そのはじまり
「とにかく、名前がわからないと困るな・・・」
そう言って向けられた視線に、思わず苦笑する。声が出ないうえに文字も書けない現状、自分がアーサーのかつての飼い猫であったことを説明しようがない。話せたところで信じてもらえないだろう。今のところ自分は行倒れていた名無しの少女でしかない。
「本当に字が書けないのか?」
残念ながら、首を縦に振るしかない。人間として目覚めてまだ数時間だが、猫であった時とまるで視界が違うのだ。以前と比べると驚くほどに視界がクリアなのだ。猫であったころから文字の存在と、それを使って人間が意思疎通の一部をおこなっていることはなんとなく理解していた。しかし、アーサーが紙に書きつける文字はあまりに小さく、猫の目には一文字一文字を認識することはできなかった。そもそも視覚だけに頼らない生活をしていたのだから、文字を理解する必要性は無かった。
(ま、猫だったからねぇ・・・)
いかにも困ったという風情のアーサーを見ると、己に責任があるわけでもないのに、なにか悪いことをしたような気になる。
「字が書けるようになったら、名前を教えてくれないか?」
この質問には、首を縦に振ることも横に振ることもできなかった。思わず膝の上の服を握ってしまう。
「・・・名前を言えない理由があるのか?」
その言葉にはっと顔を上げ、気まずさにそらしてしまう。たとえ今声があったとしても、本当の名前を言えるわけがない。なんだか痛いな、と見知らぬ痛みに眉を顰めつつその場所に触れてみると、どうやら思い切り唇を噛んでいたようだ。
視線を逸らしてしまったせいで、窺うようにこちらを見つめていたアーサーには気づけなかった。
「仕方ない・・・名無しのまんまじゃ困るからな。とりあえず、俺が呼び名を付けてもいいか?」
本当に仕方が無さそうに吐き出された溜息に、やはり心が痛んだが、この問いにはすかさず頷いた。和らいだ緑の瞳につい見入ってしまう。
(とりあえず、なんで人間になって生き返ったのかはよくわからないけど、人間の目は悪くないわね)
鮮やかな緑色がきらりきらりと光を受けて輝く様は、いつまでも見つめていたくなる。
「ん?俺の顔、なんか変?」
怪訝そうな声に、ぶるぶると首を横に振り否定する。
(綺麗だって言えれば楽なのに・・・これは早く字を覚えた方が良さそうね)
猫の頃ならじっと目を見つめていてもこんな顔はされなかったのに、と少し寂しくなる。
「そうだなぁ・・・」
腕を組み呻吟し始めたアーサーをもう一度眺めてみる。ダークブラウンの髪は緩くうねり、つやつやしていることに初めて気が付いた。肌は、先ほど見たディーンと比べると青白いように見える。顔は随分と大人びたように見える。
(でも、最後にちゃんとアーサーの顔を見れたのっていつだったかしら・・・)
体の大きなスコグカッテルにしても17年と長生きをしたタビサだが、晩年は年相応に体が弱り、ただでさえぼんやりとしていた視界はもっと悪くなった。
アーサーの手元を見ると、左右の指の付け根が黒ずみ、その上に真新しい爪痕が無数にあった。子供のころからずっとある悪癖だ。落ち着かない時や、なにか難しいことを考えているときなどに、指の付け根をもう片方の手の爪でぐっぐっと押すのだ。その結果、子供の頃のアーサーの手は常に傷だらけだったのだろう。気づくといつも、アーサーの手からは血の臭いがした。
そこまで考えて、ふと気づいた。アーサーとほぼ距離を離さず隣り合って座っている今、前ほどアーサーの匂いを感じないのだ。手にも、真新しい傷がいくつもあり、猫だった頃なら血の臭いすら感じられる距離だ。
(人間ってみんなこうなのかしら?)
すこし寂しいような気がして、鼻をすんすんと動かしてみるが、やはりあたりに漂う臭いの情報は以前とは比べ物にならないくらい減っていた。
そんなことをつらつらと考えていると、アーサーがぱっと顔を上げた。
「フレイア。フレイアはどうだろう?」
どうだろうと訊かれても、大して人間の名前など知らないタビサにとってはその名前自体が良いのか悪いのかよくわからなかった。
「・・・嫌か?」
タビサが答えずにいると、アーサーは不安げに眉尻を下げた。そうじゃないのだと、首を横に振る。そして、その名前の響きを声は出ないけれど口にしてみる。
(フレイア・・・フレイア)
17年間タビサと呼ばれ続けてきた身としては違和感があったが、タビサという名前と同じようにアーサーがくれる名前なのだと思うと、途端に嬉しくなった。思わず笑いが顔に広がり、大きく何度も頷くと、こちらの意図が伝わったのか、アーサーは安どのため息をこぼした。
「フレイア。これをあげる」
そうして取り出されたのは、手のひらに収まる大きさのノートと、細工の美しいペンだった。ノートは紺色の布が張られていて、表紙の右下に金色で文様が箔押しされていた。じっと見つめていると、アーサーが説明し始めた。
「これは俺の使ってる紋章だ。とりあえず、今すぐに上げられる新品のノートがそれしかなくてな。それが無くなったらもっと可愛らしいのを用意させる。だから、しばらくは我慢してくれるか?」
(私にはこれも十分綺麗に見えるのだけど・・・「もっと可愛らしい」の意味もよく分からないし・・・)
「新しく覚えた言葉なんかをここに書いていくといい」
そう言ってノートを開くと、アーサーは何事かを書き付けていく。書き終えると、こちらに見えるようにノートを差し出された。
「フレイアはこっち、こう書くんだ。こっちは、アーサー」
