交渉と着任
第二師団は通称を山岳国境警備隊と言う。王国の西部に南北に連なる山脈に拠点を置く師団であり、通称の通り山脈内にある国境の警備をおこなう。この数十年の間、王国は周囲の国々と戦うことなく平和であったが、西隣りの国とはかつて長きにわたる戦争をした過去があり、日々警戒態勢を取る、現在の王国における最前線であり、実質的には実戦部隊である。
王国東部の山脈は西部の山脈よりも南北の距離が長く、第三~五師団が置かれ、それぞれ北部国境警備隊、中部国境警備隊、南部国境警備隊と呼ばれている。それぞれの師団の管内に街道があり、各師団は王国内の平和維持のために厳しく入国するものの管理をおこなっていた。その結果、王国内では王国軍によって安全を担保された状態で、一定のレベル以上の商会や隊商などが活発にこの国の商業を盛り立てていた。
エリックのかつての教え子であり、今回フレイアを屋敷に迎えるにあたって護衛官とするべく移動を命じられた男は、エリックやアブドゥルの予想よりもずっと早く王都に到着し、アーサーのもとにやって来た。
詰襟に銀の釦、装飾のついた黒い制服に身を包んだ一見細身に見える男が、アーサーの許しを得てアーサー以下エリック、アブドゥル、エリザ、ディーン、エフィーの揃った執務室に入って来た。
階級は兵長であるが、胸元の記念章を見れば、そこそこの時間を既に軍で過ごしてきたことがうかがえた。
着任挨拶に来た男は、だらしないわけではないのに気だるげに見える動きで礼をすると、エリックに目線で促され自己紹介をした。
「申告します。王国軍兵長ラルフ・アルマンは、本日付けを以て、近衛師団サドラー隊に転属を命ぜられ、ただ今着任いたしました」
「ご苦労。私がこの屋敷の主のアーサー・アビエスだ」
これを聞いたラルフは軽く目を瞠った後、何事も無かったかのようにまた無表情の仮面を被った。
(ま、当然の反応だな)
アーサーも探るように、ラルフを見つめる。本来、王族に姓は無い。しかし、アーサーはその出自と、成育環境、便宜上の問題から、母の実家の姓を名乗っていた。
「これから貴官には、サドラー少佐の下でこの屋敷の護衛官として勤めてもらう・・・おい、エリック!そろそろ面倒なんだが、いつも通りに話してもいいか?」
真面目に「王子然」として話そうとしたが、性に合わない。
「お前って本当に残念な奴だな・・・」
呆れたように言うエリックに、アーサーも言い返す。
「それを言ったらここにいる全員、臣下らしい態度の取れない残念な奴らだろうが」
「主が主なら、臣下も臣下ってか?」
「ふん。・・・おい、お前の教え子が固まってるからとっとと説明してやれ」
アーサーは面倒くさそうに手を振ると、エリックとディーンにラルフに対して職務内容の説明をするように促した。
運び入れた簡素な椅子に全員が腰かけると、エリザが用意していた紅茶の入ったカップを配った。エリザはいつも通りの、ささやかな気遣いをしただけであったのだろうが、明らかに年下とは言え上官に茶汲みをさせたことを申し訳なく感じたのか、ラルフは恐縮しながらカップを受け取った。
「ラルフ・アルマン兵長、久しぶりだな。随分早く王都に着いたな」
エリックが声をかけると、ラルフは少しだけ表情を緩めた。
「サドラー教官、ご無沙汰しております。ちょうど、第二師団からの定期連絡のために王都に向かうことになっておりましたので、辞令を受けた後すぐに荷物をまとめてこちらに移動しました」
「なるほどな」
「おい、午後には出かけるんだからとっとと説明を始めろ」
アーサーがいつも通り背もたれにもたれながら茶を口にし、ぞんざいに言う。そして、思い出したようにラルフを見た。
「そうだ、ラルフ。俺は基本的に自分の周りの人間に堅苦しい態度を取られるのが好きじゃない。だから、強要する気は無いが、俺に対してそう堅くならなくていい」
「は、はぁ・・・」
「今後、この屋敷で仕事をしていくうえで何か思うところがあれば、気軽に言ってくれ。それと、俺の護衛官を勤めたことで昇進が邪魔されるようなことが無いよう配慮する、安心しろ。俺からはそれだけだ」
アーサーが言うだけ言うと、ディーンが「とりあえず、自己紹介をしておきましょうか」と提案した。それが済むといよいよ話は本題に移った。
