堵したような息だった。
「――あ、花凛」
見つけて歩き始めると、彼女も見つけたらしく手を振ってくる。
走る必要がないのに、彼女は小走りでこちらに来た。
「やっほー。来るの早いねー」
「いや、俺もいま来たところだ。ホームルームなんて、どこも終わる時間一緒だろ」
「そう? 結構違うくない?」
無垢に笑って首を傾げ、それじゃあ行こっか、と彼女はドアを通った。
中に入ると、バイト先よりもたくさんの本が置かれていて、紙特有の水分の匂いが強かった。思わず鼻を動かして頬を緩めると、花凛から「どうしたの」と声が。
いや、と適当に濁して花凛の後をついて歩いた。
椅子にバッグを置いた花凛。正面に座るか、隣に座るか。
「何考えてるの? ほらここ、ここ」
花凛の隣――バッグを置いた方と反対の椅子を叩いて指示してくる。
「いや……これだけのスペースがあって隣は」
「テスト勉強中も隣になったんだから気にしなくてもいいのにー。目立ちたくないなら隣に座ってカレカノ感だした方がいいんじゃない? 正面に座ってた方が悪目立ちしちゃうでしょ?」
小悪魔のように唇を曲げた。椅子を背にして、背もたれに両手を乗せる様子がさまになっている。
見つめられているのが尻目に分かったので、決して彼女とは視線を交換せず、先ほど叩かれた椅子を見る。
「それなら隣に失礼する」
「いらっしゃーい」
図書館ということで小声のやり取りだが、彼女の声は鳥の鳴き声のように耳に届く。
椅子にリュックを置いて、百はありそうな本棚を見回した。読みたいジャンルを最初に決めなければ、本を探すだけで日が暮れそうだ。
改めて鼻を動かして、本の多さに頬を緩める。
「隣で本読んでるだけでもいいからさ」
「それだったら来た意味ないな」
「続き続き。私が分からなかった問題教えてよ。今日の英語とちょっと前の英語が大半だけど」
「英語だけなのか?」
「ん~……そうだね。でも、英語も八割は堅いと思う」
「だったら俺が教えられるところは少ないかもな」
「やっぱり私以上の点数なんだ……」
眉尻を下げて花凛は笑みを見せた。分かってたけど悔しいな、とセリフは続いて、彼女にしては珍しく吐息。
声を弾ませ、
「それじゃあっ、たくさん教えてもらおっかなー」
「まあ、少しくらいなら」
「さっきまでの自信はどこ行ったのかなー? あんなに張り切って『教える』とか言ってたのにな~」
「……本探してくる」
「っふふ、逃げたね」
「適当に見繕ったら戻ってくる」
こちらの顔を覗き込む勢いで腰を曲げた花凛は朗らかに笑って、椅子に座った。
バッグを漁る音を背中に受けて、肇は徘徊し始めた。
本屋に置いていない洋書があったので試しに読んでみたが、訳しながら読むのはやはり難しかった。時々求められる花凛からのヘルプを息抜きと思って、知っている単語をつなぎ合わせて文章にする作業。
これでも十分の一読めたかどうか。三時間の成果は芳しくない。あくびが出そうだ。
ため息がこぼれ、赤色のスピン――紐を挟んで本を閉じた。パホンとやや重めの音がして、風が顔全体にかかる。目を細めてそれを受け止め、テーブルに本を置いて軽く伸びる。
「……疲れた?」
椅子に背を預けた花凛がこちらを一瞥して訊いてくる。間をおいて「少しだけな」と答えれば、「私も」と同調が返ってきた。
「少しだけお話する?」
「そうだな」
辛子色の瞳に首肯すると、それじゃあなんのお話がいいかな、と間の抜けた声がした。決めてなかったのかよと思う気持ちが半分、もう半分は――。
「自己採点の方はどんな感じだ?」
問うと、彼女は赤ペンを顎に当て唸った。できたての餅のような頬にノック部分が食い込み、カチ、カチと乾いた音が図書館に木霊する。
机に広げられている紙類を見ると、見たくもない計算式がずらりと並んでいる。物理は、問題用紙の余白を目いっぱい使って計算したらしい。
――裏の問題か、これ。……一問しかミスってねえ……ワークに載ってなかった問題が多い中で一問だけのミスなのかよ。
唸り声が止まり、
「いつもどおり、なのかなあ。強いて言えば英語が少し上がったくらい。五点とかそれくらいだけどね」
「……八割から五点も上げれたら十分だろ」
この感情をあえて口にするなら感嘆だろうか。何か一教科の点数を上げようとすると別のが下がって、平均するとトントンということはよくあった。
「物理はいつもこんな感じなのか?」
「今回は調子よかったかなー。解ける範囲の難しい問題だったし、それなりにね」
彼女の微笑みは自信に溢れていた。肇は空虚に相槌を打つ。
話題を変えようと吐息。計算系教科のテストだと花凛に勝てそうもない。
一つ訊きたいことがあったのを思い出した。
「なんで図書館で自己採点することにしたんだ? 花凛にはそれなりに知り合いがいると思うんだが」
「ああそれ?」
花凛はペンを置いて、こちらを向き直した。
「部活が始まるから学校の図書室は使えないじゃん? ほら、陸上部が走ってたり他の部活の人が廊下歩いてたり」
「そうだな」
「で、情報を吟味したらさ、図書館ってテスト終わりに人が減るんじゃないかなって思って。運動部の人は部活で来れないし、平日にここに来るような人がパイプあるとは考えられないし」
数学ができる人の発言だな、と他人事に思った。
「家で丸付けして、分からない部分を俺に訊くのはダメなのか?」
別の案を出すと、彼女は眉間にシワを寄せた。下唇を軽く噛んで、嫌なことを思い出しているように見えた。
「家だとお母さんがなあ。ケータイいじりながら勉強するなって言われちゃうし」
そうか、とだけ肇は言った。同情するのは身勝手だし、憐憫の目を向けるのは失礼だと思ったから。無難に流せる言葉はそれしかなかった。
「勉強目的だったら、カフェでやるより図書館の方がいいのか」
「そうだね。タダだし」
”タダ”を少し強めに発音した花凛と目を合わせて、同時に口許を緩ませる。考えつくことは同じだったらしい。
それじゃあ休憩も終わりにしよっか――その一言で、肇は机に手を伸ばす。手にとった本は、先ほどよりも軽かった気がした。




