色男
<赤い鴉>は町中で最も奥に位置する、ふとして通り過ぎても気付かぬような小さな宿だ。しかし主のイディンバは、ここいらで一番の料理の腕を持っている人物。
少年僧たちはそれぞれに馴染みの宿を持ち、山を下りたときや帰れなくなったときに使用するのだが、ここへ通うのはキトリとユースだけらしい。たとえ名店という噂を知っていても、それほどに隠れて見つけにくい店だった。
「おう、キトリ。もう一泊だって?」
食堂の卓に両肘をついてぼんやりしていたキトリを見止めて、隣卓の中年男が笑いかける。汚い風体をしているが、腰に下げた剣はただの飾り物ではない。
男は大きく張り出た額に汗を光らせながら、イディンバ特製の胡椒スープに顔を顰めた。
「この風じゃ、私たちも無理だった」
「だから止めただろうに。なぁに、老ジジイたちゃ一晩くらい飯抜いたって、今更くたばんねえだろうよ」
袖口で顔を拭きながら、男――ナナサは言った。
「ユースは? 一緒に来てただろ」
「ああ、女んとこでしょう。ご盛んなことで」
唇を尖らせてキトリは卓上に顎を乗せる。
とっかえひっかえ女を誑かして、挙句泣かせて帰ってくる。じきに元服もして僧上になるくせ、その自覚がユースには全くないらしい。
小麦に焼けた肌、意志の強い黒眉と精悍な顔立ち、鍛えられ引き締まった体。彼の持つ要素はみな、女たちを歓喜させるに余りある。そしてそれを本人も分かっているから手に負えない。彼の女がらみの厄介ごとを、いつも尻拭いさせられるのは他ならぬキトリなのだ。
「さーて、暇だし散歩してこようかなー」
やる気のない溜息を吐いて、キトリは席を立ち上がる。
「ま、ユースは健康なのさ。安心しなよ、あんなに若いうちから禁欲を守ってるなんてヤツは、じき気が振れちまうんだ」
「なんだ、それじゃ私が不健康みたいですね」
「言ってねえ言ってねえ。お前はちゃんといるもんなあ、知ってんだぜ。まあ、ほらこっち座れ」
引かれた椅子に渋々座り、キトリは仏頂面のまま運ばれてきたパンに齧り付く。挟んだ柔らかい羊の肉が、口の中であっという間に蕩けて消えた。
肉を食べるのも、本当は罰則ものだ。それを咎めず面白がるのも、この町の人たちの良いところだった。
「食え食え」
ナナサはやはり面白そうに、暫くキトリの横顔を眺めていた。
キトリは十にも満たぬうちからユースに連れられここへ通っている。そしてその頃からすでにナナサは馴染みだった。
各地を回って、請負いで護衛のような仕事をこなしているらしい。イディンバの店に拠点を置いているから、ここが家とも言える。
ぶってりと太って一見やる気の無さそうな中年おやじなのに、実は誰よりも強い。古式新式に関わらず対複数人体術に長けていて、知り合った頃からキトリやユースとは師弟の間柄でもある。キトリが最初に棒術を習ったのも、このナナサだった。
「そんなに食ってるのに、伸びねえよなァ。身長」
「……うるさいな。日々の労働で激しいんだよ、消費が」
「はっは、そりゃあそうだ。……ああ、ところで」
急に小声になって、ナナサの張り出た額と丸い顔が近づく。
「お前が連れてきたあの黒尽くめ、一体何だ?」
視線の先に、先ほど会った青年の背中が見える。
長身に黒い外套を纏っていたものだから何とも不気味な風体だったが、外套を脱いでもやはり黒尽くめで、印象はあまり変わっていない。このあたりの軽い服装と比べて、明らかに西側の人間であろう。メルトローかサイエンデか、その辺りの格好に見える。
「私が連れてきたんじゃない。寺院には用事があるらしいけど」
「ああ、だが参拝客にゃ見えねえわな」
「イディンバにはお世話になってるから、無下にガイドも断れないし」
「まぁなァ……」
「寺院に何の用事なんだろう」
ふと目をやると、太陽の下では白髪のように見えた青年の銀髪が、店内のランタンの明かりで薄く朱に染まっている。きれいだな、アルタにいて黒以外の色を見ることはあまりないので、そんなことを思いながらも眺めていると、
「……何か用か」
二人の視線に気付いていたのか、青年が背を向けたまま低い声で言った。テーブルごしにナナサの合図を受けて、キトリは面倒くさそうに息を吐いた。
「ええと……寺院には、参拝で?」
青年がゆっくりと振り返る。琥珀のような目がゆっくりと細まって、探るようにこちらを眺めた。
「参拝、のようなものだ。」
参拝、のところで区切りを入れたのはどうも引っかかるが、本来参拝客の事情を立ち入って聞くこと自体間違っている。例えどんなにあやしげな人でも、何らかの理由あって寺院に罷り来るのだから。
お手上げだよ、と脇のナナサに目配せして、キトリは残っていたスープに口をつけた。
*
「もう帰るの? まだ明るいわよ、夜中までは時間あるんでしょう」
女に言われて、ユースは息を吐く。
足止めを喰らうのはいつものことだ。だが今日は、早く帰らないとキトリの雷が落ちる。宿の部屋の鍵を持って来てしまっているのだ。
今ごろ食堂のカウンターあたりで、風呂にも入れず怒りをふつふつとさせているに違いない。
「……やっぱり。噂どおり他にも女がいるのね」
「いいや、早く帰んねえとキトリが怒り狂うんだよ。部屋に入れなくて」
「キトリって、あの可愛い弟分?」
女の長い黒髪が首元をくすぐった。
寝台の上に仰向けになって、彼女の黒硝子の瞳を見つめる。まるで鏡のように、こちらの姿をくっきりと映し出す。透明で深く、夜空のように美しい。このあたりで一番の美人と名高い女マディサ――。
色々な女と付き合ってきたが、こんなに長く続いているのはマディサぐらいのものだ。ユースに他にも女がいると見抜いても、その態度はずっと変わらない。
彼女が二十の時に出会ったから、もうそれから二年もの月日が経っていた。
「鍵を持ってきちまった。ああ見えてあいつのほうが俺より喧嘩っ早いんだ」
「まったく。あの子が女じゃなくてよかったわ」
頬を膨らますマディサに口づけして、ユースは苦笑した。
寝台から降りて橙の僧衣を羽織る。手馴れた手つきで帯を締め、皺を正したユースを眺めて、マディサは可笑しそうに声を立てて笑う。
「この色男、手際がよすぎるのよ。他の子の前でそんなテキパキ着替えてたらだめよ」
「ふん、また来る。近いうちに」
「……そうね」
ユースはふと緩めたマディサの頬に、悲しげな微笑が広がったのを苦い思いで見つめた。