「と、いうことだから、ラルフには俺の下で第一王子付き護衛官としてアーサー殿下の護衛をしてもらうことになる。ただし、それは基本的な話で、必要に応じて他の仕事もしてもらう」
エリックが、アーサーを取り巻く状況とこの屋敷の運営について、そしてフレイアのことなどについて一通り説明して話を一度切ると、ラルフは控えめに手を挙げて質もする。
「他の仕事、というのは何か具体的に想定されているものがありますか?」
「さすが、鋭いな・・・。お前には、護衛官としての仕事の他にアブドゥルと組んで街中での情報収集を頼みたい」
「情報収集、ですか」
その会話を受けて、アブドゥルが身を乗り出し人懐こい笑みをラルフに向ける。
「おう!隊長に聞いたんだが、あんた変装が得意なんだろ?」
「・・・まぁ、苦手ではありませんが」
「だったら心強い。これからよろしく頼むぜ、相棒!」
これから仕事がしやすくなりそうだと喜ぶアブドゥルは嬉しそうに手を差し出し、ラルフがおずおずと手を出すと、握ってぶんぶんと大きく振った。
「それから、今回お前の他にもう一人我が隊に迎えたいと思っている」
エリックの言葉にラルフが「もう一人、ですか」と聞き返す。
「そいつを引き入れて、アブドゥルを班長としてエリザ、ラルフの四人で新しい班を作ろうと思ってる」
「そのもう一人はいつごろ着任の予定ですか?」
ラルフのもっともな質問にはアブドゥルが答えた。
「そいつは軍属じゃないんだ。今日これから交渉に行くつもりなんだが・・・」
「もしかして、高級傭兵を雇うつもりですか?」
察しの良いラルフに、部屋にいた軍人以外の人間は感心した。
「・・・なんで、高級傭兵だと思った?」
エリックが訊くと、ラルフは思うところをいくつか答えた。
「まず、フレイア様をお迎えしたことでアーサー様の周りに人員を増やすことにされたとのこと、それでいて女官やメイドをではなく武官と文官を増やすということですから、武官にはある程度女性の身の回りのお世話ができる人間の方が良い。けれど、自分にはそのような能力も経験もありませんから、もう一人迎えたいという人間がそういった能力を持っているということになります、それでいて軍属ではない人間となりますと、この国で武力と教養を併せ持つ人間など高級傭兵に限られます」
ここまで一気に話して一息つくと、「それから」と続けた。
「現在、我が王国を拠点とする高級傭兵で言葉を発されないフレイア様のお世話をもできる人間は一人しかいません」
そこまで聞いて、思わずといった風情でエフィーが「すごいねぇ。僕の部下に欲しいくらいだ」と呟いた。ディーンも気だるげな様子に反する聡明な発言に期待に満ちた目を向ける。
「やっぱり、お前を呼んでよかった。励めよ」
ラルフの答えにエリックは満足げに頷き、新たに作ってあった身分証を差し出した。ラルフはそれを受け取ると、古い方の身分証をエリックに返納した。
「ラルフはさぁ、変装が得意ってことだけど、なんかこっちで用意する物、ある?こっちの話になるけど、お財布と書類の問題があるから、あるなら早めに言ってー。じゃないとそこにいるディーンがめちゃくちゃ怒るからー」
「人を守銭奴のように言うな!お前だってイレギュラーな仕事が入るとぶちぶちうるさいだろうがッ!」
「ま、こんな感じだからさ、今あるなら今言って」
あははははと笑いながら言うエフィーを、珍獣でも見るような目で見つつラルフは必要そうなものを答えていった。
ラルフが挙げた必要なものを聞くと、アーサーが口を開いた。
「服の類はルイーザを呼んで、相談するといい。エリザ、手配しておいてくれ」
「承知しました」
それまで黙っていたエリザは、ポケットから取り出した小さなメモ帳にやることを書き付けた。
「それと、ラルフの言う特殊な化粧品は・・・エリザの実家で扱いが無いか?」
「求められている物そのものかはわかりませんが、劇団などに販売している化粧品ならあります」
エリザが実家で扱っている商品や顧客リストを思い返しながら合致しそうなもののことを言うと、
「じゃあ、それも一度見てみよう。実家から商品を持ってくるように連絡を入れておいてくれ。ラルフが見て問題無さそうなら、まとめて買おう」
アーサーも即断即決する。物が物なだけに万人が欲しがるものではなく、その性質から決して単価の安いものではないのだが、アーサーは太っ腹にも必要なだけ買ってくれるという。
