*4* 子守歌
ヴァシュラム(男主人公)目線です。
柔らかい象牙の肌に巻かれた痛々しい包帯の白が目に付く。
刺青を入れた初めの夜。翌日には戦場に戻らなければならなかった俺は、城にいられる間に様子を一目なり見ようかという気紛れから、ファティマに与えた部屋に立ち寄った。
案の定、熱を出したファティマは寝台に横たわって浅く苦しげな呼吸を繰り返し、時折打ち上げられた魚のようにもがいてその細い手足で絹のシーツに波紋を作っている。
ジッとその様子を見ていると胸の奥がざわつく。苦悶の表情も、苦痛を訴える声も、俺の世界には溢れている。
戦場に初めて出た頃は自分でそれを味わう機会が多々あったものだが、最近では傷を負うことがないので忘れていた。
細かな傷が幾つも残るとはいえ痛みに慣れるものでもないかと「辛いか」と訊ねたが――ファティマは苦しげに乱れながらも弱々しく首を横に振り、ラピスラズリの瞳で微笑んだ。
起こさずに、声もかけずにすぐに出て行くつもりだったのだが……このまま城を発てば一月は戻れないことを考えれば、何故か離れがたく。苦しげな吐息が穏やかな寝息に変わるまで、その汗ばんだ額を指で撫で続けた。
途中で一度だけ混濁した意識の中、ファティマが口を開く。
『――行かないで』と、たった一言だけ。
その言葉にどんな引力があったというのか……今までで一番長い一月になりそうだと、溜息をつく。
明けの出立の際に急ぎ彫金師を呼んである物を注文しておいた。出来上がりは一月後。もし逃げるならそれまでに逃げれば良いと、ファティマの部屋に鍵の類は必要ないと告げて出立する。
……額を撫で続けた指先は、いつもよりほんの少し熱を帯びていた。
***
逃げ出したという報告のなかったことにどこか安堵した一方で、一月ぶりの帰還だというのに出迎えに姿を現さなかったことに苛立ち、部下からの先勝報告も早々に切り上げて足音も荒く部屋へと向かった。
しかし……寝台に眠るその姿を目にすれば怒りも萎える。仕上がっていた品物を元・執務机の上に置いて寝台の端に腰掛けた。着飾った姿のまま眠り続ける女に怒りをぶつけるのも難しい。
冷静になれば起こすほどの用でもないかと、自然に目覚めるのを待つことにしたのだが……いつの間にか真上にあった日が傾いて、夜の気配が近付いてくる。寝台に眠るファティマの肌も夜気に触れて粟立った。
上掛けをかけてやれば良いのかと思い被せてみたが、怯えたように眉根を寄せたので取り払う。
規則正しく胸が上下して時折、眦から涙が滲む。流れる度に拭ってやれば、その指先に無意識に頬を擦り寄せてきた。
怒りはその頃にはすっかり失せて、変わりに目覚める気配のないことへの不安が頭をもたげる。何か――俺が留守にしている間に誰かに盛られたのではと焦った。
……ようやくファティマが目を開けた時には、室内はすっかり暗闇に浸されていた。
夜目の利く俺とは違い、全く利かないファティマはどんな夢見だったのか聞かずとも分かるような発言と共に起き出したかと思えば、何かを求めるように暗闇に向かって細い腕を伸ばす。
誰に伸ばしたつもりの腕かは知らないが、俺は引き寄せてその身体を抱き留める。「息災だったか」と耳許で訊ねれば、拒むかと思っていたその細い腕は強く抱き返してきた。
押し当てられる暖かな肌にここ一月分の渇きが疼いて、我慢が利かずにそのまま首筋に顔を埋める。
思った通り身体を強ばらせたファティマを構わず抱き締めれば、やや躊躇いがちではあるものの、再びその腕に抱き締められた。小さな掌が背中に這わされて傷の有無を確かめるように撫でていく。
安心したように耳許で漏らされた吐息に応えるように首筋に唇を当てれば、背中を撫でていたその掌が離れ、代わりに髪を梳いた。
