*5* 勘違い
ファティマ視点です。
「……ティマ、ファティマ、ファーティマ!!」
ここ数日ですっかり聞き慣れた鈴を転がすような元気な声が降る。声の主は私がモゾモゾと寝台の中で蠢くのを見かねて、肌触りの良い上掛けを剥ぎ取った。
いまから一週間前、お忙しくてなかなか宮殿内にいてもお会いする機会のないヴァシュラム様より新しく世話役として付けてもらった女官さん。
彼女の名はレーフィア。十七歳で私よりも四つほど年下のレーフィアは、とても綺麗な顔立ちをしているので私の支度を手伝ってもらうより、私が世話をしなければならないのではないかと思わせるほどだった。
ぱっちりと大きな愛嬌のある瞳は赤味を帯びた茶色、ふっくらとした唇は薄桃色。豊かで艶やかな腰まである髪は明るい金茶で、肌はこの地域では珍しくやや白い。
一見すれば何故私のような奴隷付になったのかと思ったけれど、その謎は彼女が自己紹介の為に口を開いて分かった。
『ほぇー、アンタが嵐の王様の奥方様け? どんな怖そうな人かと思ってたけど、何だぁ、優しそうな別嬪さんだなぁ!』
視界が聴覚を裏切るほど……彼女の訛りが酷すぎたのだ。情報が乖離している。ここに来る前は街にある飲み屋で働いていたそうだ。
初対面での彼女の発言は、目の前の少女から発されているとはとても信じられなかった。要するに見た目で採用したはいいものの、他の女官達と上手く行かなかったようなのだ。
けれど元来明るい性格で物怖じしないレーフィアは、ここに来る前の私の職業を知っても差別せずに気易く接してくれる。
そして数日前から「ファティマはもうちぃと体力をつけた方が良いやね」と宮殿内にある庭園まで散歩に連れ出してくれるようになった。
最初の二、三日は歩いていても焦点の合わない目と、元来出歩くという行為をほとんどしない生活環境だったせいもあり、すぐに風景酔いというか体力切れを起こしてしまった。
けれど四日目にして初めて焦点の合わせ方のコツを掴んでそれまでより歩ける距離も伸ばし、ここへ来てからというもの一度も部屋の外に出たことがなかった私も外出の何たるかを学んだ。
「さぁさぁ、そろそろ観念して起きなよファティマ。今日も元気に散歩に行こうや。んでさ、戻ったら昨日より少ぅしだけ食事の量を増やしてみような? 繰り返したら今は食の細いファティマでも、その内一杯朝食が食べられるようになるよ」
グイッと無理やり腕を引っ張られて首をガクガクさせながら起こされる。身体がまだシーツの滑らかさを恋しがって後ろに倒れ込みそうになるのを、先回りしたレーフィアに阻止された。
大理石の床に引きずりおろされた私は、絹のシーツとはまた違った滑らかさを味わいながらうつらうつらとしかけたのだけれど……。
「あれ、寝ちまって良いのファティマ。せっかく今日の散歩コースは特別なのによぉ」
“特別”に気を引かれて仰向けの状態から腹這いになった私の様子を見て、レーフィアは満足げに頷いた。
「うっふふふ……聞いて驚けぇ? 何と今日の散歩コースには嵐の王様がお通りになるかもしんねぇルートが含まれてんだよ」
レーフィア曰く、この間偶然にも軍会議室の方角へ歩いていくヴァシュラム様達を見ることの出来る角度を発見したのだとか。
「――行く……」
ヴァシュラム様が戦場から戻られてから二週間も経つけれど、未だにお会い出来たのは初めの一日だけだった。あの日私が眠ったりなどせずにいればもっとご一緒出来ていたのに……。
「あはは、だろぉと思った! さ、そうと決まれば早く用意しねぇと」
レーフィアはしゃがんでシュンとした私と視線の高さを合わせると、手を差し出してせっかくの花の容をくしゃくしゃにして笑った。
***
身支度を手伝う……というよりは、私が身支度を整えるのを見守ってくれていた(衣装の保護の為)レーフィアと一緒に廊下に出て、庭園までの道のりをフラフラと壁伝いに歩く。
途中で私が息切れすればレーフィアが背中をさすってくれ、歩き出せばその華奢な肩を貸してくれた。
それが嬉しいのは勿論だけれど、同性としては少し微妙な心持ちになるほど整ったレーフィア。華奢であるのに健康的で美しく、それに驕ったようなところもなく優しく、その生き方に卑しい部分が一つもない。
出会ってたったの一週間だけれど、まさに私からすれば女性として完璧なレーフィアは眩しい存在だった。
壁に肩を預けて休む間にジッと見つめてしまっていたのか、レーフィアが「そんな見られちゃ、照れんよ?」と苦笑するので慌てて再び歩き出す。
――――シャララララララ。
――――キャララララララ。
私が歩くたびに手首から滴る金の鎖が身をくねらせて、庭園へと続く回廊の上を泳ぐ。どこかに引っかけたり踏みつけたりしないように細心の注意を払って、右へ、左へと金の鎖を手繰りながら歩く。
その音を聞きつけた女官達の囁きと嘲笑が耳に届くけれど、私が気にせず歩を進めるのに対して、レーフィアは逐一その声がする方角を睨み付けている。
「……なぁ、ファティマは嗤われて腹が立たねぇのか?」
何度目かの小休止をしている時にレーフィアがそんなことをポツリと口にした。身も心も綺麗なレーフィア。私はそんな彼女が少し羨ましい。
「レーフィアは嗤われていないわ。あれは私へ向けてのもの。だけど気になるようなら貴女はもう部屋に戻って? ……貴女が辛いのは私も悲しいわ」
本心からそう言うと、レーフィアはその綺麗な顔を怒りから赤く染めて「ファティマを置いて帰れねぇよ!」と膨れてしまう。
そんなレーフィアにお礼を言って、さらにそろそろと歩を進める。
――――キャララララララ。
――――シャララララララ。
ようやくレーフィアの案内してくれた場所まであと少し、と言うところまで差し掛かったその時……。
「おぉ、何だ? どっかから綺麗な音がすると思ったら……美人を二人も連れて来やがったぜ」
庭園の近くの角からヌッと大柄な男が私とレーフィアの前に現れた。
私はその男を目にした途端に足から力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。身に染み着いた癖で、今まで聞こえていた音が急激に遠ざかり、視界が像を結ばなくなった。
あぁまだ駄目――こんなところで私が失神したらレーフィアがこの男に犯されてしまう……!
