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荒れ地

 どれくらいの間、そうして立ちつくしていただろう。


 外が静まりかえっているのに気がついたのは、ずいぶんたってからのことだ。

 わたしは垂れ布を押し上げて、ふらふらと天幕から出た。


 兵たちの姿はひとりも見えない。野営地ではなく討伐の現場に行ってしまったのだろう。

 遠い場所なのだろうか……川のほとりをめざしていけばいいのかもしれない。


 わたしは、やはりふらふらした足取りのまま、川があると思われる方角に向けて歩き出した。

 行ったところでどうにかなるとは思えなかったが、天幕の中でじっとしているのは耐えがたかった。


 分厚い雲がたれこめた空の下、立ち枯れたように寒々と生気がない木立の中を、ひとりで歩く。

 自分自身の寒さは感じなかった。

 麻痺してしまったみたいに、すべての風景に現実感がない。


 ようやく現実感を取り戻したのは、木立が切れて、川沿いの荒れ地が大きく広がる場所に出たときだった。

 いつのまにか、空には小雪が舞っていた。

 枯れ草が密集する荒れ地からは、わたしを押し戻そうとするかのように強い風が吹きつけてくる。

 わたしは足を止め、その場から動くことができなくなった。


 強風のためではない。

 天馬にまたがる剣士と魔物の闘いが目にとびこんできて、あぜんとしたのだ。


 狂乱して剣士に襲いかかるインキュバスは、しいてあげれば狼やハイエナなどの野獣を何十倍かにしたような体型だった。

 三角に尖った顔、裂けんばかりに開く口、剥き出された牙。

 四肢があり、尻尾も見える。


 ただし狼とは異なることに、その胴体には翼があった。

 広大な、と言いたくなるほど大きな両翼が。


 そう、魔物は巨大な翼をはばたかせて空を飛んでいた。

 天馬も飛んでいた。

 闘いの場は、地上ではなく上空にあった。


「姫さま」

 わたしに気づいた兵のひとりが、あわてたように走り寄ってわたしの腕をとらえた。


「危険です。天幕にお戻りを」


 首を横に振りながら、わたしの目は兵ではなく、上空に吸い寄せられたままだった。


 飛行している魔物の全身が、どろどろと波打っているように見えるのは気のせいだろうか。

 いや、遠目にも確認できるあの特徴が、体型はちがってもインキュバスに共通のものなのだ。

 青ざめた体表が、あちこちで膨れ上がったり縮んだりする。

 頭部でも背中でも翼の上でさえも、不気味な隆起がくりかえされている。


 そんなことが確認できるのは、魔物の動きがそれほど速くないからかもしれない。

 大きさが枷になっているのか、それともほとばしる炎を受けて、少しは弱ってきているのか。


 対するラキスとリドの動きは、逆に遠目ではよく見極められないほど速かった。

 魔法剣の先から炎があふれ出た次の瞬間には、もう別の場所に移動している。

 闘いを見慣れていないわたしの目には、魔法の炎それ自体が意志を持って走り出し、彼らと無関係に動きまわっているようにすら見えた。


 同じように四肢を持ち尻尾を持ち、翼を持っていながら、天馬と魔物のなんとちがうことだろう。

 醜悪としか言いようのない魔物の口が、天馬の鼻先まで迫ったが、聖獣の翼は一瞬のうちに牙をすり抜ける。

 かわりに燃え立つ銀の炎が、口中めがけて叩き込まれる。


 これほどの体格差がありながら闘い続けていられるなんて、まるで奇跡を見ているようだ。

 だが……。


「だめよ」


 わたしは思わず口走った。

 腕をつかんでいる兵士に向き直り、すがるように叫ぶ。


「お願い、やめさせて。怪我をしているのよ」


 どれほど俊敏な動作に見えても、あんなに動いて出血しないはずがない。

 どんどん傷がひらいてしまう。

 だが兵士は、なす術がないように首を振るばかりだ。


 そのとき遠くで号令が響き、数えきれないほどの矢がいっせいに宙を横切った。

 援護射撃かと思ったが……たしかに援護の一種なのかもしれないが、わたしが期待したものとは大きくちがっていた。

 矢の雨は、炎を避けて別方向に逃げようとした魔物を、剣士のほうに追い返したのだ。


 荒れ地には二種類の兵士たちがいて、剣や槍をたずさえているだけの一団は、ただ待機して上空を見守っているのみだった。

 わたしをつかまえている兵もそのひとりだ。


 だがそれとは別に、働いている一団もあった。

 長弓隊は三方に分かれて陣形をつくり、ときどき号令にあわせて一斉射撃をしている。


 一方向だけあけているのは、そちらが崖縁になっているからだろう。

 切り立った崖の下にあるのは、レントール川の滔々とした流れ。

 崖を背にしていては逃げ場がないので、その方向だけは兵を配置することができない。


 そして長弓が狙っている的は、魔物そのものではないのだった。

 小雪の散る空に向かって矢を射かける理由は、矢の雨で魔物のまわりを囲うため。

 魔物が村の方向に飛ぼうとしたときは、そちらに行かせないように矢の壁をつくる。

 森のほうに向かおうとしたときは、そちら側の守備隊がいっせいに矢を放つ。


 そうやって、同じ場所に魔物をとどめておこうとしている。

 同じ場所……つまりラキスとリドがいる場所に。

 あれでは、魔物を彼らのほうにけしかけているのと同じだ。


「弓矢では太刀打ちできないのです。魔法炎でないと」


 いかにも朴訥とした兵士が苦しげな声で呟いた。


「逃げる魔物を追いかけるのも力を使います。だから、ああして逃げ出せないようにする作戦で……剣士さまもそういうご指示を」

「やめさせてよ、死んじゃうわ」


 作戦なんて知らない。そんなものどうだっていい。

 

