森
斜面の勾配は、しだいにきつくなりつつあった。
林床をおおう濡れた朽ち葉が、坂になると前にもまして、わたしたちの歩みを妨げる。
張り出した木の根も落ち葉にうもれて、ますますみつけにくい。
ブナの枝から秋に落ちたドングリが、割れたり腐ったりしながら大量に散って、足元を悪くするのに貢献している。
村に近い平坦な場所では、秋になるとたくさんの豚をつれた豚飼いたちが、ドングリを目当てに森に入るのだった。
冬の間の食糧不足にそなえ、秋のうちにたっぷりとドングリを食べさせて家畜を太らせる。
もちろん自分たちの食事用に拾いもする。
だが、さすがにこんな斜面までは誰も入ってこないらしい。
枯れ色が延々と続く木立の中で、高い梢にからんだヤドリギの葉だけが緑を保っている。
ヤドリギは、大きな玉みたいな丸い形で枝にひっかかっている植物だ。形がふしぎで面白いのだが、残念ながら、いまのわたしに眺めを楽しむ余裕はなかった。
いったい、あとどれくらい登ればいいのだろう。
わたしは、ティノにそうたずねたくてしかたなかったのだが、機会をみつけられずにいた。
たずねてもしかたないという思いもあるが、先ほどから彼がむっつりと黙りこんでいるので、なんだか声をかけづらかったのだ。
少年は、最初は無邪気に話したり鼻歌を歌ったりしていたが、途中で何かに気づいたそぶりを見せ、それから急に寡黙になった。
歩き方は、不自然なくらいゆっくりだ。
いくら斜面でも、そこまでわたしに気をつかわなくて大丈夫だということは、ちゃんと告げなければならなかった。
「ティノ、もう少し早く歩いても平気よ」
と、わたしは控えめに言ってみた。
「さっきからずいぶん無口になっちゃったのね。どうしたの?」
案内人は、はっとしたように振り向き、口ごもった。
「実はティノ、いま悩みがみっつあって……」
「みっつも?」
「うん、みっつ……あるですよ」
わたしはつんのめりそうになったが、なんとかこらえた。案内人が足を止める。
「変でございます?」
「……変でございます」
「敬語、うまく使えないですよ」
「まあ、ティノ」
わたしは思わず少年に近づくと、身をかがめて顔をのぞきこんだ。
「そんなこと心配しなくていいのよ。あなたらしく、普通におしゃべりしていればいいの」
「でもあの……いまさらだけど、ティノはお姫さまとおしゃべりできる身分なんかじゃ」
「いやだ、悲しいこと言わないで。こんな森の中で、わたしがどれだけ役立たずだと思っているの? ここではあなたのほうがよっぽど王さまじゃないの。それに、堅苦しいしゃべりかたはわたしも苦手。ラキスだって敬語なんか一度も使わなかったわ」
それを聞いて、ティノの顔が明るくなった。
ほっとしたように態度をゆるめた案内人に、わたしは歩みを再開するよう促した。
少しでも先に進みたい。
とりあえず、ひとつめの悩みは解決したようだし、次の悩みは歩きながらでも十分聞いてあげられるだろう。
「ふたつめはね」
わたしの問いかけを受けて少年が言った。
「ティノは剣士さまに会わないほうがいいのかもしれないってこと。つまりその、剣士さまって魔物を狩る人でしょ。ティノを見たら狩りたくなるかも、こんな目と耳だから」
「まあ、ティノ」
わたしは、のろのろ歩いている少年の横から、再び顔をのぞきこんだ。
金色の虹彩はたしかに稀だが、形が人間とちがうわけでもなく、慣れてしまえばとてもきれいだ。
「そんなこと心配しなくていいのよ。ラキスはきっと、あなたのことが大好きになると思うわ」
「そ、そうかな」
「そうよ。約束する」
今度はそれほど明るい顔にはならなかったが、わたしは自分の約束に自信があったため、かまわずに足を速めた。
前方の斜面にはごつごつした岩が突き出していて、どう見ても、このあとの道のりは簡単ではなさそうだ。
わたしがどこを足場にして登ればいいか迷っていると、気乗りしないように後ろからついてきたティノが、見かねたのか進み出た。
慣れた足取りで岩棚にあがり、上から手を差し出してくれた。
感謝して上に登ると、わたしはブーツにつけていた木底を見やった。
重宝していた固い底も、岩に当たるとけっこう足にひびく。
