天幕
天馬の上で次に目を開いたときには、大木の光景はとっくに通り過ぎてしまっていた。
顔をあげた先には、はるか遠くだと思っていたレントール川の流れが見える。
眼下には冬枯れの木立が続き、いったん上昇したリドの下降が再びはじまっていた。
木立の間にいくつもの天幕が散っているのが確認できる。
野営地にたどりついたのだ。
落ち葉でおおわれた林床の何ヵ所かでは、湯をわかす煙があがっていたが、火の番をしている男性たちは兵士ではないようだった。
力のある村人たちが手伝いに駆り出されたのだろう。
兵士たちの姿は見当たらない……総出で前線にいるのかもしれない。
リドが迷わず地点を定めて下降していくと、下にいた数人がぎょっとした様子で場所をあけた。
天馬に驚いたのではなく、乗っているわたしに驚いたのだ。
わたしは着地したリドの背中で息をととのえ、こわばり切った手足が動くようになるのを待った。
歩けないのでは話にならない。
二度目の飛行に身体が慣れてきたようで、幸い今度はひとりで翼からすべりおりることができた。
ほぼ同時に駆けつけてきた顔なじみの兵士が、大あわてでわたしに手をかしてくれた。
「姫さま、まさかおひとりで」
救護班の班長だ。
腕をかりながらなんとか背中をのばして立つと、わたしは彼に問いかけた。
「ありがとう。ラキスはどこに?」
班長が、はっとしたようにわたしを見下ろす。
こんな場所に末姫が突然やって来た理由を悟ったらしい。
答える声は歯切れの悪いものだった。
「あちらの天幕に……」
「怪我しているわね? 無事なの?」
「……おそらく」
わたしは思わず彼の顔を見返した。
「おそらくって」
「中に入らないようにと命じられています。自分で手当てできるから、許可するまでは誰も入るなと」
誰にも救護されていないということだろうか。どうしてそんな。
「いつもそうおっしゃるのです。ですが、それで大事に至ったことはありません。ただ今回は……」
「今回は?」
「……ちょっと深手ではないかと」
「そう思うなら助けてあげてよ」
ほとんど叫ぶように言うと、わたしは彼が示した天幕のほうに走り始めた。
いつも? 怪我している人をいつもひとりきりにするなんて。
野営地というのは、まったくなんという場所なのだろう。
天幕の入り口はただの垂れ布で、その気がありさえすればなんの障害もなく入れるような手軽さだった。
どうしてもっと早く誰かが入ってくれなかったのか。
わたしは手をのばしかけ、一瞬迷ってから最低限の礼儀を思い出して声をかけた。
「ラキス、入ってもいい?」
返事がない。もちろん返事を待つような礼儀まで守るつもりもないが。
再び手をのばしたわたしを、班長が後ろから呼び止めた。
制止されると思いながら振り向くと、彼は火の入ったランタンをこちらに差し出してきた。
どうやら彼も、剣士の命令を無視して中に入ることのできる人間を求めていたらしい。
わたしはありがたく受け取ると、垂れ布に向き直ってそれをくぐった。
「エセルよ。入るわ」
中に足を踏み入れたとたん、枯れ葉が堆積した土の匂いと血の匂いとが混じりあって鼻をついた。
曇天の下の天幕内は暗かったが、ランタンのおかげで、あたりが橙色に浮かび上がる。
大人が背をのばせる程度の高さに張られた天井と、低いながらも足のついた寝台、枕元におかれた剣の鞘。
立つ場所と寝る場所が確保されているだけでも、ほかの天幕よりは、かなりましなしつらえなのだろう。
天幕の主は寝台に腰をおろし、信じられないものを見るように、わたしの顔をみつめていた。
顔色は正しく読みとれなかったが、闘いの疲労と怪我の苦痛、それに怒りが加算されて、見たこともないほど暗く荒んだ目つきだった。
それでも、わたしはほっとした。
毛布をつかんだままの右手から見て、いままで横になっていたのかもしれなかったが、少なくとも寝込んで動けないわけではないのだ。
「エセル、どうして……」
「リドがつれてきてくれたの」
支柱の突起にあかりを掛けると、わたしはすばやく歩み寄った。
「よかった、起きられるのね。怪我は……」
「馬鹿!」
寝込むどころか、いきなり激しく怒鳴りつけられた。
「ここをどこだと思ってる。うさぎ狩りとはわけがちがうんだぞ。さっさと帰れ」
