城
あとになって考えてみれば──。
ふたりで空を飛んだあの日が、彼にとっての転換点だったということがよくわかる。
避けられていると気づいたのは、何日後のことだっただろう。
珍しいお菓子が手に入ったので、いっしょにつまもうと彼の部屋に向かっていたとき。
回廊の向こう側でみつけた姿に手を振ると、すっと視線をはずして、角を曲がっていってしまった。あれが最初だろうか。
けれど自覚してからもしばらくは、すれちがってしまうのは討伐続きで疲れているせいなのだと、自分に言いきかせていた。
どんなに寒さがきびしかろうと風雨が激しかろうと、季節や天候を問わずに出没するのが魔物だ。
それが猛獣狩りとの大きな違いのひとつでもある。
荒れ模様の天気の中を帰ってくれば、いちいち姫君に挨拶をしたりせず部屋にこもりたくもなるだろうし、翌日だってぶらぶら出歩く気にはなれないだろう。
討伐から帰った次の日の昼下がり、中庭に光が差し込んでいる時間帯に落ち合うこと。
あるいは南の塔のさらに南、北の塔とは正反対の位置にある果樹園のそばで、人目を気にすることなく語り合うこと。
ごく自然にそんな習わしができあがっていたが、それが守られなかったからといって、文句をとなえる筋合いはわたしにはない。
兵舎につめて城に足を向けないことがあっても別におかしくないし、軍議に夢中でわたしの姿が目に入らないことだって、ときにはあってかまわない。
都に市がたてば見て回りたくなるのも当然だ。
そのときたとえひとりではなかったとしても、それくらいの自由は誰もが持っていいはずだ。
何度も何度も自分の心に言いきかせ……そしてとうとう、認めざるをえなくなった。
明らかに視線をそらしたり、返事もせずに通り過ぎたり。
男の人がそんなことをしたくなる理由なんて、ただひとつしかないのだと。
でも、どうしてだろう。わたしの何が、そんなにいけなかったのだろう。
そう考えるたびに、なんだか何もかもが悪かった気がして絶望的な気持ちになった。
何よりもやりきれなかったのは、こんな日が来るかもしれないと予期する何かを、自分の心の奥底にみつけてしまったことだ。
魔物の話を持ち出したとき。
わたしは何ひとつ彼の気持ちを考えないまま、不用意に会話を続けていた。
そんなことがあのとき以外にも、実はたくさんあったのでは……。
何不自由なく育ったわたしには、きっと彼が味わってきた本当の苦労はわからない。
致命的な言動をしたとしても、わたしはきっと気づきもしない。
いままで彼は、それを言わずに我慢してくれていただけなのかもしれない──。
そんなふうに悶々としていたときに、姉姫たちから驚くような情報を聞いた。
女王陛下が、今度の討伐を最後に彼との契約を打ち切ると決めたというのだ。
「打ち切るといっても、剣士さまからのお申し出なのよ」
二番目の姉が、わたしの顔色を気づかいながら言った。
「彼のご両親がご病気なのですって。知らせが届いてすぐにも故郷に帰りたいというのを、お母さまが引きとめたの。せめて今度の遠征まではいてほしいと」
一番上の姉も、励ますように言葉を添える。
「落ち着いたら、また戻ってきてくださるわよ」
ふたりとも、妹の頭の中に剣士さまのことしかないのを知っていたので、なんとかなぐさめようとしてくれていた。
けれど、わたしはその思いやりに返事をする余裕もなく、部屋から走り出ると中庭に向かった。
リドとともに庭にいる彼の姿を、先ほど見かけたばかりだったのだ。
彼らが中庭にいること自体が珍しかったが、気ままな散歩をするリドを、彼が庭から連れ出そうとしている様子だった。
だからわたしも声をかける勇気が出ず、逃げるように回廊を通り過ぎてしまった。
だが、もうそんなことを気にしていられる心境ではない。
「契約を打ち切るという話は本当?」
前置きもせずにいきなり話しかけると、彼はびっくりしたように振り返った。
そのため、実にひさしぶりに目が合った。
「本当なのね? どうして? だってあなたのご両親は……」
「その理由が一番無難だと思ったから」
と、彼が答えた。
「おれは今まで短期契約しかやったことがないんだ。長期の話を出されたから冗談じゃないと思って適当に言ったら、信じてもらえたみたいで助かったよ」
「そんなに帰郷したいの?」
「そんなに理由が気になるのか?」
返ってきた声の冷ややかさは、わたしをぎょっとさせるくらいだった。
こんな声も出せる人だったのか……そして、そういう声を出させたのはわたしだ。
「気になるわ。もしも……わたしに悪いところがあるのなら……」
「そういうところが悪いって言ったら? 自分で気がつかないところ。気がつけないところ」
彼はわたしを上から下まで眺めたが、まるで動物でも値踏みするような見方だったので、思わず身がすくんだ。
「まあ、あんたのせいじゃないよ。そういうお育ちなんだからしょうがない。育ちが悪い者の気持ちは話したってわからないし、わかってもらいたくもないな」
「わかってもらいたくない……」
「そう。そしてわかる必要もない、あんたにはね」
それが理由? たずね返す声がふるえた。だから出て行くの?
