*9* 褒 美
ファティマ視点です。
あの後、食事を待たずに眠りについてしまったヴァシュラム様の寝顔を眺めていたはずなのに……いつの間にか太陽が真上にある。
ヴァシュラム様達がお戻りになられたのは夕方だった気がするのだけれど、これは――まさか?
恐る恐る寝台から身体を起こすと、肩から自分でかぶった覚えのない夜具が滑り落ちる。あぁ、うん、間違いない。
私はヴァシュラム様の前で熟睡したばかりか、主人よりも後に起きるという最低な失態をしてしまったらしいわね……。
その証拠に開かれたドアから顔を覗かせたレーフィアが、私の顔を見るなり大袈裟に――いえ、現状を考えれば大袈裟でもないけれど……呆れた表情で入ってきた。
「はーぁ、その様子じゃ、ファティマってば今やぁっと起きたとこだな?」
「あ、はい……」
「王様が寝かせておけっつーから放っといたらこれだもんなぁ? あ、王様 なら日の出と一緒に仕事さ行ったよ。何でも、戦の功労金? の計算だとか何だとかの書類整理だって言ってたっけな? あと――日課の散歩に来ねぇから、あの軽薄そうな吟遊詩人が心配してたよ」
「えっと、はい……」
「んでな? アタシも本当ならそのドレス着替えさせてやりてぇとこなんだけどよ。王様が昨夜はきちんと見れなかったから、起きたらその格好整え直すだけにして、夜まで待てってさ」
「えっ、でも皺だらけに……」
「んー、アタシもそう言ったんだけどよぉ? 何か勿体ねぇから、だって」
そう言って肩をすくめるレーフィアから視線を皺だらけのドレスに戻す。そんなにこのドレスの淡い薄紫色が気に入ったのだろうか?
確かに薄いシルクを幾重にも重ねたデザインで、裾の重さに引っ張られて流れるように落ちる形はあっさりとしていながらも美しい。背中が開いていないのも私にとってありがたかった。
――背中の鞭や火傷の醜い傷跡を晒すのは気が引けるもの。
ただ、シルクとは言ってもここまで薄い生地を透けないように重ねれば、それなりに扱いにくいのは自明の理であるわけで……。
「ファティマ……王様はああ言ったけどよ、やっぱあれだ、取り敢えず一回脱いでくれな? どうにかしてその皺伸ばす方法を考えねぇと。せっかくの逢い引きが台無しになっちまうよ」
「あ、あ、逢い引き――!?」
「んな今更それっくれぇのことで真っ赤になんな。王様が珍しく上機嫌で言ってたよぅ? 『昨日のファティマは情熱的でなかなか良かった。訊いたぞ? お前の指導らしいな』だって。お小遣いにしちゃ大きいお金もらえたから、これで今度街に出たときファティマにも何か買ってきてやるよ」
「ヴァシュラム様がそんな――、ううぅ、久し振りにお会い出来たのが嬉しかったからって調子に乗ったりして……私の馬鹿ぁ……」
昨日の自分の行動を思い出した私は、再び夜具を被って寝台にモソモソと潜り込み恥ずかしさから頭を抱えたのだけれど――。
「ほぉら、ファティマ! いい加減グダグダ言ってねぇでさっさと起・き・な!!」
私の上に覆い被さるようにレーフィアがのしかかるせいで寝台が弾む、弾む。
強引に夜具を引き剥がそうとするレーフィアと、奪われまいとする私の攻防戦から発展した悪ふざけは思いの外白熱して……。
気が付けば私は図らずもヴァシュラム様のご要望通りの姿で、夕暮れ時を迎えてしまって――あぁ、もう、本当に馬鹿ね……。
***
「――昨日より随分と斬新なドレスになったようだな?」
何とか少しでも皺を伸ばそうとレーフィアと苦心したというのに私の姿を見るなり開口一番、ヴァシュラム様は笑いを噛み殺した風にそう仰られた。
――やっぱり無理があったのよレーフィア。
部屋から送り出される際に『もしもの時は皺を模様 だって言や良いよ。王様はそういうのに疎そうだから、胸張ってりゃバレねぇさ!』とか無茶を言っていた気もするけれど、論外。
――むしろ誰が見たってみっともないこの姿で胸を張ってそう言えたら、凄いと思うの。
この見窄らしさを誤魔化すのに、金色の鎖と右の胸に咲いた赤い大輪の花はとても役に立ってくれているようには思うけれど……不安に逆らえずに左肩に流した髪に触れる。
「私も、こんな姿でヴァシュラム様のお傍に寄る気には、なれません」
「ふん……馬鹿が、構うものか。俺がその姿で良いと言ったのだ」
そう直前まで浮かべていた淡い笑みを消し去って、不機嫌に眉をしかめたヴァシュラム様が、私に向かって一歩踏み出す。真正面に立つ寛いだ装いのそのお姿に、私の胸は高鳴った。
「俺が――この姿を見たかったから呼んだのだ。昨日はせっかく着飾ったお前の姿をまともに見る前に眠ってしまったからな」
少し躊躇いがちに伸ばされた手が、私の髪に触れて。
「この色も、良く似合うな……。お前の象牙色の肌は、不思議とどんな色にも馴染む。まるでお前の歌声のようだ」
咄嗟に、天恵のように私は思う。
いまここで死ねたなら、きっと。
この世界は美しい物だった、と。
そう思えるはずなのに――私は諦め悪く、意地汚く、この世界にしがみつきたいと思った。
ヴァシュラム様の手を取ってその硬い掌に頬を摺り寄せれば、シャララ、と金の鎖が涼やかに。
……一瞬だけ驚いた表情をしていたヴァシュラム様が、私に向けて微笑みかけるこの“幸福”を私はどうすればお返しすることが出来るのだろう?