「あの・・・自分しか使わないものなのに、良いんですか?」
恐る恐る尋ねると、
「じゃあ、使う人間がお前だけじゃなくなるようにその技術を他の人間にも教えろ」
とさらりと返される。
「まぁ、そういうことですから頑張って誰かにもあなたの変装術を伝授して、その人間を使えるように仕上げてください」
ディーンも、変装の技術を誰かに教え込み人材を育てろと言う。
「まぁそういうことだ。これから、よろしく頼む」
エリックがそう言うと、ラルフの着任に絡んだ話はそこで終わり、それぞれの人間がそれぞれの配置に戻った。
◇ ◇ ◇
昼食にしようとアーサーがディーンとエフィーと一緒に廊下に出ると、楽しげな声が聞こえてきた。ディーンとエフィーには先に食堂に行くように言ってから声のする方に足を向けると、声はサンルームから聞こえてくるようだった。
サンルームの入り口にいる近衛兵の敬礼に適当に返すと、中にはアンナとメイドが一人、そしてフレイアがいた。
パッと顔を輝かせて、「アーサー」とフレイアの唇が動くのを見て、こちらの口元が思わず綻んだ。
「何してたの?」
とフレイアに尋ねると、
〈アンナたちと文字の勉強〉
とまだまだ拙い文字で書かれていた。
「楽しい?」
〈とっても!〉
本当に楽しそうな様子を見せるフレイアは教えられた十七歳という年齢よりも少し幼く見えた。
「これから食堂でお昼を食べようと思ってたんだけど、フレイアはどうする?」
フレイアは「行ってもいい?」という視線をアンナに向けると、「きりのいいところでしたし、お昼にしましょうか」と返って来た。
「じゃあお許しが出たし、行こうか」
手を差し出すと、一瞬ためらう様子を見せてから、フレイアが手を重ねてきた。
まだ、ノートとペンが無いとフレイアと直接言葉を交わすことはできなかったが、こちらが話すことをにこにこと聞いていて、時折うんうんと相槌を打っている。話している内容は日々の他愛ないことだったが、面白い話でもしているかのように、とても楽しく感じられた。
「今日、午後は街に出かけるんだけど、何か欲しいものはある?」
「?」
フレイアはきょとんとしてからすぐに首を横に振った。
「なんにもないの?」
うーん、と考えてからやはり何も思いつかなかったようで、フレイアは困ったように首を傾げた。
「じゃあ、なにかお菓子を買ってくるよ。甘いものは好き?」
こちらには「うん」としっかり首を縦に振って返して来た。
「今、街で人気のものを買ってくるし、夜食べようか」
そう言うと、フレイアは嬉しそうに笑った後、きゅっとアーサーの手を握ってきた。
―どうか、フレイアの過去が暗いものではありませんように。
思わずそう願ってしまうほどに、フレイアがやってきてからのこの数日は楽しく、充実したものだった。
◇ ◇ ◇
午後、アーサー、ディーン、エリック、アブドゥルの四人は繁華街の一角、通称ギルド通りと呼ばれる様々なギルドが集中する一角にやってきていた。
折角変装の名人であるラルフが着任してきたのだからということで、アーサーはラルフに頼んで顔の印象を変えるような化粧を施してもらった。
「今、手元には必要最低限のものしかありませんから大したことはできませんよ」
と言った割には、エリック以外の人間が感嘆の声を上げるほど、アーサーの顔の造作が変わったようにすら見える見事な仕上がりだった。
アーサーは商会の若旦那風、ディーン、エリック、ラルフの三人はその従者と私設軍の兵といった風情の服装でやってきていた。三人の周囲には、街の景色に馴染んで誰がとわからないように近衛兵たちが配置されており、アーサーの安全を確保していた。
傭兵ギルドの中へ入ると、ロビーにはいくつもの簡素なテーブルセットがあり、まばらに人が寛いでいた。中途半端な時間だったせいか、人は少なく静かだった。
アブドゥルは慣れた様子で顔馴染みの職員のいる窓口に行くと、二言三言言葉をやり取りした。
「では、参りましょうか」
しっかりと余所行きの猫を被ったアブドゥルが声をかけ階段のそばまで行くと、先ほどアブドゥルとやり取りをした職員がやってきて二階にある防音設備の整った部屋に案内された。
部屋に入ると、交渉相手は既に席についてこちらが来るのを待っていた。こちらが部屋に入ると、黄色味がかった金髪が印象的な長身の女が立ち上がった。
