*13* 終 焉
前半部分はファティマの視点で、
中盤からはヴァシュラム視点となっております。
――キャラララ、
――シャラララ、
聞き慣れたはずの鎖の音は、見ず知らずの空間の中ではやけに空々しく不安を掻き立てる。
ヴァシュラム様に案内された王族だけが知る秘密の通路の中を、私と一緒に地下牢に送られたあの青年が先導しながらランプをかざして歩いていた。
――レーフィアと、私と、エジヒトさん。
あの楽しかった日々を知るのは今ではたった三人だけになってしまった。
私は薄暗くてひんやりとした通路内をレーフィアと握り合う掌の温もりだけを支えに歩く私の髪には、まだ蕾が綻び始めたばかりのカロカの花が甘い芳香を零している。
あの目も眩むように幸せで苦しい告白の後……私に見せたい物があるとヴァシュラム様が抱き上げて連れて行って下さったのは、いつかレーフィアが摘んできてくれた中庭のカロカの園だった。
ヴァシュラム様はその中から特に大きな蕾を一輪手折ると、緩く結い直した私の髪に不器用な手付きで挿すと――、
『あぁ、ファティマに……良く似合うな』
そう、淡く微笑んで、私をより一層切なくさせた。
そんな風に微笑むヴァシュラム様に、私達の職種の女達の間で有名だったカロカの花にまつわるあの話をして聞かせると――あの方は少しだけ眉をしかめて、
『……さっきの台詞はここで使うべきだったか』
と、残念そうに言うものだから……私は自分から爪先立ってその唇に口付けた。
……あんなに、あんなにも、あの一瞬の私達はこの世の何よりも幸せを感じていたというのに――。
朝が来れば城は包囲され、ヴァシュラム様は悪政を強いて国民を苦しめた歴代の愚物の中でも、最後の愚王として討たれる。
そのあまりに理不尽な末路に納得出来ようはずもなく、何度も後ろ髪を引かれる思いで薄暗い通路を振り返るけれど、そこに求める姿が追い付いてくることがないことを……私はちゃんと知っていた。
知っていてもなお、振り向くことを止められない私に、エジヒトさんは「アイツは、一度決めたら二度と翻さないよ?」と可笑しそうに笑う。
その言葉に少し腹が立ったけれど、素っ気ないその言葉と裏腹にエジヒトさんが、ジャズさんやヴァシュラム様と深く理解し合っていることも知っている。
現にヴァシュラム様と城に残るジャズさんの率いる傭兵部隊の皆さんにも『せっかくなんだ。犬死になんてて安いことは言わないでさ、せめて連中に狼狩りだったって言わせなよ?』と笑い合っていたから。
最後に『じゃあな、嬢ちゃん達。ちゃんと幸せになれよ!』と何処か清々しそうに、楽しそうに笑って、別れの挨拶の為に私達に手を差し出したジャズさん達と並んだヴァシュラム様は、それを見て少し微笑んだ。
もしも私がジャズさん達と同じ“戦える男性”であれば、最後までお傍に置いていただけたのだろうかと思うと悔しくて――。
そんな詮無いことを考えながら最後の別れを告げる私を抱き締めたヴァシュラム様は『……来世があれば、迎えに行く』と耳許で囁くと、私の掌に金色の小さな鍵を握らせた。
――何の鍵なのかなんて、そんなことは訊くまでもないことで。
『これでもう、お前を縛るものは、何もない』
そう、残酷なほど身勝手な台詞を口にして、輪郭をなぞっていた冷たい指先が離れる。
そしてそれを合図に、ヴァシュラム様はエジヒトさんに私とレーフィアをくれぐれも頼むと言付けて私達をこの通路に送り出した。
徐々に閉ざされて行く石の扉に、ヴァシュラム様達の姿が隠れて……ピタリと閉ざされたあの時に、私の心の半分は死んでしまったのだと思う。
「――なぁ、ファティマ、その鎖……逃げる時に邪魔になっから、その、今だけでも外した方が良いんじゃねぇかな? 鍵なら、城出る前にヴァシュラム様にもらったんだろ?」
