回廊
けれど──。
ふたりで過ごす時間が、いつもこんなふうにおだやかで楽しいものだったかといえば、残念ながらそうではない。
さわると怪我をしかねないような危うさを、彼から感じとったことが、一度ならずあったからだ。
それを感じたのはたいてい会話の最中で、話題を変えたほうがいいとわたしが判断することもあれば、彼自身が合図を出してくることもあった。
もっとも、それで会話がとぎれてしまったことはほとんどない。
もともとがたわいないおしゃべりだったし、話の内容よりも、ふたりで会話するということ自体がわたしにとって重要だった。
完全にとぎれてしまったのは、一度だけだ。
冬の寒さがもっともきびしかった時期。中庭に降りつもった雪を、ふたり並んで回廊から眺めていたときに。
前日までの悪天候がすっかりおさまり、顔をのぞかせた太陽がきらきらと光をふりそそいで、雪景色をさらなる銀世界へと変えている。
日なたの銀と日かげの銀。
灌木はそろってふかふかの雪ぼうし、ベンチには雪のふとん、小道はどこかにいってしまった。
雪の中に踏み出す気にはなれないわたしたちとはちがい、天馬は自由だった。
花壇のまんなかと思われる場所に堂々と立ち、雪に足をうずめている。
まるで雪野原から掘り起こされた彫刻のようだったが、彫刻ではない証拠に、翼がときおり大きくはためいた。
日なたと日かげの銀色は、一対の翼の上にもあるのだった。
わたしが言葉をつくしてリドの美しさをほめたたえたのも、無理ないことだったと思う。
こんなにすばらしい情景を見ることができるなんて、昨年までの冬なら思いつきもしなかった。
ラキスは、最初のうちは黙って、わたしの賛辞を聞いていた。
だが賛辞が長くなりすぎたらしく、途中でふいに話をさえぎると、ぶっきらぼうな調子で言った。
「天馬だって一種の魔物だけどね」
わたしは驚いた。
「聖獣のことを魔物だなんて。どうしてそんなひどいことを言うの?」
「聖獣と魔物と、どこがどうちがうんだ。見た目? きれいだから良い存在だってことか?」
「リドに聞こえるわ。声を落として」
「聞こえたっていいさ。こいつは人間の評価なんか知っちゃいないんだから」
「そんなものなの?」
「そんなものだよ。そろそろ中に入ろうか。寒いだろ?」
天馬や一角獣……たしかに聖獣と奉られているものも、魔物の一部なのかもしれない。
人間が勝手に線引きしているだけかもしれない。
けれどそういう言葉が、ほかならぬ天馬にまたがり魔物を狩る立場の剣士の口から出たことが、とても意外なものに思えた。
「……ラキスは魔物が嫌いではないの?」
わたしは入ろうという言葉には答えず、かわりに別の質問をしてみた。
この質問は、以前から一度たずねてみたいと思っていたことではあった。
それにふさわしい機会がこのときだと思ったわけではない……ただ、ほかの話題がすぐに思い浮かばなかったのだ。
もう少しだけここにいて、ふたりで銀世界を眺め続けるために必要な話題が。
だが、やはり適切ではなかったらしく、彼は不本意そうに顔をしかめた。
「嫌いに決まってる。失礼なこと言うなよ」
「ごめんなさい、もちろんそうよね。でも……」
「でも?」
「討伐から帰ってきても、ほかの人たちのように喜んではいない気がして。変な意味じゃないのよ。つまりその……魔物が嫌で討伐しているのではなくて、わたしたちが困っているから……討伐することを求めているから、人助けをしているんじゃないかと……」
ラキスはすぐには答えず、足元近くにつもった雪に視線を落としていた。
それから突然「おれが八歳のときに」と呟いた。
わたしは、自分が合図を受け止めそこねたことを悟った。
触れてはいけない部分に、素手で触れてしまったことを。
それくらい、低く厳しい調子の声だった。
「八歳のときに父が死んだ。山から下りてきた魔物に食い殺されたんだ。母親は、少し離れた場所にいたおれに早く逃げろと怒鳴ったが、自分は父のそばに駆け寄ったから、同じように食い殺された。おれは無事だった。たぶん……」
そこで彼は歯を食いしばるように黙りこみ、唐突に続けた。
「よっぽど満腹になったんだろ。そういうわけで、おれはいま魔物狩りをして暮らしている。剣士になったのは、言ってみれば贖罪のようなものだ。人助けなんてばかばかしいこと言わないでくれ」
「……ごめんなさい」
わたしはやっとの思いで言った。ほかに何が言えただろう。
「あやまらなくていい」
「ごめ……」
「しつこいな」
彼はいきなり、わたしのほうに向き直った。
「おれの言うことなんかでいちいち傷つくなよ、うっとうしい。適当に聞き流していればいいんだ」
それからきびすを返すと、わたしを置き去りにして足早に歩き出した。
あわててあとを追いながら、わたしこそ彼に伝えてあげたかった。
わたしの言うことなんかで、いちいち傷つかなくてもいいのだと。
けれど、それをしたらもっと傷つけてしまう気がして、口にすることができなかった。
そんなことがあっても……。
そのためにふたりの距離が離れたということはなく、むしろ逆に近づいたのではないかとさえ思う。
翌日には、何ごともなかったように同じ場所で会い、たわいない話をしたり小さなことで笑いあったりした。
さらに厳寒を乗り越えたころには、天馬の背中にふたりそろって乗ることさえもやってみた。
ふたり乗りどころか、そもそも自分以外の人間にさわらせたことなんてほとんどない。
最初ラキスはそう言って難色を示したが、わたしと、そして天馬自身の要望が強かったためあきらめたようだ。
よく晴れた風のない天気を待ち、城から少し離れた果樹園近く、なるべく人目につかない場所を選んで準備した。
ふだんのリドは、手綱がわりの革紐を一本だけ首にぶらさげている。
聖獣に鞍をつけるわけにはいかないし、まして頭帯やくつわなどをはめられるはずもない。
ラキスは革紐さえもあまり必要としていないようだったが、さすがにふたり乗りとなると話がちがったため、いつもの紐に別の紐を組み合わせて長くのばした。
天馬は、姫君用の小柄な乗用馬にくらべればかなり大きかった。
鐙もないのにどうやって背中まで行くのかと思ったら、聖獣は親切にも大きな翼を下側に差しのべてきてくれた。
胴体よりずっと長くて幅広い片翼、それを坂道にして登っておいでということらしい。
といっても、最高級の真っ白な羽毛でつくられた坂道を、土足なんかで踏めるだろうか。
わたしが畏敬の念にうたれながら立っていると、横から剣士が、蹴り飛ばすように坂を踏んづけて背に飛び乗った。
わたしは乱暴者のふるまいに怯えて、思わず翼につかまった。
すると翼が、剣士そっくりの乱暴さではねあがり、わたしの身体を白い背中の上にころげ落とした。
翼と翼にはさまれた場所。ふだんの乗馬より高い位置だが、両翼が腰のすぐ下から広がっているのでかえって安心感がある。
そして、わたしの後ろにはラキスがいた。わたしを翼のつけねより手前にまたがらせると、自分は足を縮めて背後にすわり、安定するように身体を寄せた。
両腕が前にのびて、ぴったりとわたしをはさみこみながら手綱を握る。
「落ちるなよ」
言ったときにはすでに、リドの足が地面を強く蹴り上げていた。
背中がたわみ、ふたりを乗せた純白の翼が、強く大きくはばたいた。