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 あのときと同じように、わたしはいま崖の淵に立って、下を見下ろしている。


 足元の数歩先は、ほとんど垂直に近いごつごつした岩肌。

 隙間のところどころから細い幹がななめに突き出し、しだいに傾斜をつけながら森の木々の間に落ち込んでいく。


 さらに先まで目をやれば、見渡せるのは村落の茅葺屋根の集まりだ。

 ずいぶん高くて遠い場所までやってきた──そして、わたしが四苦八苦しながら登ってきた斜面は、崖側にくらべればずっとましな道だったということも、あらためてわかった。


 どこから登りはじめても大差ないと思っていたが、入り口をまちがえていたら、ここにはたどりつけなかったにちがいない。

 わたしは広がる眺めに背を向けると、池のあるほうに戻りはじめた。


 ティノが目的地と呼んだ場所は、意外なことに、想像していたよりもかなり広くて日当たりのいい空間だった。

 日差しが多いのは木立が途切れているためだ。

 中央部分には水深がわからないにごった池があり、それを囲むように草地がひろがっている。

 その向こうからふたたび木立がはじまって、これまで以上の急な斜面になっていくのだが、いまのところそこに近づく予定はない。


 水辺には枯れ草に混じって緑の芽吹きが多くあり、池全体の荒れ果てた雰囲気を、少しでも救おうとしているかのようだった。

 よく見れば春の花さえ咲き出していそうだ。

 こんなときでなければ、もう少し見てあげられるのだが……。


「天馬がおりていったのはこのあたりのはずだって、村長さんが言ってた」


 のどにひっかかったものを無理やり押し出すように、ティノが呟いた。


「人がいたんだね……。じゃあ剣士さまも助けてもらえたかもね」


 その言葉がなんのなぐさめにもならないことはたしかだったし、少年もなぐさめようとして言ったわけではないだろう。

 ただ静寂に耐えきれなかっただけなのだ。


 頭上をさえぎるもののない場所で、日の光にさらされた草地は無残だった。

 踏み荒らされた草の間にいまだ残る、焚火のあと。

 魔物退治の報奨金につられたならず者たちが寝泊まりしていた、いくつもの天幕。


 その天幕の折れた支柱、ずたずたに裂けて泥にまみれた布地。

 水源にしていたにちがいない池のおもてにも、布らしきものが浮いているのが見える。


 かろうじて形を残していた天幕のひとつを、勇気をふりしぼってのぞいてみた。

 中には誰もいない……幸か不幸か、骨すらも残っていない。

 ただ水筒や鍋や毛布といったものが放り出されているだけだ。


 魔物の僕たちが待ち構えていても、悲鳴をあげないだけの覚悟はしていたつもりだった。

 けれど、こんな光景は想像していなかった。

 静寂。

 生きるものの気配が何ひとつ感じられない、ひたすらに静まりかえった空間──。 


 天幕の間にたたずんでいたわたしの耳に、ふっと小さな声が聞こえてきた。

 池を背にして立ちつくしたティノが、うつむきながら歌を口ずさんでいる。

 虚しい会話をかわすよりも、歌のほうがずっと心を落ち着かせるにちがいない。


 ふしぎなことに、順調に森を歩いていたときの鼻歌よりも、いまのほうがはるかに美しい歌声に聞こえた。

 本人もそう思ったのだろう。

 歌声はしだいに真剣味を帯び、繊細な調べが、場違いとしかいいようのない美しさで流れはじめた。


   聖なる炎で すべてを正す

   闇に生まれし ものを光に

   千切れし魔物の むくろは天へ

   勇者と天馬の むくろは河へ


 どこかで小さな水音があがった。静まりかえり、ふたたびあがった。

 今度は大量の水が流れ落ちていく音がした。

 音はとぎれることなく続き、滝が流れるような激しさにまで高まってから突然止まった。


 あとには、水面が動き続けるゆるい音。

 少年はずっと歌い続けていたが、いくぶん声が小さくなった。

 

   青き流れの ほとりに立ちて

   勇者の御名みなを 姫は唱えり

   声は虚しく 河面かわもを渡り

   いらえ返らず 風のみ返る

  

 太陽が背中側からあたっているので、ティノの前には自分の影が落ちている。

 その小さな影を別の大きな影がおおいつくしていく様子を見ながら、少年はまだ歌っている。


 振り返ろうとはしなかった。しようとしても、恐怖で身体が動かないのだろう。

 ティノの正面に立ちながら、わたしもまた動けない。

 水面から鎌首をもたげた魔物があまりに大きすぎて、動くことができない。

 

