黄金の竜
一度だけでも訪れてみたかった、総本山――。
赤茶けたヤァエンの町とは、見るものすべてが違っていた。
馬車が二台、余裕をもって通れるほどの広い通りと、その両脇に並ぶ白い石壁の民家。ヤァエンでは赤い日干しの煉瓦が壁だけでなく屋根にまで使われているのに対し、ここでは深鼠色の上等な瓦が屋根に隙間無く並べられている。窓には透明な硝子がはまり、少し肌寒い空気を遮断している。足元には、描かれたモザイク画のような石畳が敷かれて、その上を馬の蹄と、馬車の車輪が回るからからという音が鳴り響いている。
なんて区画され計算された美しさだろう。砂埃が霧のように舞うヤァエンとはまるで違う、澄んだ山麓特有の空気が流れている。
そしてなにより一番に目に飛び込むのは、極彩色に彩られた宮殿だ。
「どうじゃね、ヤァエンと違って驚いたであろう」
馬車のわずかな窓の隙間から流れる風景を見つめていたキトリの背中に、レビニタが声をかける。
確かに、ヤァエンとはまるで違う。
ここまでだとは思わなかった。これではまるで他の国ではないか。
「なんていったらいいか…」
きれいだと、素直に言っていいものだろうか。これを、この違いを貧富というのではないだろうか?
露天に並ぶ食べ物や衣類。装飾品に、色とりどりの布、菓子。土産にもらったときは嬉しかったが、こうして並べられるとはっきりと自覚してしまう。質も色も値段までも、ヤァエンとは違う。通りすがりにちらと目にしただけだったが、布ひとつとってその値段はヤァエンの民が二週間をゆうに暮らせるようなものだった。
食べ物に苦労したことはなかったし、ヤァエンの人たちが飢えているとも思えない。それどころか衣食住は問題なく潤っていると思う。けれど、この違いは何なのだろう。ヤァエンに暮らす人たちが、ここの様子を見て不平等に感じないはずはない。
「複雑な顔をしておる。本山は、気に入らぬかな」
「レビニタ大僧…私は」
「よい、申してみよ」
「アルタには貧富などないと思っておりました」
レビニタの顔を見上げると、目じりに皺をつくった笑みが返ってくる。
「なぜだかわかるかね」
キトリは首を傾げた。どうしてここまで違うのか?
「きっと――アルタは町と町につながりがないからではないでしょうか」
ふと浮かんだ考えを口に出す。核心はなかったが、レビニタの顔が得心いったように緩められるのを見て、そのまま続けることにした。
「それぞれの町に寺院があって、その寺院が中心に成り立っています。どこの町もその収入を観光や貿易で賄っている。ヤァエンは、隣国との接地点でもあったし、それなりに貿易品も流れてきていましたが…」
「ここほどではなかった、じゃな」
「はい」
満足げに頷いて、レビニタは自らの目を窓の外に移す。
「ヤァエンに入った商人は、そこで宿をとるのに十分なだけのほんの僅かな物品を売る。他の町でもそうじゃ。それで小さな町は生活していくのに充分潤う。じゃが商人は町を潤すためにアルタの国へ入るのではないのじゃ。より多く需要のある本山に入り、そこで品のすべてをできるだけ高く売って懐を肥やし自らの国へまた戻ってゆく――貿易自体はアルタを潤すものじゃが…」
「多すぎる薬は毒になる、ですね。ここはまるで他の国…」
「ほっほ、そなたは良い目を持っておる。町の頂点にある寺院が、各自でその町を治める。それがアルタの方針なのは知っておろう、そのほうがより密着した政治ができ、信仰も浸透しやすい。じゃが物事には良い面も悪い面もあるものよの。断絶された町々には富や、そなたが先程言ったような毒も、ほどよく拡散し中和することがない。そういったものがひとつところに集中して、国を早く熟れさせ腐らせてしまう元凶になるやもしれん」