「帰らないわ」
と、わたしは言った。
声の激しさよりも、彼の上衣の背中部分が血に染まっていることばかりが目についた。
「どうして治療してもらわないの?」
「慣れてるんだ。自分でできる」
「だって背中でしょう。見せて」
わたしが手をのばした瞬間、肩をふるわせるようにして彼が身体をひいた。
怯えているといってもいいくらいの動きだった。
だがそのときのわたしは、よほど傷が痛むにちがいないと受け取った。
「あなたをおいて帰るなんてできないわ。迷惑だと思われてもいい。しつこいと嫌われたって平気よ」
「そういう意味じゃない……そんなことはどうでもいい」
「どういう意味なの?」
「ここにいたら守り切れない」
わたしは彼をみつめた。
はしばみ色の瞳から怒りが消えて、苦痛の影だけが残っている。
いつ会っても冷静だったこの人が、こんなに動揺しているところを見るのははじめてだ。
わたしは自分自身の動揺が逆にうすれていくのを感じ──それからふいに、いましかないのだと気がついた。
離れている間、ずっと思っていたこと。
こんな場所と場合だが、伝える機会はいましかないかもしれない。
いまでなければ、きっと聞いてもらえない。
「……ラキス、この闘いが終わったあとの話をしてもいい?」
わたしは、傷に響かないよう寝台にそっと腰をおろして、ゆっくりとたずねた。
そして否定の返事を聞く前に続けた。
「のんきなことを言い出したと思わないでね、いましか言えない話なの。わたし、ずっと考えていたのだけど……あなたが故郷に帰るとき、わたしもついていってはいけない? ついていきたいの。わたしはたしかにお城育ちだけれど、どこにいても案外やっていける人間だと思うのよ。できるだけ邪魔にならないようにするから」
言いながら、くだらないと一喝されることを覚悟した。
だがラキスは怒るというより、むしろ追いつめられたような顔をした。
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいない。本気よ」
「無理だ。住む世界がちがいすぎる」
「身分がちがうってこと? 家系図のことなら気にしないで。ふたりにはなんの役にも立たないものだから」
「無理だと言ってる。同じことを何度も言わせるな」
「どうして? わたしといるのがそんなに嫌?」
わたしは思わず身を乗り出した。
「うぬぼれていると思われてもしかたないけど、でも……あなたがそこまでわたしを嫌っているとは、わたしにはどうしても……」
「城に帰ってくれ、エセル、頼むから」
そのとき、天幕の外が急に騒がしくなった。
兵士たちが来たのだろうか、叫び合う緊迫した声が聞こえてくる。
「話は終わりだ。もう行かないと」
立ち上がった彼が、痛みに息をつめて動きを止めた。
わたしも反射的に腰を浮かし、無意識のうちに彼の背中に手をのばした。
上衣の裾を持ち上げて傷の具合を診ようとした。
「動かないで。ちゃんと手当てを……」
言いかけたが、続きの言葉が出なかった。
上衣の下は血まみれといってよかったし、おざなりに包帯が巻かれてもいたが、それでもはっきり見てとれた。
脇腹から背中にかけて広がっている銀鱗を。
わたしの指から裾がすべり落ちたので、見ていた時間は短かった。
けれど、わたしの中ですべての景色とすべての音が遠のいた。
わたしは、自分の前に立つ人が誰なのかわからなくなった。
自分のいる場所がどこであるのか、わからなくなった。
自分が倒れてしまったのかとすら思った。
……倒れてはいなかったし、耳もちゃんと聞こえていた──目の前の若者がわたしの名前を呟いたのが、聞こえたからだ。
わたしは数歩あとずさった。
直後に、天幕の垂れ布をはねのけて走りこんできた兵士が叫んだ。
「西の包囲が破られました」
「いま行く」
落ち着いた声でラキスが答えた。
寝台の足元にあった革の鎧を手にしたが、背中側が裂けているのに気づいてあっさりと投げ置いた。
剣帯と剣だけ帯びると、何ごともなかったように冷静な表情で兵のあとに続く。
そして、一瞥もせずにわたしの横を通り過ぎた。
わたしも引き止めなかった。
凍りついたようにその場に立ち、ようやく振り返ったとき、もう天幕の中に誰も残ってはいなかった。