 上空の闘いは終わる様子がなかった。

 魔法炎の輝きは、こんな場合でも胸を打たれずにはいられないほどの美しさだ。

 あんなに強烈な光が、ただひとふりの剣から放たれているなんて、そしてそれをあやつっているのが、たったひとりの若者だなんて。

 目の前にしながら、なお信じられない気持ちになる。


 細い剣から噴き出す炎は、魔物に呼応するように驚くほど遠方にまで伸びていく。

 そうかと思えば大きく広がり、巨大な敵の身体を包もうとする。

 白銀の炎のあちらこちらで、虹色に輝く火花が同時に燃え立ち、四方にはじけ飛ぶ。

 巨大な魔物の背中を切り裂き、翼にいくつもの穴をうがつ。


 大気をびりびりとふるわせて、醜かいきわまりない咆哮が響き渡った。

 魔物が声を出すのははじめてだ。

 だが、上空の動きに目が慣れてくるにつれて、わたしにも徐々に形勢が読み取れるようになってきた。


 たしかに魔法炎はインキュバスを圧倒している。けれど、致命傷を与えることはできていない。

 魔物の中に蓄えられた魔力と呪力が強すぎて、炎が奥に食い込めず、はね返されているのがわかる。

 いくら体表を包み込み表面を裂いても、翼を傷つけても、胴体の内部に達することができないのだ。


 その体表が、突然いままでにない激しさで変形した。

 ぶよぶよした瘤が背中で膨れ上がったと思うと、膿がはじけるように破裂して、青い霧のようなものが激しい勢いで飛び出した。


 霧ではなかった。細い繊維の束が大量に散ったため、遠目には霧に見えただけ。

 触手の束なのだ、あれが。


 飛び散った触手は空中でうねり、よじられてまた太くなりながら剣士めがけて襲いかかった。

 剣の一閃がそれを断ち切る。

 今度は翼の先で膿が破裂した。根元でも、尻尾でも同時に。


 魔法炎が同じく霧のように広がり、触手の霧をなめつくして火花を散らした。

 こんな状況でも、剣士たちは冷静さを保ちながら、急所を探して魔物の全身をさぐっているように見えた。

 だが闘いが長引くにつれて、見上げる兵士たちの間に明らかな動揺がひろがりはじめた。


 魔法炎の勢いはいまだに落ちていない。

 ただ、長引けば長引くほど不利になるのはわかりきっている。

 これ以上は引きのばせない。

 早急な勝負をつけなければ、剣士の体力が保たないだろう。


 すでに、闘い方が少しずつ変わってきていた。

 防戦一方になるのではなくその逆で、ラキスは自分の防御をほとんどしなくなっているのだ。

 触手の群れをよけることなく突っ込んでいく。

 まるで攻撃すること以外はすべて邪魔だとでもいうように。


 彼も魔物も飛んでいる場所がしだいにずれて、荒れ地から川へとせり出した場所に移動していた。

 そのまま川向こうに飛んでしまったら、ここからでは追うことができない。

 取り返しがつかなくなると皆が青ざめたそのとき、それが起こった。


 魔物の翼が激しくふるえ、触手を放つと誰もが思ったそのとたん、接近していたリドの身体を直接叩き落としたのだ。

