空
身体全体が宙に浮いた気がした。
またたくまに果樹園をこえて舞い上がり、さらに上へ、空へ空へと天馬は駆けのぼっていく。
いつもは見上げて歩く城壁を、翼はいともやすやすと飛び越える。
壁塔の窓からのぞく衛兵の、あぜんとした顔はもう見えない。
上から見下ろす王城はどんなふうかと思っていたが、背後を振り向く余裕はどこにもない。
空へ、風の中へ、光のそばへ。
わたしは真冬用の乗馬服に革の手袋をつけ、フードのついた厚手のマントを着込んでいる。
寒風の冷たさは想像以上だったが、背中に感じる剣士の胸のあたたかさ、わたしをはさみこむ両腕のたしかさもまた想像以上だった。
彼のほうも冬のケープを身につけ、手袋に毛皮のブーツのいでたちだったが、たいていの兵士がそうであるようにひどく薄着だ。
彼も感じるのだろうか、わたしの身体のあたたかさというものを。
上じゃなくて前に行けよ、と、あきれたように指示を出すラキスの声が聞こえた。
お姫さまが凍え死んじまうだろ。
凍えないわ、いっしょにいれば。答えようとした声は、口に出す前にかき消えた。
天馬が上昇するのをやめて、空をすべるように進みはじめたからだ。
青空ばかりの視界から目を転じると、広がる森が空の下に見渡せる。
城壁の外につらなるオークの森は、いまはすっかり落葉して、ただひたすらに茶系の色彩が続いていく。
淡い茶、濃い茶。
灰色がかった茶色、緑がかった茶色、あるいは赤味を帯びた色に、黄色味を帯びた色。
まるで茶系の糸をかき集めて、細かい刺し目でうめつくした刺繍のよう。
ああ、なんて──。
「きれい……!」
わたしが天馬の背ではじめての声をあげると、ラキスが少し驚いたように応じた。
「こわいって言うのかと思った」
「ちっともこわくないわ。なんて、きれい」
「冬だから、なんの色もないけどね」
「色なら十分あるわ」
「じゃあ、あっちは?」
天馬が首をまわして方向を変える。
首と翼の間から、今度は別の色彩が見えた。
緑。緑と茶色のしま模様が、思いがけずいっぱいに広がっていた。
森に接した荘園の小麦畑だ。
秋まきの小麦の苗が、霜にも雪にも耐え抜いて確実に育っている。
春には花穂がつき、やがて麦穂がたわわに実るだろう。
「初夏には一面、金色になる」
背中からラキスが呟いた。わたしの目の奥を、こがね色の夏の光が走り抜けた。
「そのころになったら、また乗せてくれる?」
呟き返したが、返事は聞きそこねた。
夢中になって前に出すぎたわたしの身体を、彼の右腕が強く支えて引き戻す。
それから彼自身も少し前のめりになって、右の手綱を握り直し、ぐっと手前に引き寄せた。
ちょうどそのとき、わたしも偶然に右側を向いた。
真横に彼の顔があり、視線と視線がつながった。
あ、近い。
そう思った一瞬後、ひかれあうように接吻した。
そして唇を離してから少しの間、おたがい、じっとみつめあっていた。
見とれたというより、あまりに驚いたのだ、ふたりとも。
もっとも、そんなに長いことみつめあっていられたわけではない。
上空だったし、リドがわざと胴を揺らしてわたしたちをからかうので、陶酔するどころではなかった。
けれどそのあと、空をまわって王城のほうに戻っていくときの景色は、ほとんど記憶に残っていない。
見たいと思っていた城が眼下に迫ってきても、心はまだ空を飛んでいた。
天馬が無事に下降して、城壁の中に降り立ったときも、まだ。
わたしはふらふらだった。
心だけでなく、身体のほうもひたすら浮かび続けているようで、倒れずにいるのがやっとだ。
リドの首にもたれたまま身動きもできずにいると、後ろからラキスがわたしを抱えるようにして、翼の坂道をすべりおりた。
そういう格好でしか降りられなかったし、支えてもらわなければとても立っていられなかった。
ふたりとも、ほかの体勢を選ぶことはできなかった。
それでもやはり、抱擁だったのだと思う。