ヴァシュラム様からお預かりした大切な大切な女官のレーフィア。
私は男に何か話しかけられたレーフィアが怪訝そうな表情をするのを欠け始めた視界に捉え、彼女に伸ばされた太い腕に飛びついて、その腕に力一杯噛み付いた。
口の中に鉄の臭いを感じて吐き気を感じながらも視線を彷徨わせれば、驚いた表情のレーフィアと……驚いた表情の大柄な男。
あぁ、レーフィア、駄目よ、貴女が驚いていては――。
「逃げて、レーフィア……」
腕から離した唇でそう囁けば、目を見開いたレーフィアが口を開きかけているところだったけれど……彼女の言葉は私の耳に届かなかった。
***
「本当に、本当に申し訳御座いませんでしたっ……!!」
目覚めた私はのぞき込んでくるレーフィアに安堵し、次にのぞき込んで来た大柄な男の頬をひっぱたいた。突然の事とはいえ良い当たりだったのか、乾いた音が部屋に響く。
そして……その後に笑い転げるレーフィアと、親しげな様子で彼女の頭を乱暴に撫でる大柄の男を目にしてからの……冒頭の謝罪である。
「馬鹿な勘違いでとんだご無礼を……お許し下さいませ!」
続けざまに大理石の床に頭をこすりつけんばかりに平伏して謝る私を前に、レーフィアが「ジャズのおっちゃんは頑丈だから気にすることないよ」とあまり今は救いにならないフォローを入れてくれる。
あの時、大柄な男――ジャズさんは私に向かって、
『おいおい、そっちの嬢ちゃんはどうしたんだ、どっか調子が悪いのか? そんな青白い顔して貧血か? ちょっと安静にした方が良さそうだな。どれ、適当な場所まで運んでやる』
と、言って下さっていたそうなのだ……。なのに私は彼の巨体に店にいた男達を重ねて恐慌状態に陥ってしまい、まともな判断が出来なかった。もう本当に重ね重ね申し訳ない。
そして不運なこととは重なるもので――ジャズさんはヴァシュラム様の部下に当たる方なのだそうで、あそこでこの国のお偉い様達の軍議が終わるのを待っていたのだと言う。
失神したあと自室に運ばれた私は、ここで軍議が終わるのをレーフィア達と共に待ちながら、ヴァシュラム様より下される沙汰を待っているところではあるのだけれど……。
この件は完璧に店に送り返される一択以外に道がなさそうなので――また意識を手離しそうになっている。
「いやー、大将に女が出来たっつーからどんなのかと気にはなっちゃいたんだが……嬢ちゃん見た目に寄らず剛毅だな! 気に入ったぜ! 大将からいらねぇって言われたらオレのとこに来れば良いぞ!」
レーフィアによって白い包帯を腕に巻かれたジャズさんがとんでもない申し出をして下さるけれど、丁重にお断りさせて頂いた。
一月半前の私なら誰の傍にでも侍ることが出来たけれど、また薬を盛られる毎日になれば別にしても、今は素面では出来る気がしていない。
首をはねられる前の罪人の気分で金の鎖を弄っている私の背後で、荒々しく扉が開く。あまりに大きな音に吃驚して身を竦めていた私の目に映ったのは――不機嫌そうに顔を歪めたヴァシュラム様だった。
私はお叱りを受ける前にその場に平伏したのだけれど、ヴァシュラム様は何故かそんな私には目もくれず横を通り過ぎてしまう。
呆れて視界にも入れたくなかったのかと落ち込んで溜息をついたその背後で何か鈍い音と「痛ってぇ!?」というジャズさんの声がした。
何が起こっているこかと怪訝に思って視線を少しだけ上げれば、正面にいたレーフィアが青ざめた表情で「ファティマ、顔、顔上げて!」と小声で私に告げる。
その必死さにつられて平伏の姿勢を解こうとしたら、勝手に身体が浮き上がった。腰に巻きついた腕に引き立てられたのだと気付いた時には、そこに憤怒の形相のヴァシュラム様のお顔が……。
恐怖で喉の奥が“キュッ”と縮こまった私の唇に歯が当たるのではないかと思うような乱暴な口付けが一つ、落とされた。
「お前という女は……簡単に他の男に攫われるな」
私は突然のことに何も言えず、鷹のような厳しいお顔を間近に見つめることしか出来ない。
この後下される沙汰のことなどすっかり忘れて、ただ久し振りにその姿を見られたことに幸せを感じて魅入っていたら――今度は優しく触れるだけの口付けが唇に落ちてきて。
私をゆるゆると弧を描くように甘く痺れるこの心に、勘違いをしてはならないと深く、強く、戒めの楔を打ち込んだ。幸せの深度は後にある哀しみの深度に似ているから。
――深く、深く、穿って、抉って――どうか、今を、刻みつけて。




