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広本季与丸まとめ買い

知り合いの画商、根岸耕平から


「広本季与丸、油彩、板まくりでまとめて十枚出たんだけど、あすかちゃん買わないかい?」


と電話があったから、あすかは二つ返事で「はいっ」と言いたいのをなんとか堪え、

「おいくらですか?」

と、平静を装って聞いた。

すると、根岸は

「二万五千」

と言う。

「二万」と、あすか。

それに根岸は素早く「二万二千」と、返す。

「わかりました。では、二万二千でお願いします」

これだけで話はついた。


すると、その電話の一時間後には早速根岸が風呂敷を持ってあすかの店にやってきた。


根岸のやっている店は神田神保町にあり、少し遠いのだが、いつもこうやってすぐに品物を持って来てくれるので、とても有り難かった。しかも根岸はこの業界の大先輩なのだから尚更だ。

あすかは、おもむろにお茶を淹れる準備をする。


「いやぁ、暑いねー、今日も。で、どうだい調子は?儲かってるかい?」

椅子に座るなり根岸は扇子をパタパタとしながらあすかに聞いた。だから、あすかは

「儲かってませんよ。そんなの根岸さんならわかるはずですよ?物故をやってて儲かってる人なんていないって」

と答える。それを聞くと根岸は

「ははは、そりゃ違ぇねぇ」

と笑った。

この儲かる儲からない話は、同業者が会ったときに聞く挨拶のようなものだ。それも大体儲かってなさそうな相手に聞くのが礼儀らしい。それはそうだ。誰も他人の儲かっている話など聞きたくはない。

彼らが求めているのはそんなものではなく、貧乏や苦労話でさえも笑い飛ばせる、明るい気分。または、それを養う心意気なのだ。


「はい、どうぞ」

そんなふうに、根岸といつもの話をしながら、あすかは用意できた煎茶と羊羹を出す。

羊羹は根岸の大好物で、今日すぐにここに来るであろうことを見越して、あすかが先ほど近所で買ってきておいたものだ。


そして、出した煎茶椀と盆はあまり気取らない、時代の若い物を選んだ。

そもそも、こんな狭いカウンターにはちゃんとした道具一式も置けなくて、湯冷ましもこぼしもないのだから、気取りようもない。だから茶椀は安価な明治の色絵だし、盆も時代不詳の欅のものにしている。でも、あすかはこの薄造りの、良く使い込まれた欅の一文字盆がとても気に入っていて、皆に見てもらいたいが為によく使う。


羊羹は茶碗の雰囲気とはまた違くなるように、瀬戸の豆皿に乗せて出した。でも、根岸はそんなことは一向に気にせずに

「お、あすかちゃんはいつも気が利くねぇ」

と、ひょいっと羊羹を手でつまんでパクリと食べ、お茶もぐいっと一気に飲み干す。


あすかはそれを微笑ましく見ながら、竹楊枝を使いパクパクと羊羹を食べる。


つまり、あすかも全然気にしていないのだ。


それは、基本的には客へのもてなしの方法、その時に使う皿などの選定は自己満足でやっているのだから、なんにせよ客が最終的に喜んでくれれば、それでいいとあすかは思っているからだった。

だから、お茶を出すまでがあすかの仕事で、あとは客がどう受け止めて楽しんでくれるかなのである。


しかし、今日根岸がいつも以上に茶碗に目がいかなかったのは、先ほどから壁に掛かった一枚の絵を見つめているからであった。


あすかはそれに気がつき、李朝箪笥の上の壁に掛けられた絵を見る。

それはつい、二日前に掛け替えたばかりの絵だった。そのことを、あすかが口にしようとしたら、先に根岸が


「互井開一かい。なかなか良い絵だな」


と言ったから、あすかも

「はい、そうですね」

とそれに頷いた。


その絵は水彩画の名手、互井開一(1904−1967)の絵で、パリ、セーヌ川の流れ込む、郊外の湖でカップル達が優雅に、そして楽しげにボートを漕いでいるという風景画だった。全体に青を基調とし、爽やかな季節の水面を描いているが、それはよく見る水彩画のあの淡い色合いとは異なり、互井の描く水彩画はまるで油彩画のように厚く、濃い、色彩を持つ。それは悪く言えば平面的に見えなくもないが、その特徴的なベタ塗りが互井絵画の特徴で、その油彩と水彩の中間を行くような絵の具の質感と透明感は、彼独自の達成と言っていい。だから互井の絵は、全然古びなく、とても現代的なのだ。そして、一見、小学生でも描けそうに見えるシンプルな絵なのだが、これ程に塗りムラがなく、均等に、しかも色の混じらないように描くには熟練の技術がいる。そんな苦労やテクニックなど微塵も感じさせないのも、画家の腕の見せ所で、それを見事に達成しているのもこの絵の大きな魅力のひとつだった。その隠す技術のお陰でこの絵は、この絵の持つ気軽さ、軽快さを獲得しているのである。