ここ広大な【シャファーム砂漠】で絶大な権力を持つオアシス国家【アルラシード】では建国以来、純粋な王族の髪は太陽の色とされる金だ。
その歴史の中で唯一身分の低い母に手をつけて産ませた俺は、この太陽を崇める国で最も忌み嫌われる夜の色を持つ髪だった。
そんな王家の誰もが顔をしかめた黒髪に、細い指先が絡められては優しく梳いていく。何度も何度も絡められ、時折指先に遊ばせる感覚が髪を通じて頭皮に伝わる。
普段感じることのない眠気すら憶え始めた心地良い時間に。
――もうこの存在を手離せないと、強く思った。
しかし出迎えにも姿を見せずここで誰の為に着飾っていたのかと訊ねれば、ファティマは困ったように言葉を詰まらせる。
そのせいで解かれてしまった抱擁が、忘れかけていた苛立ちを俺に思い出させた。俺は逆らえないファティマの立場をを良いことに、その細い手首に用意していた主従の証をはめる。
これでもうここから、俺から、逃げられないし逃がさないと……そう分かりやすく脅したはずなのだが……。
ファティマはやはり頭が足りていない女なのか、そんな仄暗い欲望を抱いた俺を前にしてもあのラピスラズリの瞳で微笑んだ。
困惑した俺が最後通告に実際口に出して顔を近付けても、逸らされるどころか淡い笑みを一層深めたファティマはあっさり口付けまで受け入れた。
ラピスラズリの瞳に写り込む自分の不安げな表情を見て我に返った俺が身体を引けば、ファティマは薄紅色の唇に触れてこちらを見つめる。
その唇が、緩く笑みの形に持ち上がり、甘く囁く。
『……仰せのままに、嵐の王様』
吐息混じりの声に背筋が痺れる。国政を疎かにして私欲に傾倒した先王や兄の時代を俺がこの手で終わらせて玉座に座った直後から、今まで蔑み怯えを露わにしていた女達が情を交わせと迫ってきた。
中には寝所に押し掛ける不届きな女やそれに紛れた間者もいたので、女であろうと容赦しなくなった俺が――まさかもう一度だけその唇に口付けてみたいと思うなどとは……。
潤んだラピスラズリの瞳を前に何とか冷静さを取り戻そうと視線を逸らして「……ヴァシュラムだ」と名を告げる。そもそも“嵐の王様”は俺に対しての蔑称のようなもので呼ばれること自体好きではない。
するとそれを薄々感じ取ったのか、ファティマは少し考えるように目を伏せる。そして再び顔を上げると幾分残念そうに、
『嵐の王様も素敵だと思うのですが……貴方様がそう仰られるのであれば以後そうお呼びさせて頂きます』
と、言った。
『今朝戦場から戻られたばかりでお疲れでしょうに、たかが奴隷の為にここへおいで下さるだなんて……お優しいのですねヴァシュラム様』
ファティマが憶えたての俺の名をぎこちなく呼ぶ。
たったそれだけのことで、戦場から持ち帰った分厚く着膨れた敵の悲鳴や怨み声も身体から剥がれ落ちる気がした。
結局昨夜は『私はもう充分休みましたので』とファティマが言うので、そのまま彼女が眠っていた寝台を借りて休んだ。寝台の端に腰掛けたファティマが、異国の子守歌を口ずさむ。
何曲目かの触りを聴いた辺りで意識が溶けて、気が付けば日が昇り始めた空が白んでいた。
他人の存在を感じて眠りについたことが信じられない気分でいると、起き出した気配を察したファティマが顔を洗う為の水盤を持って現れる。金の鎖をはめたせいで昨日の装いそのままだ。
ファティマは俺の乱れた黒髪と服を整えると『気をつけてお戻り下さいませ』と深々と腰を折る。その少しよそよそしさを感じる動作が、昨夜の誓いの後では気に食わなかった。
腕を掴んで無理やり引き立たせてその唇に触れる程度の口付けを落とす。
