沼地~エピローグ
光は汚泥を吹き飛ばし、青灰色の闇を、濁流を吹き飛ばした。
すさまじいまでの強さですべてを断ち切り満ちあふれ、広がった。
混然一体のかたまりとなった汚泥と闇が、白銀の輝きとぶつかりあい、虹色の火花を散らして混じりあいながら流れ去る。
濁流に取り込まれていたあまたの命が、叫びが、思いが過去が魂が、光の中で砕け崩れて流されていく。
そして──。
立ち現われた浄化の炎のそのかたちが、渦を巻きながら視界にあふれこぼれる中で、魔物の夢と人の夢とが分離した。
魔物の身体と人の身体とが分離した。
深い深い夢の底に引きずり込まれていた心に、その身体に、熱が宿った。
体温が生まれ血がかよい、目覚めたいと願う意志の力が満ちていく。
力は力を呼び寄せ、外の世界を引き寄せる。
わたしはラキスを抱きしめているし、ラキスはわたしを抱きしめている。
まぎれもない手応え。現実の重み。
そのいっぽうで、砕けていく夢の重みが、ふたりの身体を押しつぶそうとのしかかってくる。
息さえできない。わずかでも手を緩めればもぎ離される。
けれどそんな圧力の中ですら、目と目が合った。ほほえみあった。
そばにいたい、いっしょにいたい、もっと、もっと、もっと。
思いあい、抱きあいながらふたりで落ちた。
汚泥や闇を破壊した力は、魂だけでなく肉体の世界でも同じように働き、魔物の巨大な身体を内側から粉砕したのだ。
吹き飛ばされた肉体が、白く輝きながら大気に乱れ散っていく。
それは同時に、魔物から解き放たれたわたしたちの肉体が、空中に投げ出されることでもあった。
視界の中で、浄化の炎が乱れ狂う雪の白さに変わる。
雪が燃え散り、白銀がしだいにうすれ、そしてふいに、金色の日差しにとってかわる。
全身に風があたる。わたしたちは抱きあっている。
これが二度目の抱擁で、もう離すつもりはない。
太陽の光の中を、わたしたちは風にまかれながら、ふたりで落下していった。
☆
ティノは必死で岩につかまり、崖の上によじ登った。
這うようにして崖淵から離れ、息を切らしながら振り返ったその直後、目の前で起きたことのすべてを目撃した。
巨大な顎からあふれ出てきた大量の触手が、なだれ落ちる泥の滝のように姫君を呑みこみ、逆流して再び顎の奥へと引き込まれていく。
姫君の華奢な姿も、それと同時に消え失せる。
だが、その居場所を明らかにするように、魔物の巨体が膨張しながら拍動する。
全身で激しい脈動をくりかえす。
その後に訪れた、突然の静寂。
巨体を崖ぎわにおいたまま、魔物はなぜか凍てついた彫像のように動かない。
ティノの衝撃と恐怖をよそに、信じられないほど静かな時間が経過する。
そして──またも訪れた、突然の変化。
彫像の内側が透けるように輝き、内部で発光していると思ったとたん、ひとすじの眩しい亀裂が走る。
喉元の下に走った亀裂はまたたくまに網目となり、頭部に腹部に、尻尾に向けてひろがっていく。
全身を覆ったその網目から、ふいに何本もの光の柱が突き抜け、外に飛び出してくる。
閃光。爆風。
竜巻のごとく巻き上がり、はじけ崩れる魔物の巨体。
燃えちぎれていく破片の渦。青空の中に吹き荒れる猛吹雪──。
ティノは風圧で吹き飛ばされそうになり、尻もちをついて後ろに転がった。
なんとかこらえて動きを止め、木の幹を支えにすわりこむ。
砂利と枯れ葉、土ぼこり。形の定まらない泡のような、白銀のかけら。
思わず腕を上げると、ティノは飛んでくる多量のものから目をかばった。
けれど、かばった腕の隙間から、たしかに見た。
白銀の吹雪の中から、抱きあったままの姫君と剣士が投げ出され、上空へと高く吹き上げられていくのを。
吹き上げられたふたりが、風にまかれながら落下していくのを。
そして落下するふたりの身体を、真っ白な天馬が、空中で受け止めるのを。
天馬は白い翼を力強くはばたかせると、ティノの上で一度大きく旋回した。
それからさらに上にあがり、青い空の中を、都の方角に向けて飛び去っていったのだった。
☆
まだ若者が、王国レントリアと何の契約もかわしていなかったころに──。
彼は天馬とともに、朝陽がさしそめる明け方の空を飛んでいた。
本格的な寒さがやってくる前に、別の国まで行くつもりだった。
自分のような者でも、もっと暮らしやすい国があるかもしれない。
少なくとも、もうこの国に戻ることはないだろう。
王城の上を飛んだのは、見納めでもしておこうかと思ったからだ。
ところが近づくにつれて、濃厚な魔物の気配がただよってくることに気がついた。
だが、接近してみた王城から悲鳴などは聞こえない。
朝の澄みきった大気の中で、しんと静まりかえっている。
「やけに静かだよな」
と、彼はいつものように天馬に話しかけた。
「もうみんな死んじまったかな? どうする、挨拶がわりに寄ってみるか?」
特に反対意見が出なかったため、彼は南側にある塔に向けて、気軽な気持ちで近づいていった。
上に窓があったので、のぞいてみようと思ったのだ。
そのとき。
目の前にある窓がいきなり開き、ひとりの娘が身を乗り出してきた。
朝陽が娘の顔にあたり、長い髪が風になびく。
娘は息を呑んで彼をみつめ、言葉が出ないようだった。
そして、彼もまた。
出会いの窓は 南の塔に
結びし約束 天馬の上に
熱き腕は 姫の背中に
姫の心は 剣士の瞳に
青き流れの ほとりに立ちて
剣士の御名を 姫は唱えり
光と闇の 間にありて
応えしものは 彼の声 彼の手
やがて……。
レントリアの都のすみで、ひとつのバラッドがひそやかに歌われはじめる。
その歌は、以前から人気の高い英雄譚のバラッドと、部分的にとても似ている。
けれど歌詞を追い、その旋律を追っていくうちに、同じ歌ではありえないことがよくわかるだろう。
ひとりの娘が若者と出会い、ひとりの若者が娘と出会い、離れてまた出会い、ともに生きるようになるまでの歌。
歌はいつしか都の人々の間に広まり、歌い継がれていくことになるのだが──。
それはもっと、ずっとあとになってからの話である。
次回はあとがきになります。





