旅茶碗
外の茹だるような暑さの中を通り抜けて来た時に掻いた汗は、もう完全に冷え切っていた。
そのくらいこの狭い店内はキーンと冷房が効いている。
いや、このくらいの広さで狭いなんて言ったら失礼かもしれない。というのも、大抵の骨董屋がそうであるように、店舗の広さにお金がかけられるほどの余裕は、ごく普通の良心的な商売をしている骨董商には全くないと言っていいものなのだ。
現に、私の愛すべき《骨董・手乗屋》だって、ここ《味見堂》さんよりももっともっと狭いじゃないか……と店師・古瀬あすかは思う。
時々、それを商売が下手だからだと揶揄されることがある。しかし、それは誤解というものだ。
そう言う人は大抵、骨董屋の扱う品物は値段があってないようなもので、仕入れ値の十倍とか百倍とかの値段で売っているのだから、いくらでも荒稼ぎできるだろうに、と思っている節がある。
が、もうそんな嘘のような時代は終わったのだ。
実際の利益率といったら、どんなに台帳をつけなおしてみても、せいぜい仕入れ値の一割から二割。さらに、全体の二割の商品は利益を上げられず手元を去って行くし、時には損をして勉強することだってある。まぁ、時々掘り出し物が見つかって大きく儲けることもなくはないが、そんなことは極稀だ。
つまり、元手の少ない、あすかのような小さな業者は、慢性的に自転車操業なのだ。
従って、店の広さや場所も自分の身の丈に合ったところに自然と落ち着くものなのだが、それをなかなかわかってもらえない。
この間、久しぶりに同窓会で会った友人にさえ「へぇ、気楽な商売だね」の一言で片付けられてしまった。どんなに裏で苦労していても傍から見れば、何もしていないように見えるのだろう。
でも…あすかは、その言葉を完全には否定しきれなかった。なにせ……
「好きでやってるんだもんね……この商売…」
あすかは商品棚を見つめ、そんなふうに今更考えても仕方のないことをあれこれ考える。
ーーあすかは自分で荻窪の住宅街の片隅に、小さな骨董店《手乗屋》を構えている、所謂店師である。
店を構えていると言えば聞こえはいいが、現状は前述の通り、毎月自転車操業だ。自営業者だから、将来のため、貯金もしておきたいものだが、それもままならない。なぜなら、いつもお金が増えたら増えた分だけ品物を仕入れてしまうからである。
これはあすかだけに限らず、骨董商の全般の哀しい性なのだが、なにも皆、お金よりも骨董品が好きなわけではない。骨董を仕入れるのは、あくまで商売用で、手元に残して楽しむ品物など、生涯に一つか二つだという人も多い。
そのくらい、皆お金が好きなのだが、どういうわけかいざ手元の品物が捌けて、お金が戻ってくると、ほとんどの人がまたその全額を品物に変えてしまうのである。
摩訶不思議なことだが、結局のところ、骨董商は、商売好きの働き者がなる職業だということなのだろう。
そして、仕事の中での色々な品物との出会いと別れが、何よりの酒の肴なのだ。
そんな出会いを求めて、ではないが、あすかは久しぶりに馴染みの骨董屋に遊びに来ていた。
今日は水曜日で、自分の店は定休日だった。でも、定休日だからといって商売は休みではない。こうやって勉強して回ったり、仕入れに出たりするのも大事な仕事のひとつなのだ。というより、骨董商の仕事は仕入れが全てと言ってもいい。だから、あすかは店を臨時休業して仕入れに出ることもしばしばある。そんなことをしても全く問題ないのだ。なぜなら、自慢ではないが、とても分かりにくい場所にある、あすかの店は年がら年中、閑古鳥が鳴いているからである……
「ま、でも、今のところうまくいってるから、別にいいか」
と、あすかが、棚にあった小さな手吹きのビールグラスを持って、また経営のことを思っていると、店の奥から店主の奥寺秋人がお盆を持って戻ってきて
「おーい、あすかちゃん、冷たいお茶淹れてきたよ。一緒にどうだい?」
と声をかけてくれた。奥寺はあすかが遊びに来ると、いつも長話をするためにお茶を用意してくれるのだ。
だから、あすかは
「あ、ありがとうございます。頂きます」
と、無駄なことを考えるのは止め、今日もお言葉に甘えることにした。
「店はなかなかうまくいってるみたいじゃないか。良かったねー」