すると彼は意外そうに眉をあげた。
「まさか。一番の理由は、もうすぐ冬が終わるから」
「え?」
「旅の途中だって最初に言っただろ。ここで足止めされてるうちに完全に冬になって、出かける時期をのがしたんだ」
でも冬ごもりには最高だったよ、と、彼は軽い調子で続けた。
暖炉があってベッドがあって、ぜいたくな食事もついていて。ただ、ずっといるのは飽きるよな。そろそろ次の場所に行きたい。何かふしぎ? あれ、まさかと思うけど……。
「もしかして、自分がいるから旅に出るのをやめたんだと思ってた?」
わたしの頬に血がのぼった。
そうであればいいと夢想したのを、認めないわけにはいかなかった。だからといって、こんなふうに指摘されるいわれはないが。
わたしは答えられずに押し黙り、長い時間、彼の視線にさらされていた。
ふいに彼が、わたしに顔を近づけた。目が細められ、唇の片端がつり上がる。
侮蔑の笑みというものを、生まれてはじめてわたしは見た。
「キスをしたのは約束したから?」
問いかけてきた声はやさしかった。
「え……いいえ、約束なんて関係ない。わたしがそうしたかったから」
「だよな」
満足そうにうなずくと、さらに顔を寄せてラキスは告げた。
「だから、おれの勝ちだ」
「勝ち……」
「目標を達成したら、次の娘を探したくなる性分なんだ。案外簡単にひっかかってきたんで拍子抜けしたけどね。行くぞ、リド」
言うなり身体をひいて、身をひるがえした。
花壇のある場所を横切り、もうすべてに興味をなくしたように立ち去っていく。
何もないように見えるあの花壇には、早春の花を咲かせるスノードロップの芽がたくさんあるのに……。
剣士の歩みを止める言葉もなく、わたしは呆然と立ちつくしていた。
そしてしばらくの間、天馬がその場に残っていることにも気がつかなかった。
わたしは、すべすべした真っ白なたてがみをなでながら、天馬の肩に顔を押しつけた。
リドがわたしになついたままでいることが、唯一のなぐさめだ。
そういえば、この中庭ではじめてリドにさわり、ラキスと会話したのだと思った。
そしてそのあとも、何度ここで落ち合っただろう。
ベンチにふたりで腰かけながら、あるいは並んでゆっくり歩きながら、彼が語ってくれたいろいろな話──たとえば都から遠く離れた渓谷にかかる、みごとな二重の虹。
たとえば村人たちが一晩中、花をまきながら歌って踊る星まつり。
たとえば晴れた大空でくりひろげられる、天馬と雲雀の追いかけっこ。
王城でしか暮らしたことのないわたしには、夢のような各地のできごと。
突然、わたしは気がついた。
口数の少ない彼があえて自分から話してくれたのは、お姫さまが好むおとぎ話みたいな話ばかりだった。
そういうものだけを、わざわざ選んで話していたのだ。
魔物狩りの過酷な場面は封印して……そして内心、あきれながら思っていたにちがいない。
話したってわからない、わかってほしくもないのだと。
「……でも、雲雀と追いかけっこした話は楽しかったわ、リド」
と、わたしは天馬の胸にささやいた。
「リドのほうが、わたしよりずっと彼のことを知っているのね。あなたに人の言葉が話せればいいのに。そうしたら、いろんなことを教えてもらえるのに……」
けれどささやいたあとで、わたしはその思いつきを取り消した。
もし天馬が言葉を話して剣士のそばにいたりしたら、わたしの居場所なんて最初から、これっぽっちもなかったにちがいないのだと思った。