はずしたほうがいいかどうかを案内人にたずねたが、なぜか返事はすぐに返ってこなかった。
しばらくして聞こえてきたのは「みっつめはね……」という、もごもごした呟きだった。
「みっつめは?」
言いにくそうにしているのでたずねてみると、予想外の言葉が向けられてきた。
「ここから先の道はけわしいよ。お姫さまには無理だと思う。引き返したほうがいい」
わたしは、みたび少年の顔をのぞきこんだ。
今度はいままでのように余裕のある口調にはならなかった。
「そんなこと心配しなくていいわ。お姫さまが気になるのなら小間使いだと思ってちょうだい。引き返すなんてできるわけないでしょう」
「だよね……」
ティノがため息をつく。
「だから悩みなんだ、どう言ったら説得できるかって」
「どうして急にそんなことを言い出すの? 地形のことは最初から知っていたはずよ」
「鳥がいない」
わたしには唐突に聞こえたが、少年はずっとそれを考えていたらしい。
「さっきからぜんぜん姿が見えない。最初のうちはいっぱいいたのに」
「でも冬だし……」
「冬でも野鳥はいるんだよ。だけど鳥のかわりに、どんどん強くなってきてる気配があるんだ」
「……」
「魔物の気配──ティノの勘はよく当たる、まちがいないよ」
わたしはしばらくの間、答えられなかった。
そうでなくても乾いていたのどが、完全に干上がってしまい、声がうまく出てこない。
ようやく押し出した言葉は切れぎれにかすれていた。
「もしもそうなら……ますます早く行かないとラキスが……」
「エセル、聞いて」
歩き出そうとしたわたしの行く手を、ティノがさえぎって引き止めた。
「ほんとはティノ、村長さんから頼まれてた。上に行って、勇者さまがいるかどうか見てきてほしいって」
「え?」
「もちろん、ティノ自身が行きたかったんだ。勇者さまが村に下りてきたら大人たちに取り囲まれて、きっとティノなんか近づけないでしょ。だから一番先に会いたいって思って……。でもどうして村長さんがそんなことを頼んできたかはわかるよね?」
「どうして……」
「寒い季節に食べものもない場所にいて、なんで下りてこないのか。魔物をやっつけたらすぐに下りて来るだろうって、みんな待ってたのに。でも天馬もいっしょだし、勇者さまなんだから絶対うまくやってるはずだっていう人たちもいたけど……ティノももちろんそうだと思ったから、わざわざ山登りをする気になったんだけど」
「……死んでるって言いたいの?」
わたしは言った。
かすれたのどから無理に絞り出したため、自分のものではないような低い声が出た。
「エセル」
「そう思うならそれでもいいわ。それに魔物の気配がするんじゃ登りたくないのも無理ないわね。あなたは引き返してちょうだい、ティノ。ここから先はわたしひとりで行く」
「エセル!」
突然、ティノがわたしの両腕をつかんで揺さぶった。
「しっかりしてよ。落ち着いてよく考えてよ。エセルがぶらさげているのは何? 剣のかけらだって言ったよね」
「言ったわ。離して」
「魔法剣は砕け散ったんだ。そんなこと村では誰も知らなかった。旅回りの吟遊詩人も、そんなこと教えてくれなかった。剣がないのにどうやって魔物退治なんかできるのさ」
「離して!」
少年の手を振りほどくと、わたしはその場に崩れるようにすわりこんだ。
立っていられなかった。
「考えてるわよ、それくらい。言われなくたって何度も何度も考えたわ。でも」
「エセル……」
「でも死んでなんかいない。必ず生きてる。生きてるって信じてる。だから」
「ごめん、ティノ言い過ぎ……」
「だからわたしが探さなきゃ。わたしが会いにいかなきゃ。あの人、自分からは絶対にわたしに会いにこないから」
そのとき。
ふいに頭上で葉ずれの音が響き、パラパラと木の葉と小枝が舞い落ちてきた。
裸木の梢にからみついていたヤドリギ。その常緑の葉をはね飛ばし、生き物のはばたきが急速に近づいてくる。
ぎょっとしたようにティノが振り向き、上を見上げて棒立ちになった。
すわりこんでいたわたしは、振りほどいたばかりの彼の手をつかむと思い切り引いた。
野鳥が来たかと一瞬でも期待した、自分の甘さが恥ずかしい。魔物だ!