不意に手を引いてくれていたレーフィアが遠慮がちに私に言った。確かに薄暗い通路内で足捌きを阻害する金色の鎖は、ともすれば転ぶ危険性すらあるのだけれど……私はレーフィアの言葉に心が波立つ。
「……良いの」
「でもさ、ファティマ……」
「……良いから放っておいて」
「ファティマ……」
私とレーフィアの間の空気が瞬間ピリリと張り詰めた。彼女が正しいのは理解している。
盲目のエジヒトさんと手枷をつけたままの私。その二人を連れて逃げのびなければならないという精神的な圧力に、彼女と先を行くあの青年の焦りが見て取れる。
すると――そんな私達のやり取りを聞いていたエジヒトさんが些か大袈裟すぎる溜息を吐いて、言った。
「ね~あのさ、ファティマ? 薄々自分でも分かってるとは思うんだけど……キミ、足手纏いだよ」
そのとどめとも言える言葉に、張り詰めていた空気が今度こそ凍り付いた。
「なあぁっ……ちょっ、アンタ、ファティマに何てこと――!!」
「あ~もう、横からうるっさいなぁ。良いから、少し黙ってくれるかな?」
ついさっき冷たい態度を取ってしまった私を庇おうとレーフィアが口を開くより早く、エジヒトさんが面倒くさそうにそれを制した。
「――あのさ、ファティマ。キミはもう“自由”なんだよ? なのにどうして嫌々僕達と一緒に逃げてるの?」
私は一瞬エジヒトさんの言葉に呆けて首を傾げた。頭の中に漂う“自由”なる単語の意味を理解出来ずに言葉を失う私に、エジヒトさんは再び口を開いて言い直してくれる。
「ファティマ、キミはもうヴァシュラムのお人形さんじゃない。さっきも言ったと思うけど、アイツは昔から絶対に一度出した自分の言葉を曲げない。……となれば、後はキミのしたいようにすればいいんだよ」
月光が人型をとったかのような姿のエジヒトさんの言うその内容が、今度はストンと胸の内に落ちてきた。
「――キミは今日で破門だ。それじゃあ、バイバイ……お姫様?」
ずっと掴み所のなかった不思議な吟遊詩人で、たぶんその他にも色んな顔を持つ歌の師にそう告げられたら、もう。
お辞儀を一つ、金色の滴る鎖を抱きかかえて踵を返した私を止めようとするレーフィアに、鎖と対だった鍵を握らせる。
駆け出す背中に悲痛な声が届いたけれど……ごめんね、レーフィア。
私はいつか貴女が言ってくれたように、ヴァシュラム様のたった一人だけの神官で――最後まであの方の存在に縛られたままの自分でいたいのよ。
***
もぬけの殻になったファティマの部屋でぼんやりと朝を待つ俺の元へ、準備を済ませたらしいジャズが顔を出した。
「――よう、旦那、もうすぐだな。暇なら最後に一杯付き合わねぇか?」
そう言って貯蔵室からくすねてきたらしい葡萄酒を二本、ちらつかせた。ジャズらしい雑な気遣いに「それを言うなら一杯じゃなく、一本だろう」と苦笑する俺に向かってジャズは悪びれずに笑った。
部屋に入ってきたジャズと二人で床に胡座をかいて葡萄酒を一本ずつ手にすると、どちらともなくコルクを抜いて容器をぶつける。
鈍い陶器の鈍い音と、容器の中で揺すられた葡萄酒が“チャポンッ”と間の抜けた音を上げた。互いに無言のまま一気にあおれば、喉を滑り降りていく葡萄酒の香りが鼻から抜ける。
「――この葡萄酒も飲み治めだな」
「……おぅ、だな。この国は政治はからっきし駄目だったが、この国で造られる酒は美味かったぜ」
「ククッ――政治はからっきし駄目か。手厳しいな」
「ケッ、何を今更言ってやがんだ。事実だろ? 旦那はずっと戦うことしか求められて来なかったから、その辺のことはサッパリだったしなぁ」
それには答えずに再び容器に口を付けて喉に流し込めば、甘い酒も苦く感じた。しばらく何とも言えない沈黙が俺とジャズの間に流れる。
考えてみれば、戦場での働きを労って開かれる宴の席意外でこうしてジャズと酒を交わすのも初めてだ。ことファティマを手に入れてからはこの部屋に籠もることが殆どで、ろくに宴に参加すらしていない。
