空、そして
リドは出会ったときと同じように、窓の向こう側に登場した。
ただし登場のしかたは、鎧戸に体当たりしてくるという荒っぽいものだったが。
姿もかなりちがっていた。
純白の毛並みは痛ましいほど色艶をなくし、戦場からそのまま飛んできたことを示す泥と土ぼこりで汚れきっている。
そして汚れている理由が、泥やほこりだけでなく血であることに気づいたとき、わたしは思わず身を乗り出して叫んでいた。
「ラキスは? どこにいるの?」
怪我をしたのは、天馬ではなく乗り手のほうだ。
リドが頭を振ってわたしをうながしている。
わたしは迷う暇なく天馬の背中に飛び移り、その首すじにしがみついた。
生まれてはじめて、ひとりきりで空を飛んだ。
耳元で寒風が唸りをあげる。
かぶったフードがたちまち背中に吹き飛んだが、もちろん両手はしがみつくだけで精一杯だ。
手綱になるべき革紐をつかみとる余裕もない。風圧で目も開けていられない。
ようやく薄目をひらくと、赤茶色の屋根の連なりが下方を流れ去っていくのが見えた。
以前乗ったときのような人目につかない森の上ではなく、都の上を横切っているのだ。
大聖堂は方向違いで見えなかったが、並んだ屋根の間から、ときどき小聖堂の尖塔が突き出している。
下方の眺めに吸い込まれそうになったため、視線だけをなんとかあげると、空は雨でも降り出しそうな曇天だった。
天馬の首に頬を押しつけながら、しだいにまばらになっていく家々を越え、市壁を越えた。
徐々に朦朧となっていく頭の中で、どうか間に合ってと、ただそれだけを思い続けた。
草地、牧場、畑。
ようやく村に入ったらしい。
点在していた茅葺屋根が急に密集してくると、火の見櫓がすぐ真下を通り過ぎた。
強まってきた向かい風を避けるため、リドがずいぶん下降している。
速度もかなり落ち、そのため村の辻に立つ何本かの大木が、根元あたりまではっきり見えた。
槍を手にした兵士たちが、緊張した様子で見張りに立っている。
何を見張っているのだろう……わたしは彼らが囲んでいる大木に目をこらし、そのとたん、そうしたことを強く後悔した。
数本ある木の幹に縛りつけられているのは、たくさんの魔物たちだった。
いや、まだ完全に魔物ではない。本体が滅びれば人間の姿を取り戻すはずの僕たち。
不安定に変態している途中の生き物が、何体もまとめて大縄でくくられている。
それらは二本足で直立していたが、腕にあたる部分に腕はなく、人外のものである青黒く幅広い何かに、すべて生えかわっていた。
しかもさらなる変形を求めるように、大きく伸び縮みをくりかえしている。
僕たちは後ろを見せた状態で縛られていたので、同じく人外に変形してしまった顔面はちらりと認められる程度だった。
それでもやはり……見るに耐えない光景としかいいようがない。
わたしはかたく目を閉じ、天馬の首に顔を伏せた。
どうして?
どうしてインキュバスは、あんなものを際限もなく造り出そうとするのだろう。
食欲のために人を襲うというなら、許せなくても理解はできる。
でも、まるで獲物をもてあそぶように、いたぶって面白がってでもいるように……。
わたしの心の一部分が、目を閉じるべきではないと自分を叱咤していた。
ラキスはこういう光景も、もっとひどい光景も、逃げることなく見てきたはず。
それならわたしだって。
だが、どうしてもできなかった。
顔を上げることも目を開けることも、あのときのわたしには、どうしても。
……いまは?
「エセル……」
泣き出しそうにくぐもったティノの声が聞こえる。
「帰ろうよ。ねえ、帰ろう」
ティノは目の前に散らばっているものを直視している。
目を離したくても離せないのだろう。
わたしは自分の意志で見ている。目をそむけてもいないし、ちゃんと理解もしている。
散乱しているのは人の骨。
いままで枯れ枝だと思って注意してこなかったものも、もちろん同じだ。
ばらばらになった人骨は、ふたかかえはありそうに太いカエデの老木を迂回した場所に、集中的にばらまかれていた。
だが、枯れ葉をかきわけてよく見れば、きっと別の場所にも飛び散っているにちがいない。
頭蓋骨とおぼしきものは二つだったが、本当はいったい何人分なのか。
動物の骨であるならどんなにいいかと思ったが、衣服だった布切れがところどころにまきついているため、誤解したままでいることはできなかった。
枯れ葉の間から、打ち捨てられて錆びついた長剣までも確認できる。
まったく持ち主の助けにならなかったことだけはまちがいない。
「インキュバスじゃないわ」
わたしは呟いた。
インキュバスの犠牲者は、こんなふうにはならない。
かなり月日がたっているようだから、これはきっと、魔物退治の報奨金目当てで集まったならず者たちの骸だろう。
あるいは山賊たちのなれの果てかもしれない。
この丘に巣食っていたという魔物に、太刀打ちできなかったのだ。
魔物にやられたあと、野犬たちがさらに念入りな始末をしたのかもしれないが、いずれにしてもインキュバスとはちがう。
「そんなのどうでもいいじゃない。エセル、行かないでよ」
すがりついてくるティノをひきずるようにして、わたしは足を進めた。
半分はこの場から離れたいという衝動のため、もう半分は目的地がすぐそこだという確信のため、自分でも驚くほどの力が出た。
その確信のとおり、斜面が終わり、突然、平坦な地面がひらけた。
目的地に到着したのだった。





