はじまりの場所
とても豪勢な部屋だった。床から一段高くなったところに、大きな寝具がまるで積み上げられた真綿のように敷かれていて、美しい布で目隠しもできる。部屋の真ん中にはお茶の飲める丸い卓もあり、窓は大きく日の光もたくさん入る。
すぐ隣の部屋には侍従が控えているというし、まるでどこかのお姫様にでもなった気分だ。
ふと気づいたら泥のように眠っていたのだと思う。大きな寝台の上で目を覚まして、キトリはぼんやりとあったことを回想する。
レビニタに、おまえはもうすぐ死ぬと言われたこと。部屋を用意してあること。――馬車を降りたら一人の僧が出てきて、自分をこの部屋まで案内してきたのだ。宮殿には廊下という廊下がない造りになっていて、ここにたどり着くまで幾数もの部屋を通り過ぎてきた。どれも美しい、朱色の彩色の目の覚めるような部屋ばかりだった。
「それに比べたらここはマシかな」
極彩色は苦手だった。きれいだとは感じるけれど、そこにずっといろと言われたら息が詰まる。この部屋の彩色は深い緑色が殆どで、ずいぶんと安らげる。
「キトリ様」
部屋の入り口から、侍従が姿を見せる。
「レビニタ大僧がお見えです」
「あ、はいっ」
慌てて寝台から飛び降りて、床に両膝をついて降頭する。
しゃらん、と部屋のしきり幕につけられた鈴が音をたてて、レビニタの来訪を告げた。キトリの畏まった姿を見つめて、レビニタは柔らかな笑い声をたてる。
「そんなにせずともよいに。よく眠れたかの」
「…はい。なんだか随分眠っていた気がしますが…」
「まる一日、お休みになっていたようじゃ」
「――そんなに、…すみません」
「顔をまず上げなされ、茶でも飲みましょう」
促されて顔をあげると、レビニタの伸ばした手に気がつく。その手を遠慮がちに掴むと、引きあげて立ち上がらせてくれた。
「ありがとうございます」
「いいや、当然のことじゃ」
そう言って、円卓の前に座する。その言葉の意味に首を傾げたが、キトリも習って円卓の前に座る。時をおかず、侍従が茶を運んできた。
「まず謝らねばなるまい。詳しい事情もなしに、そなたをここへ引っ張ってきてしまった」
「いいえ…、でも、兄役が心配しているかもしれないので、それだけが気がかりで」
喉の渇きを潤そうと、卓の上の茶に唇を浸した。
アルタ特有の、茶葉を抽出したのちに羊の乳から作ったバターを溶かしいれるバター茶。温かさにほっと息をつく。
「じきにここへ来るであろう。そう思って置き去って来たのじゃ」
「ここへ?」
「そうじゃ。そなたを追って、な。しかし酷だったかの、答えを自分で導き出させるというのは」
「答え…」
わずかに微笑んで、レビニタも茶を啜った。
「次期のアルタ・チャガヤは、ユースじゃよ」
「そ…れは…本当ですか」
「そうじゃ。だがあのボガラがそなたをユースの弟なんぞに付かせたものだから、チャガヤの覚醒が遅れておる。そしてそなたの覚醒もじゃ」
ユースが不滅の法王…考えてみるが、実感がわかない。
チャガヤというのは高僧の高僧で、神にも等しきお方なのだ。肉は食べるわ、女はよりどりだわのあのユースに、そんな聖人が務まるはずがない。
「覚醒とは何ですか…、すみません。何を言われているのか…よくわかりません」
「何も知らされてこなかったようじゃの」
思わず俯いてしまう。ユースが法王として目覚めるのが遅いというのが、自分の責任だと言われてしまっては。
「そなたは子供の頃の記憶があるかの」
「…あまり。気づいたら寺院での日々が繰り返されていました。ユースが兄役で、私もその中で修行を積んで…」
「そなたは六歳まで、母親に育てられたはずなのじゃ。そなたの母の話によると、六歳までとうにそなたは竜として覚醒していたらしい」
「りゅう……竜」
頭の中を、ひやりとした衝撃が抜けてゆく。
記憶がないというのはうそだ。どこかに封じ込めて来たはずだった。母と離れるあの寂しさ、いつも泣いて名を呼んでいた母…。
「――思い…出しました」
竜。血の気まぐれが起こす、亜人種のようなものだと教えられた気がする。
遠い遠い山麓の奥深くで育ち、誰に教わるでもなくいつの間にか空を跳んでいたように思う。――竜の姿で。なにより自分の毛皮の色をはっきりと覚えている。小麦の色に似た、金だ。
母の手を離れ寺院で暮らすようになってから、自然と竜には変化しなくなった。人間の中に暮らしていたから、忘れてしまったのだろうか。
「そなたを寺院に預けたのは母親の意向じゃった。権力から庇護し自分の足でイクパルに戻ってこられるまで、このアルタの寺院が最適だと。自らの手で育てられるならば育てたいが、それではそなたの役には立てないとな。そしてそなたは寺院に入り、いきなり見つけてしまった」
「見つけた?」
「そなたの王となるべく人をの」
「ユース…ですか」
「自覚はないようじゃの。竜の寿命は人間よりもはるかに短い。だが人間と契約を交わせば、その寿命は神よりも永らえることができると聞いておる。そのたったひとりの相手を、齢六歳にして見つけてしまったのじゃ」
「自覚…」
「ほほ、恋じゃな。恋に似た感覚――いや、恋と呼んでしまってよいのかもしれぬ。雌の竜は男しか選ばぬし、雄はまた女しか選ばぬ」
「では私は、ユースと契約を交わせば死なないということなんですね」
レビニタは頷いた。
――彼の言いたいことがわかった。ユースと契約すれば死なない。だがそうしてしまっては、ユースがチャガヤになれない何らかの理由があるということだろう。
レビニタが第一とするのは新チャガヤの誕生であって、キトリの延命ではない。
ここに呼んだのは、あわよくばその「自覚」が訪れる前に死を宣告し、諦めさせようということか。
「では私は、ユースがここに辿り着く前にアルタを出発し、イクパルに向かえばいいのですね」
「…ものわかりのよい子じゃ。アルタの悪面を見抜く洞察も持っておるし…世が世なら、生まれが生まれなら良い君主となれたであろうに」
キトリは苦笑するしかなかった。きっと自分が考えたことは、ユースも考えるに違いない。共に育ち、必要な知識も同じく学んだのだ。…それなら、ユースは十分にやっていける。
「いいえ、ユースには色々迷惑もかけたし…感謝しています。伝えていただけないでしょうか、…楽しかったと」
「伝えよう」
レビニタの言葉に礼をして、キトリはひっそりと自分を哂った。まるで死期の近い猫のようだと。「予定通り」故郷のイクパルへ帰るのではなく、この骨を埋めるための墓を探しに行くようなものだ。
「極上の馬を用意したから、好きに使ってくれるとよい。道中の費用もあとで届けさせよう。…すまんの。そなたも知っておるように、この国はアルタ・チャガヤがおらんと何もできぬ国じゃて」
「…わかります。何から何まで、ありがとうございました」
レビニタが立ち上がり、緩やかな動作で部屋を出て行く。出発の日にちを仰らなかったが、今は夕方。つまりは明日の早朝か、今日の深夜近くということになりそうだ。
「キトリさま、ご夕食のち馬までご案内致します。それまでごゆるりと」
レビニタの後から退室した侍従が言い残す。やはり深夜か…。
「わかりました」
ありがとうございます、と礼を言って立ち上がり、キトリは二人の背中を見送った。




