後悔の後で
遠い昔に、子供のころに教わったのだ。
『何かあったらワルターを頼りなさい。お前をアラドが迎えに来るまで――…』
それを言って聞かせたのはおそらく母。そしてきっと自分は、アラドの顔もワルターの顔も、知っていたはずなのに。
六歳まで母に、それからボガラ大僧の元で十歳を迎えるまで育てられた――はずなのに、ボガラの元で過ごした四年間の記憶がなぜかすっぽりと抜け落ちている。
以前の記憶にまで抑制がかかっていたのは、そのせいなのだろうか。
だが母とボガラ大僧、レビニタ大僧のつながり…そしてナナサ、現れたガダス。すべてはキトリをイクパルに戻すため。
「アラドは?」
「隣の部屋…って、おいキトリ?!」
ユースから聞き出すや否や、扉を跳ね出て隣の部屋の前に立つ。
「アラド、入れて!」
待たずして扉が開き、身支度の整ったアラドが現れる。
乳白色の髪、琥珀の瞳、鼻筋の通る整った顔立ち…アラド…。
覚えている。はっきりと。それどころか記憶のまま、アラドは八年前から何も変わっていない。若く凛々しい青年だった。
「覚えてる。私六歳だった、アラド。いいえ、私はシャルって呼んでた」
「…キトリ…様」
「イクパルに、還らなくちゃいけないんでしょ」
アラドはしばらく何かを考えて、頷いた。
「私も気づかなかったのは同じです。まさか性別を隠し寺院にいらっしゃったとは思わなかった。…貴女を探し出してイクパルに戻り、少ない寿命の身の振りを考える手はずでした。ですが貴女は昨夜ユースという少年と契約を交わしてしまった。――覚えていないのですね?」
「契約…」
契約とはきっと、レビニタ大僧の言った、竜が人の寿命を延ばし、主とする契約のことだ。
やはりそうだったのか。ユースの左目を見た時点で気づくべきだったが、契約の仕方などわからない。
契約をしてしまったら、ユースはアルタ・チャガヤになれない。
「ですが指示したのは私です。貴女を死なせないために」
「なんてこと…」
引きつったように感じる左目は、すでに中身が無いからなのだ。だから開かない。そしてその瞳は今、ユースの目となっている。
「私は死んだほうがよかったんだ、…そのほうがアルタ国の為になった」
「なぜです…」
「ユースが次期の不滅の法王だから」
アラドの瞳が、驚きに開かれていく。
「そんなことが…」
「レビニタ大僧が仰ってた。でも、自分で気づかせるつもりだったみたいで、私がそばにいると気づくことができないとも。私が覚醒前の竜で、のちに選ぶのはユースだろうことも知ってらして、それで呼ばれた。契約をしてしまうとアルタ・チャガヤにはなれないような事情があるんだと思う」
ふと、アラドがキトリの向こう側に視線を動かす。
なるほど後ろに感じる気配は、ユースのものだ。
「…キトリ、どういう…」
怒っている。そう感じて振り返ると、思いのほか静かな表情がそこにあった。
「ユース…」
あのまま殺されていれば、こんなことにはならなかった。例え身体を玩ばれても、アルタ国とその法王であるユースのためなら、よかったのだ。
「…ごめん」
「なんで謝んだよ…」
「だって」
「お前を生かしたかったから契約したんだ。俺の勝手でしたことだ。…それでお前が謝る道理がどこにあるってんだよ…!」
――苦しい表情。すべてが後悔に変わっていく。
「…それに契約したから法王になれないってなら、俺はそれでいい。チャガヤなんて、こっちから願い下げだ」
ユースの握られた拳が、宙をただよって壁にあてられた。静かな部屋ににぶい音が響く。
「でも、アルタ国にはチャガヤが必要なんだよ…」
法王を頂点に戴き、信仰のもとに幾千年と成り立ってきた宗教国家。その根底はきっと、推し量るには及ばない深い場所にある。アルタ国がアルタ国でいられるためには……。
「……行きましょう、イクパルに。幸い、私たちは先駆者を知っている」
長い沈黙を破って、アラドが口を開いた。
「キトリ様、変化はできますか」
「――できる」