途端に動揺で見開かれたラピスラズリの瞳が間近にあって、俺は少しだけ機嫌を直した。
別れて回廊を歩き出した背に扉が閉ざされる音が届かないことを疑問に感じて振り返れば、まだ部屋の前でこちらを見送っていたファティマと目が合う。控えめに振られる手の動きに合わせて金の鎖が“シャラリ”と鳴った。
大股で引き返したい気分になったものの、昨日放り出してきた先勝報告が山積みになっているであろう自室に急ぐ。
しかし頭の中ではファティマの世話に付ける女官の手配と、鎖をしたままでも着脱できる新しい衣類の手配を考えている自分がいた。
まだ人の気配の少ない早朝の宮殿内で出会う人間などいないと、少し高をくくっていたのだが……。
「ウーッス、大将、宮殿に戻っても朝が早ぇな。ははーん、さてはいつ寝首かかれるか分からねぇで怖いから眠れねぇんだな? よっしゃ、そんじゃあ今日から俺達の宿舎で一緒に寝かせてやろう」
自室の前にどっかりと腰を下ろしていた大男が、こちらに気付いて立ち上がりながらそう声を上げる。顔の下半分を覆うヒゲが豪快さを表しているものの、それがどうしようもない賊感を醸し出しているのも否めない。
俺と同じ黒目、黒髪ということもあって多少の無礼も許せる。あくまでも良識内の多少だが。
「……お前こそこんな早朝に俺の部屋の前で待ち伏せか? 俺を暗殺するつもりなら一応夜を進めるが」
起きて早々に目にするには押しの強い魔神のようなその様相に、思わず眉間にシワを刻んでそう言えば、大男――ジャズはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
愚かな先代達を屠っても、無茶な領土拡大をし続けたこの国は周辺国からかった怨みでもうどうにも身動きが出来ない。ジワジワと侵される国境線を破らせない為には、常に進軍して領土を広げて行くしかなかった。
砂漠に富を築いたオアシス国家の現状は、今や蜃気楼のように頼りない。戦線を少しでも下げれば、この国は今まで買った恨みの前にあっという間になだれ込まれて蹂躙されるだろう。
兵士となる若い国民を徴兵し続けたせいで出生率は下がり、流行病以外の人口減少率では近年で最高となった。
母親の身分が低く、ただの一将軍として戦場の最前線に居続けた俺は長く続く戦で国が疲弊していることも、その間に一族の働いていた暴挙も知る由もなかった……とは言い訳か。
仮初めの王である俺がいる中央には、もう何の力もない。侵略されればこの国は簡単に滅びる。戦う力を持たない多くの民を巻き添えにして。
せめて次の有力な支配者が現れるまでは国の体裁を整えようと雇ったのが、いま目の前にいる大男が率いる傭兵部隊だ。
金を払えば何でもこなす戦闘狂共の納得する金額を支払うのにある程度の略奪は許しているが、この大男の統制は厳しく、婦女暴行や無用の殺人行為を行わない。
それを気に入ってここ十年ほど重用しているジャズは、俺に気安い口を利くことを許されているとあって好き放題言う。たまに限度を超えて殴りつけることもあるが、概ね友好的だ。
「昨日はうちの連中の報奨金額の報告放り出して、一体どこ行ってやがったんだよ? まさか女か?」
俺がその手の話が嫌いなことを知っていてわざと煽る発言に、いつもであれば次の瞬間にもその脇腹に拳を見舞っているところだ。
――が、今朝からはあながち間違いでもなくなった。
目の前のジャズに位は教えても良いだろうと「あぁ、そうだ」と答えた俺の首に、太い腕が凄い力でぶつけられる。
突然の攻撃に目を瞬かせる俺の前で「男色かと思って心配してたんだ」と真顔で迫る顔面に取り敢えず拳を打ち込むことにした。