あすかがカウンターの中の椅子に座ると、すかさず、奥寺は言った。
その言葉には今のあすかの状況を祝福するような響きが含まれている。こういう雰囲気は同業者には珍しい。
「はい、お陰様でなんとか……」
「ははは、私にまで謙遜することはないよ。最近は噂でも色々聞いているよ?若いのに目がいいし、どうして堅実な商売をするってね」
「いえいえ、そんな。私はただ資金がないからそうやってやっていくしかないだけです」
あすかが照れくさそうに麦茶を飲みながら言うと、奥寺はにこっと笑い、
「うんうん、まぁ、そうやってコツコツやるのが長く商売を続けていく秘訣だよ。労働っていうのはね、そうやってやっと、報われるものなんだ。まぁ、私はそれをこの年になって気づいたわけだがなぁ、ははは」
といかにも面白そうに言った。
奥寺は今年七十歳になるベテランの骨董商だ。
短く刈った白髪にメガネをかけ、いつもトレードマークの釣りに着ていくようなポケットのいっぱい付いたベストを着ている。夏でも冬でもだ。そのポケットが一体、なんの役に立つのかはあすかにはわからなかったが、いつも市で見かける度、すぐに「あっ、奥寺さんだ」とわかるから便利というか、ありがたかった。あすかはこの商売の世界に足を踏み入れてまだ四年だったが、本当にまだ何もわからなかった頃、市のいろはについて色々と教えてくれたのが、この奥寺だったのだ。
「で、今日はお客さんとして来てくれたのかい?」
そんなふうに昔のことを思い出していると、奥寺が突然商売人の顔をしてそう言ったから、あすかは思わず麦茶を吹き出しそうになってしまった。
「あ、当たり前じゃないですか。私が奥寺さんのところに持ち込めるような品物を仕入れられるわけがありません」
あすかがそう答えると、奥寺はふーんと言って
「そういう謙遜も必要ないんだがな。私も大きな商売をしなくなってから久しいんだから」
と、あすかをじろりと見た。
あすかはその目から少し視線を逸らす。しかし、
「わ、私は本当に自分の手に馴染むくらいの品物を扱っていければ、それで十分なんです……だから今から奥寺さんのお眼鏡に叶うような古陶の目利きになるつもりはありません」
と、きっぱりと言った。
「ふーっ、手に馴染むものか。まさに《手乗屋》だな。いやいや、恐れ入りました。もはや、そんな境地に達しているとはね」
奥寺は麦茶は飲みながら言う。それにあすかは
「境地って言うのも止めてくださいよ。何か、私がババ臭いみたいじゃないですか」
とふくれて反論した。でも、その言葉を聞いた奥寺は
「ババ臭いってより、あすかちゃんはジジ臭いって言った方が正確だな。こんな業界に一人でのこのこ入ってきた若い娘さんは、あすかちゃんくらいのものなんだから。ははは」
と、また笑った。
なんだかんだで、奥寺も嬉しいのである。こんな古臭い業界にあすかのような二十代の娘が興味を持ってくれたことが。そして、同じ趣味についての話を、こうやって若い世代と話せることが。
今の言葉はそんな奥寺の照れ隠しなのだった。
「はぁー、もう」
あすかががっくりうなだれていると、また奥寺は商売人の顔に戻り、
「で?何か、気になるものはあったかい?」
と聞いてきたから、あすかは顔を上げた。
そして、うーん、と悩んだ後、すくっと立ち上がり、おもむろに商品棚の前に立った。
この時ばかりはあすかも真剣だ。
なにせ、自分が気に入ったものを言うということは、自分の審美眼を披露するということに等しいからだ。まして、目利きの奥寺の前でである。この場合は知り合いも初対面も関係ない。それが同業者同士の独特の感覚だ。あすかは、この場の空気がピンと張り詰めるのを感じた。
「でも、ダメよ。良い格好をしようとしちゃダメ」
それを感じた時、いつもあすかはそうやって敢えて肩の力をふっと抜くことにしている。
こういう時、一番ダメなのが頭でっかちになってしまったり、見栄を張ろうとしてしまうことだと、あすかはわかっているからだ。
大事なのは感性である。直感である。観察はその後。
あすかの手がすっと伸びる。
そして、店に入ってきた時からの第一印象で、自然にその茶碗を手に取った。