小さく息を吐いて、レビニタはこちらを眺め見た。何か言葉を待っているのだ。だが一修行僧でしかないキトリにとって、この話題はいささか大きすぎている。
「あの、ずっと気になっていたのですが…、私は本山に何をしに来たのでしょうか」
「おや、わしは言いそびれておったかの」
思い出したようにレビニタが呟いたとき、ちょうど馬車が停止した。宮殿についてしまったのだろう。また聞きそびれてしまった。
そう思って隣を見て、レビニタの深い夜の海を思わせる瞳と目が合う。何もかも見透かしている、ボガラ大僧よりもよく視えるであろうその両の目。
「そなた歳はいくつかね」
「十三…もうじき、十四になります」
「そうか。では体の軋みを感じたことはないかの」
「軋み…?」
突拍子もない質問に首を傾げて、キトリはありませんと答える。成長期にありがちの、骨が軋むとか関節が痛いとか、きっとそういうことなのだろうと思う。
「皮膚が引き連れるような、切り裂けるような激しい痛みじゃ。本当に今まで何も?」
「…ありません。ですがそれがどういうことになるのですか」
レビニタはひとつ、息をついた。溜息という種ではなくこれから何かを話す、その一拍置いた準備のように聞こえた。
馬車の扉はとうに開いていて、自分たちが降りてくるのを待っている御者がいる。レビニタを困惑の目で見上げて、キトリは居住まいを正した。
「そなたの寿命が差し迫っておる」
「じゅみょう…」
「そなたはもう長くない。一年か二年、もしかしたらそれよりももっと短い時間しか、残されていないのじゃ」
「いきなり何を…すぎた冗談です」
いくらなんでも、冗談にしては悪趣味すぎる。キトリは苦笑して、レビニタを見つめる。が、差し向けられた瞳は冗談では済まされない光が宿っていた。
「レビニタ大僧…」
「そなたは忘れているようじゃの」
そう静かに告げたあと、レビニタはゆっくりと皺の乗った手をキトリの額に差し当てた。
「!?」
額に当てられた手から、雷のような衝撃が流れくる。
「……エレ…シンス、」
なんのことかは分からない。けれど震えながら口走ったその言葉に、レビニタがゆっくりと頷いたことだけが、鮮明に記憶の中に残った。
それからどうやって、馬車から降り宮殿に用意された部屋の中にたどり着いたのかは、覚えていない。
*
「どうして…お前が知ってんだ?」
ユースの呟きに、ガダスは小さく頷いた。
「確信した。私が捜しているのはまさしくキトリ。イクパル帝国現皇帝陛下の娘だ」
「ガダスお前…」
口を開いたのはナナサだった。ガダスの顔をまじまじと見つめ、驚きに目を丸くしていく。
「まさか」
「イクパル帝国近衛師団、師団長アラド・トーフェイ。が、本当の名です。お久しぶりです、ワルター元師団長」
呆然と、ユースは二人を眺めた。イクパル帝国の近衛師団といったら、アルケデアの殆どを含むイクパル連合の総指揮官でもある、ということだ。
ユースよりわずかに高い身長に、整った顔、銀髪にも見える乳白色の短い髪。琥珀の色の鋭い瞳は、言われればたしかに軍人なのかとうなずける。こんな、自分とひとつかふたつしか歳の変わらぬような青年が近衛の頂点にいるとは。ましてそれが、ナナサの過去でもあったという。
「恩寵を受けたのか」
しばらく間を置いたのち、ナナサはぽつりと問うた。
「はい、今年で四十になります」
「な、なんだって?」
ユースが声をあげる。四十というのが率直に年齢を表すものだとして、それはあまりにおかしい年齢だった。目の前に居るのはどう見ても二十代の前半にしか見えない、若い男なのに。
「本当だ。お前とは親子ほども違う」
そう言ってガダス…アラドは苦笑する。
「なぜ、受けたのだ」
ナナサが問う。その口調はいつものオヤジじみたものではなく、――きっと昔の口調に戻っているのだろう。