「お待たせして申し訳ありません。私が貴女に指名依頼をしたディーン・マルサス、こちらがエリック・サドラー殿です。そして、我が主のアーサー様と、その隣がアブドゥル・ザハウィー殿です」
事前にギルドを通してアーサーが来ることを伝えてあったためか、女は驚いた様子も見せなかった。ディーンがとりあえずの紹介を終えると、女も自己紹介をした。
「アーサー殿下並びに、皆様方、お初にお目にかかります。現在はこちらの王国に拠点登録をしております、アンジュと申します。本日は私に指名依頼をしてくださりありがとうございます」
今着ている服は飾りっ気のない機能性重視のものだったが、腰を折り挨拶するその一連の動作は洗練されており、貴族の娘も顔負けの優雅さがあった。
一同が席に着くと、アンジュはギルドを通して渡されたディーン手書きの依頼書を机の上に置いた。
「まず、依頼の内容と報酬を確認させていただきます。依頼内容は一年間の護衛任務、任期満了前に相談の上、契約更新あり。報酬は、基本給が新任の少尉と同等。それ以外の詳細な任務内容、条件については応相談。このように伺っておりますが、間違いありませんか?」
「ええ。ただし、この護衛の仕事を受けて下さる場合にのみ、詳細な任務内容をお話いたします」
ディーンが余計なことは一切付け加えずに返すと、アンジュは「ふむ」と少し考える様子でこの依頼内容を吟味する様子を見せた。
「このお話を受ける前にご質問があれば仰ってください。現時点でお教えできることをお話しします」
付け加えられた説明に、アンジュは「では」と切り出した。
「この任務内容についてですが、皆さまは王国軍の少尉待遇でつり合いが取れる、とお考えであると思ってよろしいでしょうか?」
これには、アーサー付きの筆頭護衛官であるエリックが答えた。
「そう思っていただいて構いません。ただし、特殊な事情とそれに関して貴女に頼みたいこともありますから、その部分を鑑みまして、この話を受けて下さる場合には、報酬についてはある程度貴女の希望を叶えるつもりです。もちろん、限度はありますがね」
エリックがにかっと笑いながら言うと、アンジュが「私の希望、ですか」と苦笑する。
「ちなみにお伺いしますが、付加した分の報酬は成功報酬ですか?それとも、任期満了と同時にいただけるものですか?」
「いつ付加した分の報酬を貴女に支払うかは、貴女が報酬として何を望むかによる。ただし、こうして詳細な内容も言わずに引き受けてほしいと言っている手前、貴女が求める報酬を支払うつもりではいる」
アーサーが淡々と自分の心積もりを話すと、アンジュもある程度納得したようだった。
「それでは、先に私の要求をお聞きいただけますか?それが可能であれば、お引き受けします。不可能であれば、今回のお話は無かったことにしてください」
「私はそれでも構わないが・・・マルサス、サドラー、ザハウィー、お前たちはどうだ?」
「問題ありません」
とディーンが即答する。
「・・・我々もマルサス殿に同意いたします」
エリックとアブドゥルは、この話が流れたらまた人材を探さなければならないがゆえに、渋々といった風情でディーンに同意した。
「それで、貴女の要求は何かな?」
アーサーが値踏みをするかの如くアンジュを見つめながら問うた。
「大きく分けて三つあるのですが、よろしいでしょうか?」
「構わないよ。言ってごらん?」
アーサーが促すと、アンジュは自身が求める報酬について述べた。
「まず、この王国の市民権が欲しいのです」
「市民権?」
意外な要求に一同が頭の上に疑問符を浮かべた。
「おそらく私の身辺調査はされているのでしょうから既にご存知のことかと思いますが、私はある隊商の出身で、そのために国籍がありません。これまでのように様々な土地を転々とする分には困らないのですが・・・大学に、行きたいのです。そのためには高等学校までの修了資格が必要ですが、私は学校に通ったことが無いのです。ですから、大学を受験するための資格を得ること、そのための勉強をさせていただきたいのです」
そこまで聞いて、その場にいた者はアンジュの言わんとしていることを理解した。