 白い翼が折れ曲がり、天馬は宙でもんどり打ちながら川面へと転落していった。


 だが、乗り手のほうは落ちなかった。

 落下する一瞬で、やはり接近していたインキュバスの頭部に飛び移っていた。


 わたしは、自分を押さえていた兵士の腕をはねのけた。

 あわててつかみ直そうとする手を振り切り、転がるように荒れ地に走り出る。

 枯れ草を踏みわけ強風に押されながら、崖近くまで走った。

 上空を見上げた。


 我慢できずに名前を呼んだ。


「ラキス!」


 さかまく風と魔物の咆哮。

 はるか下方の地上から呼ぶ声が、彼に届いたかどうかはわからない。


 彼が下を見たのは偶然かもしれない。

 目が合った気がしたのも偶然かもしれない。

 小さく笑ったように見えた。見間違いかもしれない。


 次の瞬間、彼は両腕を振り上げると、渾身の力で魔法剣を自分の足元に向かって突き立てた。


 巨大な火柱が噴き上がり、魔物の頭部がふたつに裂けた。

 裂け目はまたたくまに数をふやしながら首を裂き、胴を裂き、翼を裂いた。


 行き場を失った触手の束が全身からもぎ離され、糸屑のようにちぎれ飛ぶ。

 ちぎれ飛びながら銀色の火の粉に変わり、渦を巻きつつ灰色の空に吸い込まれていく。


 巨大な身体は、全身が燃え立つ虹色の炎の中だ。

 輝きはしだいに白銀へと色を変えながら、ひたすら浄化の道を突き進む。


 火柱が呼んだ突風の中、巨大な塊となってとどまっていた白銀は、やがて驚くほどの脆さで崩れ落ちはじめる。

 輪郭が砕け、膨大な量の破片が空に広がり、風に吹き流されていく。


 命が終わる。天へと還る。

 そして、かわりに天からは──純白の雪がおりてくる。



 


 ──剣士さまが、あと一呼吸でも剣をふるうのを待っていれば……。

 あとになってから、そういう話が、その場に居合わせた兵士たちの口にのぼるようになった。


 あのとき魔物は、川から荒れ地のほうに戻ろうとしていた。

 飛んでいる位置も低かった。

 もしもう少しだけ待っていれば、剣士さまも川には落ちず荒れ地に落ちて、なんとか命を取りとめたのではないか。


 けれどそうする一瞬すら惜しいくらいに、彼は魔物を討つことに使命を感じ、レントリアの皆を守るために命がけで闘ってくださったのだ。


 そんな話が美談となり、英雄譚となって人々に伝わっていくことになる。

 剣をふるったときの剣士の気持ちを、知っているのはわたしだけだ。


 闘いがすんだあとの崖の上。

 川面は小雪を吸い寄せながら静まりかえり、何ひとつ変わったことなどなかったかのように、悠然と流れていた。

 わたしは目をこらしながら、ひとりじっと立ち続けた。

 深い水底に向かって心の中で呼びかけながら、なんとか命の気配を確認できないかと、川面をみつめ続けていた。





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