偽りの理由
ユースが<赤い鴉>にたどり着いたころには、月はすでに真上にあった。こんなに遅くなるつもりはなかったというのに、マディサにあんな表情を見せられたら残らずにおれない。
酒場にもなる食堂にはもう客はおらず、イディンバがカウンターの隅に陣取って一人酒を嗜んでいるだけだった。
「あれキトリは」
「ああ、おかえり。キトリなら合鍵で部屋に入れてあげましたよ。でもついさっきまで、ここで待ってたんですけどね」
「ここで?」
イディンバが酒瓶を揺すると、わずかにタプンと中の液体が音をたてる。
「飲むかい、あと少しだけ入ってるんですが」
「や…うん、欲しいかな」
ユースの言葉に微笑んで、杯を取り出し並々と酒を注ぐ。イディンバは相当な量の酒をその胃の中に流し込んでいるはずなのに、酔ったところは未だかつて見たことがなかった。今日もその例にもれず、ずいぶんと平常だ。
「キトリも、もうすぐ十四ですね。…貴方は十七、元服か」
「…ああ。元服すれば『兄弟』もなくなる。あいつはあいつで、新しい弟分を引き受けることになるけどな」
そう答えてから、ユースは眉根を寄せた。イディンバの言わんとしていることが、わかった。
「どうするつもりです? ボガラ大僧は、貴方ならとキトリを預けたのでしょう」
普段ならこういう話題を滅多にしない男なのに、もしかしたら今日は見かけによらず酔っているのだろうか。
「けど大僧が本当のところ何考えてんのかはさっぱりわかんねぇし」
「…じきに誤魔化しきれなくなりますよ」
キトリがユースに弟分として付いたのは、まだ七歳に満たぬ頃だったと思う。世話役というより、子守に近かったのを今でも思い出す。よく泣き喚いて読んでいた名前は、母親のものだったか父親のものだったか…たしか――。
「ユース」
「え? ああ、何だっけ」
「何だっけじゃありませんよ。前から考えていたんですが、そろそろと思うので言っておきます。キトリが寺院にいられなくなったら、ここへ送り届けなさい。あとはナナサが何とかしてくれます」
「ナナサが?」
「ええ、ナナサが」
「だ、だめだぜ、あんなオヤジ! 襲われでもしたらどうすんだよ」
言ったところでイディンバが唐突に噴き出す。
「はははははは」
「な…んだよ」
「キトリも、うすうす感づいてる頃じゃねぇかと思う。あいつが女だってこと、俺が気づいてるって」
「だったら、何です? ナナサなんか、最初からわかっていましたよ。といっても、キトリはナナサが連れてきたようなものですからねえ」
「ナナサが?」
「ええ、ナナサが」
「さっきからナナサ、ナナサって…一体あのおっさん何者なんだよ」
『十歳からの入山』と決められている寺院に、六歳かそこらで入り、しかもそれが女児だった。その普通ではない状況を作り出した少女――キトリを連れてきたとなれば、ナナサがそこいらの偶然出会った傭兵…やなんかの理由で納まるとは思えない。
「もしかして、ナナサがキトリの父親か?」
「まさか」
「じゃあ何だよ、知ってるんだろう」
「ただ一つだけ言えることは、ナナサは彼女の父親並みに信用してもいいということだけです。ですから先ほど言ったことは、覚えておくようにしてください。…ほら、ここももう閉めますから、早く部屋でおやすみなさい。明日は早いんでしょう」
「――わかったよ」
いまいち納得がいかない。
キトリが女であることを隠してやるのには、それなりの苦労がいった。僧院にいれば片時も傍から離さず、気を配っていたのだ。この件に関してもっとも深くかかわっているのは他ならぬ自分のはずなのに、それを託したボガラ大僧もどうやら事情を知っているに違いないイディンバもナナサも、打ち明けられないという。
部屋に戻ると渦中の本人は深い寝息をたてて泥のように眠っている。狭い部屋の両側に平行して並ぶ、もう一方の寝台に腰掛けて、その寝顔をじっと眺めた。
風呂に入ったのか、砂風で薄汚れていた頬にしろみが戻っていた。
普段は結わえている黒髪が枕の上に散っている。長い寺院での生活ですっかり日に焼けたものの、生粋のアルタ族に比べれば肌色は薄い。それにくわえてまぶたを開けば見える印象的な青の瞳が、彼女の出自がこの国ではないことをいやでも思い出させる。
あまり他民族に寛容でないアルタの寺院の長たちが、彼女を二つ返事で引き入れたとはどうにも考えられないのに。
「…ん…ユース?」
寝返りをうった際に目が覚めたのか、ぼんやりとした目をこちらに向けてキトリが呟く。
「どうした」
「……遅いよ…」
ぽとん、起こしかけた体を寝台の上に再び落として、すやすやと寝息を立てる。
「待っててくれたんだってな」
跳ね除けられた毛布を掛け直してやって、ユースは苦笑する。
寺院などに入れられていなければ、今頃はどこかに嫁入りしていてもおかしくはない歳だ。アルタの平均寿命は他国のそれと比べて格段に低い。五十年生きられれば長生きとすら言われているのだ。だから男は十七、女は十五で大人と変わらずに扱われる。
もうとっくに幸せを掴んでいてもいい頃の少女が、どうして寺院に性別を偽り入れられなければならなかったのか。
――答えを知るのは、きっとボガラ大僧なのだ。