最初で最後の二人での酒宴かと考えれば、最後に何か礼を述べるなり、話した方が良いのだろうか? チャプチャプと葡萄酒の入った容器を揺すりながらそんなことを考えていたら――、
「――でもよ、旦那」
唐突にそうジャズが口を開いたので俺は容器を揺する手を止めた。視線をそちらに向けると、ジャズはらしくもない生真面目な面持ちをしている。
「旦那は、無理に俺達と朝を待たなくたって良いんだぜ?」
返事を返す間もなく思ってもみない台詞を吐かれたことに一瞬目を見張ると、ジャズは苦く笑った。
「どうした、旦那。いつも感情を出さないアンタらしくもねぇな?」
「……お前が急に馬鹿なことを言い出すからだろう」
「馬鹿はどっちだ、旦那。アンタは最後まで付き合いが良すぎるぜ」
「…………」
「嬢ちゃんを追いかけるなら――」
「もう良い。もう、終わったことだ。それ以上は口を慎め……傭兵隊長」
語気を強めるつもりが、口から零れたのは溜息のような低い声だった。
最後の有象無象を飲み下そうとあおった葡萄酒の味も良く分からないまま、ジャズの真剣な眼差しから逃れるように逸らした視線の先に――。
「まー、あれだ……あっちさんの方が旦那よりも潔良かったってこったな?」
ポン、と労うように俺の肩を叩いて立ち上がったジャズが、愉快そうに破顔して部屋を後にする。
残されたのは、
金の髪に象牙の肌。
ラピスラズリの、あの瞳。
金色の鎖が滴る腕を広げるその姿。
――空が白んで、砂漠の夜明けが近付いて来る。
***
――ついに日が昇り、凄惨な歴史の幕引きの朝が来た。
朝の光をその背に受けて城内に乗り込もうとする義勇軍と、それを少しでも押し返そうとするジャズ率いる傭兵部隊が城の前で激しくぶつかる音が響いてくる。
俺はと言えばそんな音を耳にしながらも、まだ諦め悪く暴れるファティマを隠し通路に連れて行こうとしている真っ最中だった。
「や……っ嫌! 嫌ですヴァシュラム様!! 嫌ぁっ!!!」
担ぎ上げられる格好になったファティマが、鎧を着込んだ俺の背中や腹を容赦なく殴り、蹴る。時折その爪先が腰の剣帯に引っかかってファティマの足を傷付けないかとヒヤリとした。
それに振動を身体の内に多少感じる程度の俺とは違い、さっきから視界の端に映るファティマの拳には血が滲んでいる。
「お前はっ――、無駄なことをせずにジッとしていろと何度言わせる気だ!」
足許に血の雫が落ちて大理石の床を汚した時、ついに俺は怒りを爆発させた。担がれたファティマがビクッと身体を震わせるが、もう遅い。
「――いい加減に聞き分けのない真似をするなっ! その枷も……どうして外してエジヒト達と共に逃げなかったのだ! どうして、何故っ、お前は――また俺の前に現れるような愚かな真似をしたんだ!?」
担いでいたファティマを乱暴に床に下ろし、その細い両肩に指が食い込むほど強く掴みかかる。肺の空気が一気に失われて喘ぐ俺に、ファティマは幼子のように頭を振った。
「俺はお前を死なせたくない! 国を失い、この上お前まで喪いたくはないのだ! ――なのに、何故お前は黙って護られてくれない……何故分かってくれないのだ!?」
そんな暇はないのにガクガクとファティマの爪先が床から離れるほど強く揺さぶってみても、ファティマは強情に頭を振り続ける。
それどころか血塗れの拳を振り上げて応戦してくるファティマに、俺の苛立ちは募るばかりだ。
そのたびにキャリリ、カチャリと鎧に引っかかる鎖のせいで、枷の部分がこすれて手首から出血し始めたファティマを見ていられなくなった俺は、苛立ちも相まって腰の剣帯に収めてあった湾曲刀をスラリと抜いた。
抜き放たれた刃の輝きに驚いたのか、ファティマの視線が刀身に集中する。俺はそんなファティマを無視して手繰り寄せた鎖に刃を振り下ろした。
