*10* 足 音
ヴァシュラム視点です。
随分と――懐かしい……夢を見た。
ピクリと痙攣するまだ重い目蓋を持ち上げて、欠伸を噛み殺す。そして目の前に積まれた書類の束が全く減っていないことに辟易する。
夢見の気分のまま、執務室の座り心地だけなら良い椅子に座り直す。
「今のは……あの日の……ファティマと出逢い、あの尖塔の上から共に市街を見下ろしてからもう四年か」
口に出してみても未だ実感のない四年間だ。実質一年の内の七ヶ月ほどしか城にいない俺にとってみれば、暦の上で経つ四年間をファティマと過ごした気分にはなれない。
現にこうして城にいようが書類整理などに忙殺されて、なかなか渡りが出来ないことも多くある。しかしいくら嫌いな書類整理も信頼の置ける文官がいないこの城では、自分で目を通さなければ何が起こるか分かったものではない。
「――ハッ、まるで王のようではないか」
俺が城にいない間の文官達はやりたい放題に私腹を肥やし、政治は荒れているとお抱えの吟遊詩人であるエジヒトからの報告も度々こちらに上がってきている。
エジヒトは一応は我が国の間者ということになっているが、あの食えない男のことだから恐らく他の国にも飼われているのだろう。こちらとしては報告を上げてくれれば問題ないので放置している。
最早子飼いの間者一人に情報を売られたからどうということもないほど、この国は傾きを増しているのだから。どれだけ戦果を挙げても、勝利を治めても、年々着実にこの国は衰退して行っている。
そしてそのたびにどれだけ凄惨に始末しても、一度覚えた蜜の味を忘れられずにその時は目こぼしをしてやった文官が悪事を働く。因襲となっているこの悪循環のせいで、城に残った文官はごく僅かになってしまった。
「俺の求心力と統治力のなさがそうさせるのだから……自業自得と言うやつだな」
深くかけていた腰を浅くかけ直して再び書類整理に取りかかる。書類の中でも出国者の数字が緩やかに増えているのが目に付いた。同時に、閉じた商店の数も。
その大体が商人の一族なので、彼等にしてみればこの国にはもう得るものが何もなく、残ったとしても危険しかないことが分かっているのだろう。
「あぁ、そうだ――逃げろ逃げろ。賢いものだな、城の文官共より市井の商人である彼等の方が余程世情を見ている」
早く大切なものを持ってこの国から失せろ。まだ焦臭いことに周囲の国が気付く前に逃げおおせれば良い。そうでなければ……。
「――戦渦に巻き込まれる前に、出来るだけ多くの物を持って出ていけ」
ぼんやりと呟きながら書面を撫でる。戦場のことならいざ知らず、政治のことなどまるで無知な男がその政のトップだという事実。我がことながら嗤える話だ。
鬱々とした気分になりながら山積みの問題解決に向けて、もう一方の気になる書類に視線を走らせる。
「……またオアシスから湧き出る水の量が減ったか」
ここ数年で徐々にではあるものの、王家が管理しているオアシスの水位が下がっていた。国の中でも市場が立ち並ぶ場所に水路を引いてあるため、民はそこから生活に必要な水を得ている。
したがってそのオアシスから湧き出す水の量とはすなわち、民の命の重さと同量ということだ。四方を砂に囲まれたこの土地で、オアシスの庇護を求められなくては戦にならずとも国は滅ぶ。
まだ今すぐにオアシスが枯渇することはないだろうが、さてそれもあとどれだけ保つか……。
暗澹とした気分で書類を見つめていた俺の耳に、大理石の上を聞き慣れた涼やかな音が近付いて来るのが聞こえる。俺は一旦書類を机の端に寄せて扉がノックされるのを待った。
扉の前で音が止まってからややあって、控えめなノックがされる。その動きに合わせてシャララと扉越しに音が聞こえた。
『ヴァシュラム様、ファティマです。お部屋に入らせて頂いてもよろしいでしょうか?』
音で充分に来訪を告げていると気付いても良さそうなものを、ファティマは未だに律儀に俺に入室の許しを乞う。それもまた彼女らしさだと思えば好ましく、俺は苦笑しながら「入れ」と答えた。