王国内の大学に進学するために、国交のある国の者であればどこの国籍を持っていようが、市民権を得ていようが、そのことが枷になることは無い。ただし、一定分野の上級研究をするためには王国の市民権の有無が問われ、制裁付きの守秘義務が課される。この規定のは、まだ街道が今ほど整っていなかった頃―つまり物流が盛んではなかった時代に元々肥沃とは言えないこの土地に於いて、農業やその他の産業にまつわる技術が飛躍的発展したことに由来する。
当時の王国にとって、技術力こそが国を維持していく唯一の力だったのだ。豊かな土壌も資源も少ないからこそ生み出され磨き抜かれてきた技術は、現在も他国との取引に用いられるようなものが少なくない。要するに、古い時代に他国への技術流出を防ぐための決まりとして定められたのが、「特定分野にかかる人間の市民権の有無」である。この決まりによって、研究に携わった人間の素性を担保し、それでいて移動を制限したのだ。
アーサーやその周囲の人間からすれば制裁付きの守秘義務はともかく、市民権の有無を問うなど、現代においては無意味に等しい。街道が発達し、整備され、様々な国の人間が出入りする、交易交通の要衝ともいえるこの王国において、市民権の有無などその人間の素性を担保するものにはならない。
しかし、決まりは決まりであり、かつてアーサーたちがこの規定の撤廃を提案したこともあったが、結局握りつぶされてしまったのだ。
「一つ確認だが、市民権が必要になるような上級研究計画がある分野の勉学を修めたい、と。そういうことでいいのかな?」
アーサーが言うと、アンジュは「そうです」と頷いた。
「ちなみにどの分野の研究がしたいの?」
「薬学です」
間髪入れずに答えたアンジュに、ディーンが質問する。
「なぜ、薬学を修めたいのですか?」
傭兵をしているアンジュなら薬を自分のために使う機会も多いだろうし、薬の知識は無いよりもあった方が良いだろう。だが、研究を、それも上級研究までしたいというのはどういうことなのだろうか。
そこには、アンジュが生まれ傭兵業を始めるまでをすごした隊商と、傭兵として稼ぎを得るようになってからの経験に基づく理由があった。
アンジュのいた隊商は医者も薬師もともに旅をする大規模なものだった。医者は医者として、不調を訴えたり怪我をしたりした人間に薬を処方し、治療を施した。その医者が必要とする薬を、薬師は調合し、立ち寄る街々で薬草を購入することもあれば、時には様々な土地に生える薬草などを採取したりして、常に隊商の健康維持に貢献していた。
そんな贅沢な環境にいた時は、それが贅沢なこととは気づかなかった。しかし、傭兵として独立し、仕事をするようになって初めてそんな環境が贅沢なものだと気づき、自分が与えられた環境に甘えていたことにも気づいた。
仕事の度に準備する薬代は馬鹿にならないし、ひとたび長丁場の仕事に出れば薬の量が心もとなくなることもあった。そんなとき、自分でわかる範囲で薬草を採取して調合することもあったが、それはあくまでやらないよりはマシ程度のことで、そんな時にもっと知識があれば、と感じてきた。
長い旅の生活の中で、教育を受ける機会が無かったわけではない。隊商の中には子供たちに勉強を教える人が何人かいて、初等学校程度のことは教わった。逗留先の街で、様々な知識人に学問を教わることもあった。けれど、定住しているわけではない。もっと知りたい、もっと習いたい―そう思ってもまたすぐに次の場所に行かなければならない。素晴らしい教師に出会っても、習える時間はそう長くない。そんな生活だからこそ得られた変わった知識や技術も少なくはない。けれど、何かを体系的に継続的に学んだことは無いのだ。
「大学への進学、そのための勉強と市民権。マルサス、どうだ?」
「問題ないでしょう。市民権に関しては、今回の依頼を受けていただいて一年間の仕事を審査対象としましょう。そもそも進学のための勉強をする必要もありますから、一年間の任期満了後、市民権と大学進学のための資格を与える、と言うことでいかがでしょうか?もちろん、契約を更新しなかったとしてもこれらのものを報酬として差し上げます」
ディーンが条件を整理して提示する。
「わかりました。今日、重要事項の確認書をいただけますね?」
「もちろん、ご用意しております」
アーサーとディーンを静かに見た後、アンジュは返答を口にした。
