血の接続、千年の契約
ふと聞こえた物音に耳をすませる。
泥棒か、客か。どちらにせよ、こんな真夜中にまともな客が来るとは思えない。
「アラド?」
ユースはそろりと部屋の戸を開ける。安宿なので、アラドとは別室をとっていたが、物音の正体はアラドではないようだ。
隣の部屋に彼の気配を感じる。…となると。
「…誰かいるのか?」
目を凝らして暗闇を見つめる。今まで眠っていたせいで、大分暗闇に目が慣れている。
ふと、床にうずくまる子供を見つけた。苦しそうに時折呻いて、立ち上がろうとしているようだ。だが何かにすべって、それが出来ないでいる。――何かに…血?
驚きも露わにその子供に駆け寄る。
「おい…大丈夫か!」
だがその華奢な体を抱き起こして、更に自分が驚くことになろうとは考えもしなかった。
「――キトリ!!!」
本山にいるはずの人物が、なぜこんなところに。ふと背中に回していた右手が硬いものに触れる。なんだ? 目線を移すと、なんと短剣が突き刺さっている。
「キトリ、おい! 大丈夫か!」
顔を寄せて問うのに、キトリの目は焦点を結ばない。
「キトリ…!」
「おねがい…」
擦れた声で、キトリが呟く。
「馬を、さしあげます、だいじな…、だいじに…して、ください」
「馬…? なにを…」
苦しそうにひゅうう、と息を吸い込んでキトリは続ける。
「私が…死…んだら、火で、灰になるまで…お願い、おねがい…」
「死ぬだと? お前、しっかりしろ! 俺がわかんねぇのか!」
キトリは瞳を閉じた。浅いが、呼吸はまだある。
どうしてこんなことに…! 悔しさがこみあげる。レビニタの元にいるなら、どうしてそのまま待っていなかった? こんな夜中に出歩くなど!
「――ユース…」
ふと瞼が開く。うつろな青い目が見つめるのは、自分ではなく、どこか遠い虚空だった。お前は、俺の腕の中にいるのもわかんねぇのか…。
その白い頬に涙が伝うのを呆然と見つめて、ユースは唇を噛んだ。
どうにもできない。自分は医者じゃないし、このあたりに医者などいるはずもない。
仮にどこかに運んでも、いっそうこの腕にある華奢な体を苦しめてしまうだけだ。
「キトリ、どうすれば…」
「――契約だ」
突如、背後にアラドの声が響く。
「契約?」
「…そうだ。こうなったら、やってみるしかない」
アラドの声がわずかに震えている。彼なりに動揺しているのだ。
「どうすればいいんだよ?!」
「…お前の血を飲ませろ」
「俺の?!」
アラドが頷く。
「いいから、言うとおりにしろ。目を覚ましたら『契約を』と言うんだ」
ユースは自らの腕に強く噛み付いた。切れて、じんわりと滲んでくる鉄のような味覚を感じる。それを含んで、キトリへ口移す。
「っ!!!」
キトリの体が痙攣した。閉じられていた瞳が唐突に開かれると、青いそれがかすかに光を帯びている。その瞳が、さきほどとはうって変わって真っ直ぐにユースを見つめた。
「…契約を」
キトリはまるで人形のように頷いた。
表情豊かなその顔はどこかに潜み、無機質で無感情な顔がまるで水の底から浮かび上がってきたようだ。
「―――お前を、我の王に」
キトリが答える。
ふっと微笑んだかと思うと刹那、激痛が左目に走った。
「っぐ…!! あああ!」
顔を両手で覆うようにして、キトリが悲鳴をあげる。左目の痛みはするすると治まっていった。
カラン。
乾いた音が響く。その方向を見定めると、キトリの背中に刺さっていたはずの短剣が抜け落ち、床板の上に転がっていた。
「キトリ!」
腕の中のキトリが、再びぐったりと身をもたげる。だが今度は、しっかりとした深い呼吸をしていた。
もう…大丈夫だというのだろうか。
「…それでいい」
振り返ると、アラドが口元を押さえて苦しそうに立っている。
ユースにとって契約は一瞬のことだった。あれが契約で本当にいいのかさえわからない。
突如感じた痛みもすでに治まっているし、本当にあっという間だったのだが、アラドはもしかしたら吐瀉してしまうぐらい、激しいものを見たのかもしれなかった。
「とにかくキトリを寝かしてやるといい…」
うなずいて、ユースはキトリを抱き上げた。