城
彼の剣をわたしが持たせてもらうのとは逆に、わたしの持ち物を彼が手にしたこともある。
膝にのせて奏でるための小さな竪琴が、それだ。
ちょうどその日は竪琴の手ほどきを受ける日で、わたしの場合、あわてて部屋で譜面のおさらいをする日でもあった。
ただ練習前に偶然ラキスと顔を合わせたため、おさらいは急遽、聴衆つきで行われることになった。
寒さも本格的になり、昼間は常に火が入った小振りの暖炉の前には、冷え込みをやわらげてくれる数人用の絨毯が敷かれている。
わたしはその片端に直接すわり、たおやかな曲線の蔓草模様で装飾された竪琴を、膝の上においた。
彼もそばにすわっていたが、起きているのが億劫になってきたらしく、そのうちにひじをついて横になった。
長い手足をもてあますようにしながら、身体の力を抜く。
討伐から戻った直後で疲れていたのだろう。
けれど、暖炉の火をうけて淡い橙色に染まった姿からは、ひとときの休息を楽しんでいる気配が伝わってきた。
「いまの音って正しい音?」
しばらく鑑賞してから、ねころんだ聴衆が訊いてきた。
わたしは答えた。
「全然」
「……もっと練習しなよ」
「わたしがいま、何をしているように見えて?」
わたしは声のほうではなく、自分の右手だけを真剣にみつめながら応じた。
レバーやペダルをもたない小型の竪琴は、指先で弦を押さえることで音階を調節する。
だが半音階が、しょっちゅう半々音階や半々々音階に変わってしまうのはどうしたわけだろう。
弦は全部で二十四弦。彼の片手があいているなら、少しお借りしたいくらいだ。
思わず没頭してしまい、ふと気がついてかたわらを見ると、聴衆は腕に顔を伏せていた。
寝てしまったのかと思ったが、本当の理由はすぐに判明した。
背中がふるえるくらい笑っていた。
「……優秀な姉上たちに……教えてもらえばいいじゃないか」
顔を上げないまま、とぎれとぎれに彼が言った。
「教えてもらったから、これだけ弾けているのよ……そこまで笑うほどでもないと思うわ」
たしかにわたしは、彼から笑顔を引き出すことを、ごく自然にこころがけていた。
というのも、月明かりの中庭で見たように緊張感をほどいた表情に出会えることは、その後彼と過ごした時間の中でも、実は数えるほどしかなかった。
どうやらわたしは、あのときとても貴重な瞬間に立ち会っていたらしい。
それで、あの魅力的な笑顔をもう一度見たいという、ただそれだけの理由で話題を操作することも、ときにはあったりしたのだが……。
いまは、笑いをとったつもりはまったくない。
少しは彼も控えるべきではなかろうか。
わたしは赤くなりながら、彼の鼻先に竪琴を勢いよくおいた。
それをさらに押しやりながら提案する。
「お手本を聞かせてくれれば、少しはましになるかもしれない。どう?」
「弾いたことがない」
身体を起こしながら、ラキスが真面目な顔つきになって答えた。
これは少し予想外だった。大体のことは卒なくこなしてしまう気がしていたのだが、できないこともあったらしい。
わたしにとっては良い発見だったため、弾いてみて、どんなに難しいかわかるから、と彼に迫った。
彼はしぶしぶすわりなおすと、竪琴を手にとって膝の上にのせた。
が、胸に立てかけるという演奏体勢を作る前に、ぴたりと動きを止めてしまった。
そのまま、まるで果たし合いでもするような目で竪琴をにらんでいる。
「ど、どうしてそんなに緊張するの?」
緊迫感に意表をつかれて、わたしがたずねると、ラキスは珍しくうろたえた様子を見せた。
「いや、その……おれが弾いたりしたら壊れるんじゃないかと」
わたしは思わずあきれてしまった。
この人は、わたしのことは口をふさいだり突き離したりして、けっこう粗雑に扱っている気がするけれど。
それに魔物を相手にしているときも、緊迫した様子はまるでなかった覚えがあるのだが、楽器相手では勝手がちがうのだろうか。
「壊れないわよ、力まかせにしたりしなければ」
「これ、かなり高いんだろうな」
「そういう話? 大丈夫よ、弁償してなんて言わないわ」
ややあって、彼は膝においた竪琴をようやく持ち直した。
それから、思いがけないほどやさしい手つきで、弦をそっとつま弾いた。
深く澄んだ音色が、ぽおんと鳴り響き、余韻を残して消えていく。
それに続く静寂を、暖炉で薪のはぜる音が受けとめた。
「……小さい音でも、よく響くんだな」
彼が呟いた。
その呟きもまた、わたしの中に余韻を残した。
彼といるときに竪琴を持ち出したのは、このときだけだった気がする。
手ほどきの開始時刻が近づいていたから、ふたりだけの時間もそれほど長いものではなかった。
ただ、そののち自分が竪琴を弾いているときに、この日のできごとをよく思い出した。
竪琴の音というのは上手に奏でるのではなく、つま弾くだけでも十分美しいのだと、わたしはこのときはじめて知った。