「この依頼、お受けさせていただきます」
「では、任務内容については私が説明いたします」
エリックが分厚い猫を被ったまま、説明を始めた。
「まず、貴女には一年間の年限付き軍人として王国軍に仕官していただきます。肩書は第一王子付き護衛官、つまりアーサー殿下の護衛官となります。俸給などの待遇は少尉と同等ですが、階級は二等兵です。着任後はザハウィー中尉の班に入っていただきます」
あらかじめ用意してきた重要事項説明書の一枚をアンジュに渡し、自分も控えの一枚を見ながら説明していく。
「具体的な仕事内容は、現在アーサー殿下の屋敷で保護している女性の身の回りの世話と監視です」
「監視?」
アーサーの護衛官として雇われるはずが、保護している女性の「監視」という穏やかならざる言葉に、アンジュが眉を顰めた。
「その部分については私がお話します」
夜会仕様の人当たりの良い笑顔を浮かべたアブドゥルが、フレイアを保護するに至った経緯と、未だ要観察の状態であることを説明した。
「ですから、調査結果が出次第、監視から護衛に任務が切り替わる可能性があります。この任務には、本日は屋敷で留守番をしているエリザ・アッカーソン少尉と当たっていただきます」
「わかりました。続きをお願いします」
「また、この女性については経歴を用意する必要があります。そこで、これは命令ではなく“お願い”になりますが、この女性をあなたの出身対象から預かった娘、という設定を用意していただきたいのです」
できれば我が国とは没交渉の国の良家の子女なんていうという設定が良いですね、とアブドゥルが付け加えるのを聞いて、アンジュは内心驚いていた。
(王室からの依頼だから身辺調査はされているとは思ったけど、まさかウチのキャラバンの状況まで把握しているなんて・・・王立軍の調査力をちょっと甘く見ていたかしら)
実際、アンジュは未だに自分のいた隊商とは縁が切れたわけではなく、お互いに必要に応じて仕事をしている。そして、たしかに現在隊商にはアブドゥルが言う条件に合う人間がいるのだ。
(この男が情報担当かしら・・・)
鳥肌が立つような不快感をこらえ、口元に微笑を浮かべるとゆっくりと頷き請け負った。
「わかりました。経歴とアリバイをご用意いたしましょう」
「保護した際の状況が状況ですから、この件に関してはまたアーサー様の屋敷で詳細を詰めましょう」
「ええ、わかりました」
フレイアに関する話が一区切りついたところで再びエリックが説明を引き継いだ。
「では明日、近衛師団本部でお会いしましょう」
エリックが説明を終えたところで、全員がアンジュと握手した。
「貴女の仕事に期待しています」
アーサーがアンジュの手を握りながら言うと、
「ご期待に沿えるよう精進いたします」
とアンジュも返した。
アーサー一行を見送った後、アンジュは長期間部屋を借りていた宿屋に明日で部屋を引き払う旨を伝え、手続きをした。
この数年住み慣れた長期滞在用の部屋は、広くはないが機能的で住みやすかった。荷物は大して無いから荷造りも始めてしまえばすぐに終わった。結局、家移りをするための作業もすぐに終わってしまったので、“ちょうど”この街に逗留している隊商の分隊の人間に会いに行くことにした。
(きっと、あのアブドゥル・ザハウィー中尉はキャラバンの人間が今この街にいるのも知っていたのよね・・・だからこその“お願い”、か)
夕方まで顔を突き合わせていた噂の第一王子とその側近と護衛官たちは、街で流れている噂通り、随分とフットワークが軽いようだった。
(“黄昏の王子”なんて嘘ね)
日が落ちて、ランタンやガスランプに火が入れられた繁華街は人が増える一方のように見える。通りに面した店々からは楽しそうな笑い声や音楽、様々な料理の香りが流れてきている。
(傭兵一人のためにわざわざ街まで来て、自分で雇う相手を見極めに来るなんて。その姿勢、嫌いじゃないわ)
機嫌よく笑みを浮かべたアンジュは、足取りも軽く隊商の人間がいる酒場の扉をくぐった。
◇ ◇ ◇
翌日、傭兵として国内外で名を知られているアンジュ・ベルは、近衛師団の本部で契約書にサイン、一年の年限付きではあったものの王立軍近衛師団の二等兵として入営した。
ここに、後に王国の歴史に残るアーサー王子の五大護衛官が揃うこととなった。




