視えるはずのもの
「大僧!!!」
部屋の入り口に立つ侍従の制止も聞かず、ばさばさと仕切りの紗布を捲っていく。
その最後の一枚を捲って部屋の中に入ったとき、ユースは自分の顔から血が失せてゆくのを感じた。
「ボガラ……大僧?」
大僧は静かだった。いつも通り両の目を閉じて、床に敷かれた絨毯の上に座している。
なのに。
「ユースさん」
部屋の入り口にいた侍従が、自分を追って入ってきたらしい。ボガラを見つめて、小さなため息をついた。
「大僧は知っていました。あなたの弟がレビニタ大僧に連れ行かれることも、…自らの命がもうじき燃え尽きるということも」
静かなボガラ大僧。だが、どこか違うと感じたのは間違ってはいなかったのだ。
ユースの目前に座していたのは、ボガラという人の魂の抜けた、静かなぬけがらだった。
「なぜ…なぜ、もっと早く」
「ご自分で気づくべきだったのです」
「俺が、自分で? そんな大それた話があるか」
ボガラ大僧も、そんなことを言っていた。急ぐべきだと。だが急いたところで、何が視えるというのだ。高僧でもない自分に…、まだ僧上にも上がりきれてないこの自分に、何が視えると?
侍従といえど、相手は自分より階級の高い僧醍。修行僧、僧上、僧醍、大僧の順に高くなるから、自分よりもふたつも格上ということになる。本来なら、突き飛ばして部屋に押し入ることなど問答無用で懲罰の対象だった。
口調も態度も改めなければならないのはわかっている。だが、頭にのぼった血と焦りが、ユースの中の冷静さを微塵も残らず吹き飛ばしてしまっていた。
「ボガラ大僧は私には『視ろ』と仰りませんでした。それは私がもともとその器を持たぬからです。ですがあなたには『視ろ』と仰った。これがどういう意味だかわかりますか? あなたが相手だから、あなただから、大僧は仰ったのですよ」
「それは…」
「どういう意味だと思いますか。本来…私があなたに助言すべきことの範囲はとうに越えています。それでもこうして導いている意味が、わかりますか?」
徐々に、昇っていた血が降りてくる。意味、意味が何なのか。だが考えようとしても、終いにはこの質問に辿りついてしまう。
「そもそも…、ボガラ大僧も僧醍も、俺にはなぜ『視える』とお考えになるんですか」
「それを考えなさいといっているのです」
僧醍は静かに言った。その淡々とした表情から、何も読み取ることはできない。
ただ、…ただひとつだけ確信できるのは、レビニタ大僧に連れ行かれたキトリこそが新たなアルタ・チャガヤではないかということ。しかしそうなれば『視える』はずなのはキトリのほうで、チャガヤでも何でもない自分にはボガラの言ったような力があるとは考えられない。ボガラのような高僧にでもなればともかく、だ。
「僧醍…俺に何かしろと仰っているのでしょう。視えたなら、その視えたことを実行なり何なり、すべきだと」
「すべきことをなさい。…大僧がご存命であったなら、あなたにそう仰ったかもしれません」
わずかに微笑んで、僧醍は言った。
「――わかりました」
彼らの言うものは視えない。だが行動しろというなら、すべきことはひとつだけ。
キトリを追ってこの自らの目で確かめることだ。
*
ボガラ大僧の崩御。
新・法王が現れる前でのこの大きな知らせは、瞬く間にアルタ中を駆け巡った。
寺院も街中も、追悼を表す黒色の旗が揚げられている。旗には金糸で経が縫われており、それが空をはためくたび召された者への供養となるらしい。
「…大丈夫か」
街中でぼんやりと旗を見上げていたユースに、声がかかる。
ガダスだ。
ボガラ大僧の部屋での一件から、まだ一日と経っていない。半日経ったかどうか。すぐさま寺院を出、町に降り立ったのだった。それでこんなに旗が揚がっているのだから、アルタの情報網もあなどれない。
事情を知っているはずのイディンバとナナサを尋ねて、店へと向かっている最中だった。
「なんだよ、俺が大丈夫じゃねえように見えんのか」
「見える」
「…ふん。だったらお前はどうなんだよ」
「私がすべきことはキトリが知人の子であるのか突き止め、もしそうならイクパルに連れ戻すことだけ。だから目的地はお前と同じ、総本山の宮殿だ。でなければこうして行動を共にしているいわれは無い」
<赤い鴉>の扉をくぐると、イディンバとナナサが向かい合い卓の前に座している。やはりキトリの話は知っているのだ。その顔に貼り付けられた深刻な色が、既知を物語っている。
「ユース…、どうして! 寺院から抜け出してきたのか」
ナナサの驚く顔を見つめて、ユースは苦笑を返した。
「何だかよくわかんねえ事態になったな」
「…ああ…こうなるとは思わなんだ。キトリがアルタ・チャガヤだとは…」
ナナサの表情が曇る。上の連中――いやレビニタが、キトリが女だとわからずに連れて行ったとはどうにも思えない。そうなると新法王が女王ということになる。過去数千年、この国に女の法王が立ったことは無く、また立つはずもないと考えられてきた。なぜなら僧には男しかなることが出来ないし、アルタ・チャガヤの選定も今までその僧の中からだけだったのだ。
本来ならば、…キトリが男ならば喜ぶべきことだが…。
「ナナサ、イディンバ、俺は総本山に行く」
「だが」
「俺はあんたたちが何か隠してることは知ってる。でも、今それが言えないってなら、ここでいつまでも油を売っているわけにはいかねえんだ」
ナナサが小さな溜息をつく。
「聞いて驚くな…」
「ナナサ、」
「いい。この際言わせてくれ」
イディンバの制止の声も聞かず、ナナサは両目を閉じる。
「キトリは人間じゃない」
「は?」
言葉が上すべる。まさにこのことを言うのかもしれなかった。
ナナサの言ったことがあまりにも突飛過ぎ、脳裏に像が結ばれない。
「人間じゃないんだ」
繰り返し、はっきりとした声でナナサが言った。
隣でガダスが息を呑む。
「どういう…ことだよ、じゃあキトリは何だってんだ?」
「――竜だ」
今度はナナサとイディンバが息を呑む番になった。
「黄金の竜、しかも――…伝説の黄金竜・エレシンスの血を引く娘」
それを口に出したのはナナサでもイディンバでも、もちろんユースでもなく――他でもない明らかに異国人の、ガダスだったのだ。