それが、根岸の言う「良い絵」ということなのだと、あすかは解釈した。


仕入れた絵を褒められたあすかが、照れ隠しに

「でも、李朝箪笥とセーヌ川じゃ、ちょっと合いませんよね」

と言うと根岸は、ん? と言い

「いや、悪くないよ。涼しく見えて。これなら直に売れるんじゃないか?」

と返してきたから、あすかは

「えー、根岸さんが買ってくれるんじゃないんですか?」

と文句を言った。すると根岸は


「ははは。いや、俺が買ったってしょうがねぇだろ。あすかちゃんはまだまだ駆け出しなんだ。ちゃんと、顧客を増やさなきゃな」


とまた笑った。


「さてと、じゃ、本題のこれを見てもらうかな」

お茶も終わり、根岸はそう言うと持ってきた風呂敷をカウンターに置いた。

そして、ゆっくりと風呂敷を解いていく。

それを、あすかはドキドキして見つめる。この荷を解く時のドキドキは、いつまで経っても慣れることはない。この最初の出会いのために、あすかは骨董屋をやっているようなものだった。


そうして、荷を解いたうちの一枚の板絵を掲げ、根岸は

「こういうのなんだけどな。全部花の静物画なんだ」

と言った。それを聞き、絵を見たあすかは

「やっぱりそうでしたか。季与丸さんは花の絵が多いですもんね。それに得意だったみたいですし」

と答える。


昔の画家はよく花の絵を描いた。それは、花の絵がよく売れる絵だったからである。

飾れば花の代わりにもなるし、どんな家にも気軽に掛けられることから、注文も多かったらしい。だから画家は好むと好まざるとに関わらず、生活のために花の絵を描いた。所謂、売り絵である。

でも、その売り絵を描くために花を買うお金もバカにならなかったみたいだ。なにせ生花は日持ちしない。しおしおになった花を見て描くわけにもいかなったのである。だから、森芳雄などは花は経済的じゃないからと、柿などの果物を代わりに買ってきて描いていたらしい。そんな画家までいたくらいなのだ。


しかし、そんなに皆で花の絵を描いても、自ずと実力の差は出るもので、花の絵が得意な画家と、そうでない画家が出てくる。

広本季与丸(1908−1974)などは完全に前者に入る画家だ。

そういう画家の絵はひと目見ただけでわかるのである。「あ、この花の絵は季与丸さんだな」と。

それこそが画家の本領で、たとえ多くの画家が競って描くような、なんの変哲もない花の絵でも、自分の描いたものに自分の描いた「印」みたいなものを、サイン以外にも込めることができるのが、本当の良い画家なのだと、あすかは常々思っている。


そんなあすかのお気に入りの画家の一人が広本季与丸なのだが、値段を聞けばわかる通り、これが今のこの画家の評価なのである。いや、評価以前に忘れ去られていると言っていい。季与丸さんの地元、愛知県などではまだその作品は愛されているようだが、全国区ではないのだ。


あすかは、そんな広本季与丸の板の油彩画を裸で十枚受け取ると、特に絵の傷みなども気にならない程度だったので、電話での約束通り、二万二千円を根岸に渡した。


この値段であすかに売るということは、根岸はもっと安くこの絵を仕入れたのだろう。この人脈の差がつまりはキャリアの差なのだが、きっとこれを二万出して買うのはあすかくらいしかいない。だから、きっと根岸はあすかのために、少しの儲けで、これをわざわざ仕入れてくれたのに違いなかったが、そんなことはお首にも出さなかった。


あすかはそれを嬉しく思った。


そして、それにちゃんと気づいていたから、必要以上に値切らなかったのだ。


完全に値切らないのもなんだかむず痒いから値切ったが、ちゃんとした値で買うことによって、またいつか良い物がでたら、優先してあすかの所に持ってきてくれるようになるという計算もある。だから、最初は我慢して買うのも仕入れの大事なコツなのだが、あすかは今のところ、こうやって優しい先輩達にいつも甘える格好になることが多い。


絵を受け取ると、あすかは早速、十枚の花の絵の中から、一枚、F4号の鮮やかなオレンジと黄色の花の絵を選び、それに合う額をカウンター奥のバックヤードから探し出してくると、それに入れた。


そして、その額装した絵と店内の絵を掛け替え、根岸と一緒に眺めた。


黄色、オレンジ、白の花が、深い緑色の壺に生けられてもなお、力強く咲いている。

その油彩画独特のマチエールは少し強く光沢が出るように油が調整されており、それがこの絵を瑞々しい印象にしている。

実に嫌味のない、素直な絵だった。

まるでそれが、季与丸さんの人柄まで表しているように。


そう、あすかが考えていると、根岸がふいに


「この人は本当に絵を描くのが好きだったんだろうな…そして、死ぬまで絵を描き続けた。画家としては、これ以上に幸せなことはないなぁ……」


と、あすかが考えていたことと、同じようなことを言った。


だから、あすかはその言葉に

「はい、そうですね」

と答え、本当にそうだなぁと笑った。


用事が済み、根岸が自分の店に帰っていった後も、あすかは一枚一枚の絵に合う額縁を、時の経つのも忘れ、ああでもない、こうでもないと試行錯誤し続けた。


時刻はもう午後6時。


そうやってきちんと額装が決まった花の絵を、改めてじっと見つめながらあすかは


「一枚八千円なら売れるかなぁ……」


と、売値のことを考える。

そして、やがてこの絵達が嫁いでいく日、客が手に取ってくれるその瞬間を楽しく想像しながら、今日の仕入れに大きな満足を感じていた。


(了)


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