だが「恩寵を受ける」というのが何なのか分からない。そのせいで歳をとらないとしたら、それは一見魔術の類ではないのだろうか。そんな疑問が頭をよぎっていく。
「私は殿下に一生を捧げると誓った」
「まったくお前も…。殿下は今?」
ナナサの質問に、アラドが首を横に振る。
「そうか…」
「どういうことだ? 俺にはさっぱりわかんねえ」
痺れをきらし口を開いたユースに目を向けて、ナナサがそうだろうな、と答える。
「じゃあ簡単に言ってやろう。キトリは竜で、契約を結べば永遠の命が手に入る」
「な…簡単に言いすぎだろ、それ」
「お前も聞いたことがあるはずだ。王を生む竜の伝説をな。なにしろ竜の発祥は、他でもないこの国アルタだ」
「そりゃあ…」
確かに、ある。だがうんと幼い頃、まだ寺院に入る前に母親が寝物語に聞かせてくれた話ぐらいのものだ。他のお伽話同様、作り物だと思ってきた。
この世界には密かに竜が存在して、その竜を手に入れたものは世界の覇道を掴むことができる。そしてその竜が認めたものだけが、真の覇王となれるのだと――そんな話だったはずだ。
事実長い歴史を持つアルタにその伝説の竜が名を残した痕跡もないし、黄金の竜エレシンスであっても何百年も前の話。何かの話に脚色が加わり、竜の伝説を膨らませただけだと思っていた。
「アルタが出来た起源に遡ると、その最初の血を受けたのが初代アルタ・チャガヤだという。竜の力は今より昔のほうが格段に強い。だからその力で、アルタ・チャガヤは別の形の永遠の命を手に入れたと、考えるべきだ」
と、アラドが静かに言う。
「じゃあ、キトリを国に連れ帰るってのは?」
「その時期が来たからだ。本当はもっと早く迎えに来るべきだったのだ。まさかワルター殿が恩寵を受けていないとは思わなかった」
「はっは、俺もすっかりオヤジさ。お前が素直に本名を最初から名乗ってりゃあ、そんなに苦労はかけなんだ」
「申し訳ありません。できるなら住民との接触はなるべく避けろとの皇帝陛下のお達しだったので」
その言葉に、ナナサは苦笑する。
「陛下は相変わらずか」
「ええ、お若くていらっしゃいます。少々…やつれたようにも見受けられますが」
「急がねえとな。…にしても、俺と十ぐれえしか変わんねえってのになぁ、陛下の容姿は二十年前のままってことか」
「なぜ、受けなかったんです」
「そりゃあ、辛いからだな。少なくとも寿命を超えた命なんてものあ、持ってるだけで気がおかしくなっちまうに決まってる。それに、殿下からキトリを引き受けたのもある。あいつの成長を見守ってく上で、血の通ったオヤジが一人くれえいたっていいじゃねえか」
ふと、悲しげな色がアラドの瞳に翳ったのは気のせいだろうか。
「お変わりになられました」
「ああ、人間ってのは、そんなもんだ。死ぬまで変わり続けてく」
「…そうでしょうね。変わらぬ私たちの方が、おかしいのですから」
わずかに笑って、アラドはナナサに背を向けた。
「――ユース、行こうか。本山には一度行ったことがあるが、馬車でも一日はかかってしまう距離。どこかで泊まる算段をつけねばなるまい」
<赤い鴉>を去るその背中は、どこか物悲しい。何十年ぶりかに会った二人は、あまりにも異なりすぎていた。
「じゃあ、ナナサ、イディンバ」
「ああ。気をつけてな…」
空はあかがね色。じきに紫に変わって、夜闇が町に降りてくる。アラドの言う通り、宿をどこかで探さねばなるまい。
<赤い鴉>で一夜を明かすことも考えれば良いのに。だがその心情はよく理解できる。早くたどり着きたいという気持ちと、変わってしまった戦友への複雑な思い。
ヤァエンを出て本山に行くには、町を二つ越えなければならない。その最初の町に着くまで、二人は無言で歩き続けた。