扉のノブがぐるりと回り開いた扉の隙間からファティマが「失礼します」と顔を覗かせたかと思うと、ワゴンを押して室内に入ってくる。
小さく俺に会釈したファティマは扉の向こうにいるお付きの女官に「ついてきてくれてありがとうレーフィア。また後でね」と告げたのだが――、
『うん? 良いって良いって、久し振りに甘えてきなよファティマ』
と返す女官に何か言い返そうとする間に『アタシもまた仕事が終わる頃にこっちに寄るからよぉ』と畳みかけられて走り去られてしまったようだ。
先ほどまでの沈んだ気持ちがなりを潜めて、やや愉快な気分でその後ろ姿を観察する。その緩く結い上げられた金色の髪が一筋、うなじから流れ落ちて揺れるのが何となく視界に入った。
「あ、の、お……お忙しいところにお邪魔してしまって……その、」
そろそろと振り返ったファティマのラピスラズリの瞳が、俺とワゴンに載せられたティーセットの間で揺れる。このセットを持ってきてかけられる言葉など予想するまでもないのに、俺はわざわざファティマの言葉を待つ。
今日のファティマの装いは薄い水色のシンプルなドレスに、赤い名前も知らん花の髪飾り。腕にはいつものように金色の鎖が滴って、床に当たってはキャララと鳴いた。
「ここしばらく……ずっとお城におられるのに、あの、お顔を見ることが叶わず……さ、寂しくて……来てしまいました。少しの間だけでも、私と、お茶を」
――思わず椅子を激しく引いて立ち上がる。ファティマは急に大きな音を立てて立ち上がった俺が大股で近付いて来たことに驚いた表情をしたが――そんなことは知るものか。
俺はファティマを正面から抱き締めてその耳許に囁いた。
「……来るのが遅い、この馬鹿者」
抱き締められた腕の中で驚いた表情で俺を見上げた様子から一変、蕩けるような笑顔になったファティマは夢で見た四年前の頃よりも――。
もっとずっと、俺の心に近しい存在になっているようだと感じるのだ。
***
ファティマの持ってきてくれたお茶は以前さっきの女官、レーフィアが休暇に街で購入してきた土産だそうで初めて飲む味だった。
「ほぅ、市井の茶葉は初めてだが……なかなか飲みやすくて旨いな」
さすがに単に毒が入っていないだけかもしれないが、とは言わずにおく。
「まぁ……ヴァシュラム様のお気に召して頂けたようで嬉しいです」
俺の隣で同じ茶を飲んでいたファティマが頬を緩めるのを眺めながら、久し振りに穏やかな気分を味わう。戦場も城も俺にとってはさほど代わり映えのしない環境というか、落ち着かなさはほとんど同じだ。
この部屋で来客用の応接セットがここで役に立つのは初めてのことだが、置いておいて良かったと隣に座るファティマを眺めて思う。
書類仕事は基本的に机の上で行うが、客人と集まる場合は床に敷いた敷物の上で車座になって銘々に手近なクッションにもたれて座る。例に漏れず俺とファティマも大きな一つのクッションに二人でもたれかかってくつろぐ。
すぐ近くにあるうなじに零れた金色の一筋を指先ですくえば、くすぐったかったのかファティマがピクリと肩を揺らす。その反応が気に入ったので、少し意地が悪いとは思いつつ髪がわざとうなじを擽るようにすくい上げる。
すると象牙色の肌が粟立ち、目許を赤くしたファティマが俺を睨んだ。ラピスラズリの瞳に羞恥の色を見て取った俺は、喉の奥で笑う。
そんな俺を見たファティマは手にしていたカップをトレイの上に戻して、せっかく結い上げていた髪を解いてしまった。
「……何だ、似合っていたのに勿体ないな」
「そんなことを言っても駄目ですよ、ヴァシュラム様」
「もう一度ファティマが髪を結い上げた姿を見たいものだが」
「もう、どうせ結い上げたらまた今のような悪戯をなさるのでしょう?」
クスクスと笑うファティマを抱き寄せるために、俺も手にしたカップをトレイに戻す。意図に気付いたファティマが身体を少しだけ寄せてきたので、膝の上にその身体を抱き上げた。