頭上から襲いかかってくる魔物は猛禽類に似ていたが、空間をゆがめるような邪気も瘴気も、猛禽などではありえなかった。
裂けんばかりに見開かれた両眼が、狂気にとり憑かれているようだ。
鈍い青と銀の斑模様におおわれた翼が、陽光を受けて油膜のように輝いている。
くちばしが大きくひらき、どろどろした青っぽい異物が吐き出されたが、落ちてくると思った瞬間ふたたび中に引き込まれた。
かわりに、耳をつんざく金属的な鳴き声が響きわたった。
獲物を発見した合図かもしれない。
急に腕をひっぱられたティノが転んだ。
その小柄な身体の上におおいかぶさりながら、わたしは頭上を振り仰いだ。
胸元を手でさぐったのは、完全に無意識の行為だったと思う。
何ひとつ期待したわけではなかったのだ。
ただ夢中で首飾りの鎖を引き出し、留めてあった剣のかけらを握りしめた。
魔物に向かって、それをかかげた。
効果は絶大だった。
掌におさまるほど小さいはずの破片から、圧倒的な勢いで魔法の炎が噴き出したのだから。
噴き出した炎が、狙いはずさず敵を直撃したのだから。
魔物は文字通り吹き飛んだ。
梢高くまで飛ばされた翼が、白銀の光の中で、またたくまに燃えちぎれていく。
巻き上がった閃光のつむじ風が、白くちぎれた身体と梢の小枝をはじき上げ、はね飛ばしながら上空に向かう。
たぶん魔物としては、かなり小さいものだったのだろう。
北の塔で見たときのような吹雪は起こらず、浄化の痕跡は木立の上であっというまに溶け消えた。
唐突に静まりかえった森の中──ただ白い羽毛が木の葉とともに、はらはらと舞い落ちてきただけだった。
「すごい……」
うつ伏せになったままのティノが呟いた。
わたしも呆然として、声を出すこともできずに、しばらくのあいだ梢の上をみつめていた。
それから、はっと我に返ると、掌に握りしめた首飾りにあわてて視線を落とす。
かけらに閉じ込められていた魔法炎が、いまの攻撃ですべて出て行ってしまったのではないかと心配したのだ。
だが幸いにも、炎は以前と変わらぬ様子でそこにおさまっていた。
細い虹色の芯が、何ごともなかったように淡くほのかに揺れている。
わたしは、ほっとしながらそれを衿の下にしまい、立ち上がろうとした。
実際一度は立ち上がったが、そのとたんに視界が不安定に回り、身体全体が宙に浮いた気がした。
平地だったら単なる立ちくらみですんだだろう。
だが、ここは岩棚の上だ。
足を踏みしめようとしたが、その足元がまた不安定にすべる。
支えを求めてのばした手が、少年の手をすり抜けて宙をつかむ。背中から倒れていく。
全身の血が、焦りのあまり急激に逆流していく感覚とともに──。
落下。
その言葉が脳裏をかすめたのは、ほんの一瞬のことだった。