「ヴァシュラム様……昨日の歌はお気に召して頂けたでしょうか?」
おずおずと私がそう訊ねれば、ヴァシュラム様は可笑しそうにその笑みを深めた。
「あぁ、当然だ。それに――オドネルから聞いたぞ? 俺の為に必死であの人格破綻者の吟遊詩人から手解きを受けたのだろう? あの男はウードの腕前と歌だけなら国内に並ぶ者はないが、性格が悪いからな」
ふと、その笑みが苦笑に変わる。
そこで初めて、ヴァシュラム様と吟遊詩人であるエジヒトさんが知己なのだと知り、間柄をもう少し詳しく知りたくて訊ねてみれば「あれは父の代から付き合いのある宮殿楽師だ」と至極当然な答えが返ってきた。
考えてみたら、あれだけの数の歌を諳んじて奏でる人が、その辺りにいる流れの吟遊詩人であるはずがなかったのだわ……。
けれどだとしたらエジヒトさんはかなりの童顔か、才能の突出した神の寵児だと思う。どちらにしても凄いことだ。
そして不意に、自分の浅慮さに頭を抱えたくなっていた私の髪を弄んでいたヴァシュラム様の指が離れる。髪に体温を感じることなどないはずなのに、私の髪はヴァシュラム様の指の温もりを失ったことを嘆いた。
私のそんな気持ちを知ってか、知らずか……ヴァシュラム様は「ふむ」と一つ考え込むように顎を撫でてから、ニンマリと笑んだ。
「そうだな――ファティマ、お前に俺の宝物庫を見せてやろう。レーフィアに与えておいてお前に何もやらないようでは、俺の気が済まんからな」
悪戯っぽくニヤリと笑んだヴァシュラム様はそう言うや、私の答えなど聞かぬまま抱き上げ、宮殿内の宝物庫とは逆の方向に歩き出した。訳が分からないまま、彼の首筋にしがみついてその横顔を見つめる。
しかしその横顔は先程までの悪戯っぽさがなりを潜めて、どこか、そう。上手く言えなくて歯痒くなるけれど……どこか、泣いているようにも見えた。
黙々と力強く歩を進めるヴァシュラム様の腕の中、懸命に手繰っても手繰りきれない金の鎖が大理石の廊下を滑って、キャララ、シャララと音を奏でる。
手を伸ばして慰めたくなるのに、華奢な金の鎖が大理石に負けて今にも欠けるのではないかと、私にはどちらも気が気ではなかった。
その間、ヴァシュラム様は一度もこちらに視線を投げかけることもなく、私もおいそれと声をかけられぬまま口を噤んだ。
そして――そうこうするうちに辿り着いたのは、宮殿で一番高い尖塔の最上階だった。
「……この窓から外を見てみろ」
私は言われるままそこから市街を見下ろして……その美しさに息を飲んだ。
――金、銀、珊瑚、瑠璃に玻璃――
尖塔の上から見下ろす色とりどりの街の灯は、大気に揺らめき、まるで無造作に地上にばらまかれた宝石さながらに輝いた。
あまりの光景に言葉を失い窓辺に立ち尽くす私に、横に並んだヴァシュラム様を見上げれば、ヴァシュラム様は私の反応に満足そうに微笑んだ。
けれどやはりその表情に翳りが見える気がして……私はその手を緩く握る。するとすぐに大きな冷たい掌が私の手を包み込んできた。
「……母が、」
ヴァシュラム様の唇が躊躇いや戸惑いを含んだまま、動く。
私はヴァシュラム様のお心が整うまで、続く言葉が降るのを待った。
「昔――まだ俺が幼い頃……母に今のファティマのように、時々ここに連れてこられたことがあった」
遠くを眺める眼差しは過去を懐かしむと言うよりも、古いタペストリーの絵を読み解こうと頭を悩ませている風に見える。それとも純粋にヴァシュラム様にとってお母様との思い出は少ないのかもしれない。
どの道、物心付いた時にはあの“セカイ”にいた私にとっては、親が自分にもいるという意識事態が希薄なので、ヴァシュラム様の心中をお察しすることは出来なかった。
「……母は、心の弱い女だった。感受性が豊かだと言えば聞こえも良いが――ある日、まだ幼い息子を残してここから身を投げた。後ろ盾のない、望まれなかった息子がその後どうなるかなど考えもせずに」
冷たい指先が握り込んだ私の手の甲を撫でる。私は地上に視線を落としたまま、険しい表情の裏に少しの寂寥感を滲ませて……。
その視線が今もまだこの尖塔の下で息絶えた母親を探す子供のように見え、私は何だか堪らない気持ちになる。こんな時は、どう言葉をかければ良いのだろう。
哀しまないで?