初めて文字と認識して見るものは、まだそこから意味や音を拾うことができなかったが、そこに新しい名前「フレイア」と大好きな「アーサー」の名前が書かれているのかと思うと、それだけでそこに書かれたものが愛おしく思えた。文字を撫でながら、アーサーに笑いかけた。すると、アーサーも笑顔を返してくれ、もっと嬉しい気持ちにさせられた。
それから、疲れているかもしれないから一度眠るようにと言われ、ドクターが置いて行った薬を飲むと、体が温かく重くなった。
「夕方にまた起こしに来るから。それまでまたゆっくり休んで。何かあったら、そこに置いてあるベルを鳴らしてくれ」
こくりと頷き、導かれるままベッドの中に潜り込むと、吸い込まれるように意識が遠のいていった。
◆ ◆ ◆
フレイアが眠ったことを確認すると、アーサーは静かに寝室を後にした。そして、書斎で待機していたエリザに報告を促した。
「アーサー様。彼女の体を隅々まで確認しましたが、右脚の手術痕以外は傷は一つもありませんでした。もちろん、焼き印や刺青の類も一切ありません」
「そうか・・・となると、彼女の素性を探るのは大変そうだな」
「一度、ディーン様のお父上にご相談されてはいかがですか?」
「マルサス公爵に?」
あまり表だって行動を起こしたくないという気持ちを暗に伝えると、エリザは首を縦に振った。
「ええ。いずれ、と言いますか、近いうちに少女を一人保護したことはマルサス公爵にお伝えしなければならないことです。ですから、貴族の間で誘拐事件の被害者がいないかそれとなく探りを入れていただくのです。マルサス公爵夫人のサロンは、未婚、既婚、年齢問わずたくさんの方が出入りしていますから」
それに、マルサス公爵夫人も信用に足る人物です、とエリザは微かに笑みを浮かべながら付け加えた。
「へぇ、随分と詳しいじゃないか」
「実家がマルサス家に出入りする商会の一つですから。私も、公爵夫人とは個人的に面識があります」
「なるほどね、アッカーソン商会はマルサス家と随分仲が良いようだね?」
静かに微笑むエリザは、肯定も否定もしなかった。しかし、商会長の息子だけでなく娘までが出入りし、家長の婦人とも個人的面識があるというのだから、マルサス家に出入りする商会のなかで、アッカーソン商会はかなりの信頼を得ているのだろう。貴族に対して比較的厳しい目を向けているエリザが実際に接したことがありここまで言うのだから、マルサス公爵夫人は信用できる人物のようだ。
「ちなみに、今までのように調査の指揮を最初からアブドゥルに回さない理由は?」
これまで、なにか調査に必要に迫られた際は、機密漏れを防ぐためにもアブドゥルに一任してきた。
「効率の問題です」
アーサーの問いに、間髪入れず答えが返って来た。
「マルサス公爵への報告は絶対にすべきことですから、更にそのお立場とお人柄ゆえの情報網を利用させていただくのです。そもそも貴族の子女誘拐が頻発しているようなことがあるならば、それは看過できない問題です。間者の可能性が限りなくゼロに近いのであれば、次に洗うべきは貴族の子女です」
エリザの言うことはもっともだったので、それを受け入れることにした。
「わかった。アブドゥルもずっと外の仕事ばかりだったし、たまには休ませてあげないといけないかもね」
「それはどうでしょう・・・ザハウィー中尉は、外での任務に生きがいを感じているようですから」
「はは、確かにそうかもね」
頼もしくも自由を愛する自身の護衛の顔を思い浮かべて、思わず苦笑が漏れた。
「そうそう、エリザ。あの娘のことだけどね」
寝室に続くドアを軽く振り返りながら、話を変える。
「はい」
「やっぱり、字の読み書きはできないみたいだ。声が出たとしても、名前を言うのは嫌みたいだ」
「それは、アーサー様・・・」
エリザが不信感に眉を顰める。
「元いた場所で怖い目に遭って、名前を呼ばれたくないだけかもしれないよ?ともかく彼女はまだ黒と決まったわけじゃないんだから、丁重に扱ってくれ」
「・・・はい」
「それでね、とりあえず彼女のことはフレイアって呼ぶことにしたから」
「フレイア様ですね」
「うん。今、ディーンがエリックと改めて警備体制について相談してるから、とりあえずそれが決まるまでは、フレイアについててくれるかな?」
「承知しました」
「それから、彼女にはノートとペンをやったらから、必要に応じて、単語なんかを書きながら教えてやってくれ。近々家庭教師を付ける予定だけど、それまでは頼むよ」
「他にはなにかございますか?」
「うーん、フレイアに関しては無いかなぁ。・・・あ、そうそう。アブドゥルが帰ってきてからになるけど、エリックと二人で新しく警備要員を探させることにしたから」
それを聞いた途端、エリザの表情が明るくなったのを見て、アーサーは内心苦笑する。普段、表情の変化が大きくないエリザがここまで感情を露わにするとは、自分はいったい今までどれだけの苦労を掛けていたのだろうかと、複雑な気持ちになる。
「今の状態でも人手が足りてないからね。住人も一人増えたことだし、この機会にもう少し君たちの労働環境を改善しようと思ってね」
アーサーがおどけて言うと、エリザも「ふふふ」と返してきた。
「まぁとりあえず、調査結果が出るまでは、君を中心にフレイアの面倒を見てもらうことになるだろうし、よろしく頼む」
こうして、フレイアという名をもらった元猫タビサを加えた、「忘れられた屋敷」の新たな生活がゆっくりと動き出した。