   いざや語らん あの日のことを

   ともに讃えん 勇者の……


 歌がとぎれた。ティノが涙まじりの声をふりしぼって叫んだ。


「エセル……!」


 少年の背後で、魔物の頭部がさらに持ち上がる。

 池の底に沈み込んでいた異形の巨体が、太陽の下にさらけ出される。


 恐ろしいほど大きな水蛇……思いつく比喩といえばそれくらいしかなかった。

 ただ水蛇の頭部両脇には、翼ともひれともつかない突起が突き出し、持ち上がった長い身体の途中には、前脚なのか鉤爪のついた部分が見えている。

 いずれにしても魔物のものだ。


 水草や腐った枯れ葉、枯れ枝を多量にからみつかせた体表は、泥水にまみれながらも青黒い。

 濁った青は、おそらく皮膚から吹き出している粘液の色だろう。


 あの色は、以前にも見たことがあるから知っている。

 ずるずるとうごめく体表も、城の寝室に転げこんできた僕の身体で目撃済みだ。

 もちろん目の前の魔物の触手は、あのときのものとは較べものにならない長さと量にちがいない。


 インキュバス──本体。

 波立つ青い体表は、ほどなく隆起して瘤になり、蓄えた触手の束をまき散らすのだろう。


 魔物の巨体をみつめながら、わたしは、どうしてここに生き物の気配がまったくなかったのかを理解していた。

 すべての生き物が内部に取り込まれてしまい、僕にすらなっていないのだ。

 もともと棲みついていた魔物も魔物狩りに来た流れ者たちも、鳥や動物にいたるまで、すべて。


 ここにはもう、本体しかいない。


 ティノがはじかれたように動いた。

 こんな力が出せたのかと驚くような勢いで、走りはじめる。


 魔物の影の下から飛び出し、池のふちに沿って走った。

 崖に行き当たって逃げ場をなくすと、今度は崖っぷちを走って逃げた。


 インキュバスは長大な身体を水から引き上げ、濁りきった池そのもののような両眼を、獲物のほうに向けていた。

 全身は水から出ていないが、それでも少年の動く範囲など、触手で簡単にとらえられる距離なのだ。

 鎌首の下あたりが急激に膨れ上がり、急激にしぼみ、また膨れ上がって破裂した。

 太い触手が崖めがけてうなるように飛んできた。


 両手で頭を抱えながら、それをよけようとした少年の身体が、不自然に揺れたとたんに突然消えた。

 わたしは悲鳴をあげて崖のきわに走り寄った。


「ティノ!」


 落ちた? 

 わたしのいる正面に向かって逃げず、あえて横に走ることを選んでくれた子。

 助かっていて、どうか。


 崖淵から下をのぞくと、そう遠くないところに突き出た狭い岩棚に、少年がひっかかっているのが見えた。

 隙間から生えた木の幹を片手でつかみ、うつ伏せの状態で必死でしがみついている。

 わたしは腹ばいになって腕を差し出した。


「ティノ、つかまって」


 背後に重い音と泥水の匂い、むせ返るような熱量を感じた。

 振り向いたわたしは、インキュバスの本体が近づきつつあるのを見た。

 完全に水から上がり、下半身はとぐろを巻くようにうねっている。


 その関心がわたしではなく崖の下に向いていることを知り、身がふるえた。

 地面を這っていた青い触手が、ふたたび持ち上がっていくのを確認した。


「やめて!」

 はね起きながら、わたしは叫んだ。


「やめて、ティノに手を出さないで」


 魔物の動きは止まらない。わたしは立ち上がった。

 魔物と向き合い、お願いだから届いてほしいと祈りながら、ふたたび叫んだ。


「やめて。──やめなさい、ラキス!」


 魔物の首が、緩慢な動きでゆるゆるとまわる。

 淀みきった両眼がわたしの姿をとらえる。見下ろしてくる。


「ラキスでしょう? わたしがわかる? エセルよ。あなたに会いにここまでやってきたのよ」


 両眼は無反応のまま、またもゆるゆると向きを変えて崖のほうに戻ろうとした。

 わたしは一歩踏み出し、魔物の巨体に近づきながら声を高めた。


「その子にさわってはだめ。わたしが行くわ。わたしが行くから」


 深く淀んだ瞳には、なんの変化もあらわれなかった。

 だが声を理解したのかしないのか、巨大なあぎとがゆっくりと開きはじめた。


 もたげた鎌首が目の前に迫り、魔物の口が裂けるほどに大きく開く。

 その口の奥から、大量の触手の糸がどっと吐き出されてくるのが見えた。

 視界すべてが触手で埋めつくされ、すべてがおおいつくされる。

 何も見えず何も聞こえず、何ひとつ感じられなくなる。


 すべてが遮断されたわたしの全身を、魔物は呑み込み、顎の奥へと引き込んでいった。



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クリックで前日譚に飛びます。ラキスの幼年時代のお話です。星の下の晩餐会
― 新着の感想 ―
[良い点] 自らインキュバスに飲み込まれていくとは、何とも勇敢な。 それだけ、ラキスに逢いたかったというのと、ティノを巻き添えにすることなく、自分で解決したかったのだろうなと思いました。
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