アリス・イン・ノーマルランド
「大変、大変!遅刻しちゃうわ!」
月曜日の朝から、アリスは大慌てだった。目覚まし時計に気がつかず、「10分」遅刻したのだ。中央線は分刻みで電車がやってくるけれど、何しろ乗客の数が恐ろしく多い。一本でも乗り遅れたら人の波に捕まって、遅刻してしまうだろう。
鏡の前で青ざめた顔をしているアリスを、チェシャ猫が不思議そうにジロジロ眺めた。
「どうしたんだいアリス?何をそんなに慌てているんだい」
「だって、このままじゃ私、商談に間に合わないわ!」
「分からないな。だったら、遅れていけばいいじゃないか」
チェシャ猫の呑気な言葉に、アリスは呆れてしまった。
「そんな事出来るわけないでしょう…仕事なんだもの!ああ、急がなきゃ…!」
「そんな事も出来ないのか…不思議な国だなあ」
首を傾げるチェシャ猫を置いて、アリスは転がるように玄関を駆け抜けていった。
「本当にゴメンなさい!私ったらついうっかり!」
火曜日のお昼から、アリスは平謝りだった。上司の連絡ミスで、取引先に赤っ恥をかかせてしまったのだ。おかげで昼休みだというのに、担当だったアリスが先方へと急遽駆り出された。
数時間後、アリスは何とかミスをとり繕い、ようやく解放された。疲れた顔をしてビルから出てきたアリスを、チェシャ猫が不思議そうに見上げた。
「落ち込むなよアリス、君は悪くないじゃないか」
「そうだけど…ああもう、こんな時間…。暗くなる前に帰らなくっちゃ」
「僕には分からない。むしろ赤の他人のミスなのに、何でアリスが謝らなきゃいけないんだい?」
チェシャ猫の呑気な言葉に、アリスは呆れてしまった。
「何言ってるの…それが私の仕事じゃない」
「必要以上に、相手の機嫌をとり続けることが?…不思議な国だなあ」
首を傾げるチェシャ猫を置いて、アリスはフラフラと街の明かりの中に消えていった。
「見て!あの建物の上の方!」
水曜日の夜から、アリスはもうクタクタだった。今週に入ってトラブルばっかりで、毎日日付が変わるまで仕事に追われていた。好きな映画は見逃すし、友人とのディナーもキャンセルだし、良いことなんて一つもなかった。それでも嬉しそうに夜空を見上げるアリスを、チェシャ猫は不思議そうな顔で見つめた。
「きれいなお月様!」
「ただの三日月がどうしたってんだい?」
「笑ってるわ。貴方にそっくりね」
「そうかなあ…」
楽しそうに微笑むアリスに、チェシャ猫はますます首を傾げた。アリスは持っていた肉まんをちぎると、白い息を吐きながらチェシャ猫に差し出した。
「はい。はんぶんこ」
「やっぱり、僕には分からないな。何で自分で買ったものを、僕にはんぶんくれるんだい?」
「ふふ…この国ではね、それが普通なのよ」
一つ分の肉まんをそれぞれの手に、二人は寒さを分け合いながら夜道を歩いていった。