憎まないで?
傷付かないで?
あぁ、違う、きっと――、
「……ファティマは、何があろうと“ここ”におります」
ずっと、ずっと、この幸福にどんな終わりが来ようとも――。
「――ファティマは、お許し頂けることなら……いいえ、もしも頂けないとしても……ヴァシュラム様のお傍におります」
しかしヴァシュラム様はそんな私の言葉に視線を向けることもなく、懐疑的に唇の端だけで微笑む。その態度はいくら私とはいえ、少し小憎らしい気持ちにさせられる。
だから、私は敢えて触れずにいたことに言及してみることにした。
「ヴァシュラム様、此度の戦の目的についてオドネル様から少しお聞きしたのですが――私のいた店に、三十番の娘はおりましたか?」
冷たい指先がピクリと動いて、ようやくその視線を私に向けて下さる。常であれば琥珀色の鋭い双眸が、今は動揺に揺れていた。
「……ヴァシュラム様、どうかオドネル様をお叱りにならないで下さいませ。元はと言えば私が貴方様の不在に心をすり減らしていたのを、見るに見かねて教えて下さっただけなのです。いつまでも悪夢に魘される私を解放する為に戦いに出られたのに、当の私が弱っては元も子もない、と」
冷たい指先が私の手の甲に食い込み、細く血が滲む傷が出来たけれど、そんなことは気にもならない。私のような身分の女の為に、この方が心を揺らしてくれることの方が、ずっとずっと、嬉しくて――。
歪んだ満足感が胸の内を一杯にする。
「あの店で一度に番号をふられるのは三十人までなのですが、その時店で一番若い娘に“三十”の焼印を押すのです。あの娘はどうなりましたか? 無事にこの国に逃げ延びて来たのでしょうか? それとも――……」
不意に言葉を続けようとしていた私の頬を、温かい水が滑り落ちた。
不思議に思って空いた方の手で頬を拭えば、それが自分の眦から零れたのだと分かる。何故ほとんど言葉を交わしたこともない娘の話をするのに涙が零れたのか、自分で自分が理解出来ない。
その時――急に身体が前に傾いで、少し遅れてヴァシュラム様に抱きしめられたのだと気付いた。
「……すまん、ファティマ、その娘は……俺が着いた時にはもう、駄目だった」
絞り出すように苦しげなヴァシュラム様の声に、抱きしめられた腕の中で私は小さく頷く。駄目だった、と言うことは……あの娘はやはり“壊されて”しまったのだろう。
「俺が出来たのは、あの娘に“終焉”をくれてやることだけだった。半数以上の女は……もう」
痛いほどにきつく抱きしめられる腕の中で、私は震える溜息を吐いた。それはここでこうしていることが後ろめたさ……ではなく。
――この幸福に選ばれたのが私であったことへの薄汚い喜びであったのかもしれない。汚い胸の内をヴァシュラム様に知られることが怖くて、そんな浅ましいことを感じた自分が心底疎ましかった。
「……あぁ、だが許してくれ、ファティマ」
首筋に温かい重みと吐息を感じて身動ぎすれば、ヴァシュラム様が急に私への懺悔を口にする。何のことか分からない私が言葉を待っていると、細い呻きのような言葉が返ってきた。
「俺は……あの中にお前の姿がないことを、生まれて初めて“神”とやらに感謝した。あの中に……お前の友人もいたかもしれないというのに」
そう言ったヴァシュラム様が「こんな俺を軽蔑するか?」と小さく、小さく、訊ねてこられるものだから――……狡いと分かっていながらも私は、無言でその唇に口付けた。
重なった唇からは一瞬だけヴァシュラム様の戸惑いを感じたけれど、それもすぐに強く押し付け返される唇に掻き消される。
――金、銀、珊瑚、瑠璃に玻璃――
尖塔の下、ヴァシュラム様の哀しい記憶を思い起こさせる憎らしい市街の灯りは、悔しいほどに美しく瞬き続けた。