「ひゃっ!?」
てっきり肩を抱き寄せられるだけだと思っていたらしいファティマが、膝の上で声を上げる。その様子がおかしくて、俺はファティマの首筋に頭をもたれかけ、またこみ上げてくる笑いを堪えた。
すると耳許で「もう……」と呆れた声を出したファティマが俺の頭を抱え込む。すぐ傍にファティマの心音を感じて目蓋を閉じる。大人しくなった俺の髪を、ファティマの指先が優しく梳いた。
そのたびに、キャララ、シャララと涼しげな音が耳朶に心地良く――鬱々としていた心を慰める。長い金色の髪がファティマが首を傾げることで、俺と外界を隔てる目隠しになった。
「ヴァシュラム様……何か、歌いましょうか?」
外界から覆い隠されて甘い声でそう囁かれると、それだけで首の後ろがゾクリと粟立つ。それを誤魔化すように首筋に口付けを落とせば、ファティマが小さく身じろいだ。
「――今は、良い。ただ……そうだな……少し話をしても良いか?」
「えぇ、私などでよろしければ喜んで」
そう言って髪を指に絡みつけるファティマの言葉にムッとしたので、叱る代わりに首筋にさっきより幾分強く口付けてやった。すると今度は耳許で小さく「ひぅ!?」と悲鳴が上がる。
……自爆に近い馬鹿な真似をしたことを少し反省した。
ほんの数分気まずい沈黙が俺とファティマの間に流れたが「ヴァシュラム様?」と気遣わしげに呼ぶ声にハッとする。
「あ……あ、すまん。話というのか、愚痴というのか分からんのだが……」
「――はい」
「もし――愚かな王に統治された国が滅びるとして、お前はその最後の時どんなことを思う?」
自分で言い出しておきながら何が“もし”だと胸の内で暗く嗤う。他者に答えを乞うたりすればよりその惨めさが増すだけではないのか?
しかもそれを俺に逆らうことの出来ないファティマに訊ねるなど……どうかしている。
「すまん、ファティマ。今の言葉は――、」
“忘れろ”と動かそうとした唇にファティマの指の腹が触れて、その先をやんわりと封じた。
「……ヴァシュラム様、人はまるで果実のようだと思いませんか?」
うっすらとその唇に微笑みを浮かべてファティマが言う。黙り込んで半分影に隠れたその顔を眺めると、ファティマはそれを“是”と受け取ったようで、頷いて言葉を続ける。
「年を経るほど腐るのに、若くて青いと食べられない。若くて青いと毒だけど、熟れるのと腐るのの間には、食べ頃がありますから」
ファティマが歌うように紡ぐ言葉に意識が吸い寄せられる。
「若くて青いは無知な毒。熟れる頃には多感になって、瑞々しさを失えば朽ちて落ちるだけですよ」
首を傾げるファティマが俺の頬を甘やかすように優しく撫でた。その顔がゆっくりと近付いてきて――。
「人も、国も、終わりの理など同じです。若い時代は過ぎるもの。栄えた時代もまた同じこと。だから――ヴァシュラム様」
額に口付けを落としたファティマが、再び正面からラピスラズリの瞳で俺を覗き込む。
「栄えた頃に体よくしがみついておきながら、傾いたところで誰かのせいにしようなどと都合の良い。無知ならそのまま腐り落ちれば良いのです。ですから、ヴァシュラム様。例えこの国の終わりが近いとしても……貴方様の責任など何も、何一つあり得ません」
そう強い光を宿したラピスラズリの瞳が妖しく燃える。それと同時に絡みつけた髪を引っ張る指に一瞬ギュッと力が籠もった。
その瞳の光にまるで溺れる人間のようにもがいてしがみつけば、ファティマもまた、掻き抱くように俺の背中に腕を回す。
ここまで密着する関係にありながら、一度も抱いたことがない女もいないものだとふと思う。
――それだけ俺は、ファティマに……。
浮かび上がりかけた愚かな言葉を砕いて、再び深く胸の内の砂嵐に紛れ込ませる。頭の片隅で警鐘を鳴らす音が鳴り響くのに、何度も角度を変えて交わした口付けは――甘くて苦い、熟れて朽ちる寸前の果実の味がした。