柔らかな金で出来た華奢な鎖は容易く砕けて、星のように床に散る。
軽やかに床を叩く金の欠片を見て正気に戻ったファティマは、慌ててまだ長い鎖を引き戻そうとするが、俺はそれを許さずに手首から程近い箇所を狙って斬りつけた。
再び砕け散った鎖の欠片が逃げまどうように床に広がるも、ファティマは唇を噛んでそれを眺めただけだ。
「――これで分かっただろう、ファティマ。これから死地に向かう俺に、お前はもう必要ない」
しかし“必要ない”という言葉に俯き、肩を震わせるファティマを今度こそ抱えなおして通路に向かおうとした俺の背に……突如地響きのような怒号と歓声が届いた。
――戦でのこの歓声の上がり方と怒号の意味を、俺はよくよく知っている。
――そして、この歓声がどちらの側に戦の軍配が挙がったのかも……。
「通路まで連れて行ってやりたかったが――すまんな。どうやら時間切れのようだ」
憑き物が落ちたようにスゥッと頭に上っていた血の気が、徐々に四肢に広がって行くのが分かる。
そしてすぐさま襲ってくる脱力、虚無、焦燥……その全てがない交ぜに渦巻く心で剣を手にしたまま踵を返そうとした俺の腰元に、ファティマがしがみついてきた。
「……ファティマ、頼む。これ以上俺を困らせないでくれ、揺さぶらないでくれ。俺はもう行かねばならん。俺がこの首を討たれて初めて……戦が終わり国が滅びるのだから」
しがみつく手は俺の腰の前で堅く結ばれて、ファティマは無言のままはっきりとした拒絶を示す。
「ファティ――、」
「……でしたら、そうすることでしか戦が止まぬと仰るのでしたら――! お願いですヴァシュラム様、私に貴方を下さいませ。他の誰かに討たせる位ならどうか、どうか……私に下さいませ」
名を呼んでその細い指を解こうとした俺の耳に、およそファティマに似つかわしくない言葉が飛び出した。
普通の娘の口から零れることなど決してないだろう、その狂気に満ちた発言に、俺は指を解こうとすることすら忘れてファティマを振り返った。
「嵐の王様。私の王様。誰が貴方の首を討ったところでこの戦が終わると仰るのでしたら、どうか、このファティマに貴方の命を下さいませ――」
狂おしいほど強く、儚く、その細い腕が甲冑越しに俺を抱いた。
こんな時にもかかわらず俺の胸の内を占めたのは驚きと、今まで感じたことのないような、これは……幸福感、だろうか?
と――不意に鼻先に焦げ臭いものを感じる。
大方、城の表でまだ中に人間を炙り出そうというのだろうが――残念ながらここにはもう俺とファティマしかいない。完全な取り越し苦労だ。
しかし全く無駄な火攻めと違い、その向こうから聴こえる王の死を望む民の歌声はなかなかに堪えた。
――ずっとこうなるように生きていても、尚も。
尚も“自分のせいではない”と心の中で叫ぶ浅ましい自分が憎かった。無能が無能ではないと叫ぶ姿が醜いものだと、父や兄を見て嫌と言うほど分かっているはずだというのに。
――なのに、それがこうも“寂しい”などと――。
「……そうだな、ならばファティマ……お前も一緒に果ててくれるか?」
さっきまではファティマを生かそうと必死であったはずなのに、気付けば口を吐いてでたのはそんな言葉だった。
「……っ、勿論ですわ。私の王様」
胸に彫り込んだ大輪の花のように微笑むファティマの髪からは、姿はないが微かにカロカの残り香がした。
求められて、追い立てられて。
ただひたすらに、走った、走った。
連戦、常勝を期待され、演じきったその先が。
たとえ奈落に続こうとも。
「あぁ――こうして俺を愛してくれるような物好きは、きっとお前だけだな、ファティマ」
――微笑みを交えて手にした剣の柄を、一緒に握る先にある奈落ならば。
――きっと、そこより素晴らしい場所は、この世のどこにもないだろう。