いや、正確にいうとそれは茶碗ではなく、おそらく向付か何かなのだろう。あすかの両手のひらにすっぽりとはまってちょうどいいサイズ感なのだ。小柄なあすかの手でそうなのだから、やはり茶碗にしてはやや小さい。
土は固く焼き締り、中を覗くと細かい貫入が見て取れた。そして、薄い茶色をしている。唐津焼のような感じだが、あの辺りの土を使っているのだろうか?そこまではわからなかったが、時代はそう古くなさそうだ。明治の初めか……いっても幕末くらいだろう。側面には鉄絵で大胆に松が描かれており、昔の職人の筆運びの良さを偲ばせている。この絵がなんともいえない、旅情をあすかに感じさせた。
あすかは今度はゆっくりと裏返し、高台を見る。力強く形作られた高台。全体ににたっぷりとかけられた白っぽい釉薬が側面底で溜りをつくり、それが良い景色になっている。その釉薬の質と高台の作りを見て、あすかはやっぱり江戸幕末はあるなと思いなおした。
「ん?それかい?」
あすかが茶碗を手に持って見ていると、奥寺は言った。
「あ、はい。あの、これは、どういうものですか?」
「ああ、私も正確にはわからないけどね、これは向付で、たぶん明治初期あたりの物だろう。本当は五客セットで買ったんだ。でも、五客セットの向付で売るよりも、バラの茶碗として売った方が足が早いからね。だからこうやってバラで売ってるんだよ」
「ひとつおいくらですか?」
「五千円。でも、あすかちゃんは馴染みだから四千円でいいよ。しかし……」
そう言うと、奥寺は言葉を切り、頭を掻いて
「これを選ぶってことは、あすかちゃん、今回は自分用の仕入れだな?」
と言った。
「はいっ。そうなんです。ちょっとお金が余ったので、たまには自分で使うものを買いたいなぁ、と思いまして」
あすかは笑顔で言う。
「はぁ、どおりでうちに置いてある物の中でも、一番安いものを選んだと思ったよ」
「へへっ」
あすかは舌を出して、ほくそ笑む。
「でも、これは安いけど、なかなか良いと思うよ。こういうサイズの物は意外とないもんだからね。あっても、高いものばかりだ」
そう言って、あすかから茶碗を受け取ると、奥寺はカウンターの中に入り、梱包を始めた。あすかも、財布からお金を取り出し、用意する。
「持ち運ぶのにちょうどいい大きさだよ。だからこれは籠なんかに入れて旅に持って行くんだよ。そういうのをね、籠茶碗とか旅茶碗って言うんだ」
「旅茶碗……?」
「そうそう。で、これを使って旅先で一服するのさ。乙なもんだろう?昔の人は。このくらいの値段の茶碗なら割れても惜しくないだろうから、あすかちゃんも、どんどん持って歩いてやるといいよ」
そういうと、奥寺は梱包した茶碗を渡してくれた。それをあすかは受け取り、お金を渡すと茶碗をバックに仕舞った。
「それにしても、いくら休みとはいえ、骨董屋なら風呂敷くらいいつも持ち歩いた方がいいぞ、あすかちゃん。いつなんどき、仕入れのチャンスが来るのかわからないんだから」
「あ、いえ、私の専門は物故洋画なので、風呂敷はあまり使わないんですけど……」
あすかが恐る恐るそう言うと、奥寺は
「絵も茶碗も変わらないよ。あすかちゃんは若いんだから、もっと色々な物を見て、いっぱい吸収した方がいい。だから風呂敷はその心構えだと思って持ってみなさい」
と言った。
あすかはその言葉に、それもそうかもしれないと思った。だから
「あ、はい。そ、そうします」
と頭をぺこりと下げて答えた。
味見堂を後にすると、あすかは帰りにお茶屋さんに寄り、そこでティーパックの緑茶を買い求めた。
なかなかいいお茶だった。
本当は抹茶を点てようかとか、急須で淹れて飲もうかとか色々と考えたのだが、なにせあすかは家に何の道具も持っていなかった。それに、この茶碗には、ティーパックで飲むくらいの気軽さが似合うかもしれないと思ったのも、それを選んだ理由だった。
家に帰ると早速、包を取り、茶碗を洗った。その間にお湯も沸かす。そうして、お煎餅を食べながら、その茶碗で飲んだお茶は、やっぱりいつもと違った味がする気がした。
でも、願わくば、あすかはこの茶碗を早く「旅茶碗デビュー」させてあげたいなと、忙しい自転車操業のこともしばし忘れ、次の仕入れの旅はいつにしようかと、そんな淡い思いを馳せていた。
(了)