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一話物

トイレの花男

作者: 紅月赤哉

 瞼が開く、という感覚と身体がこるというそれは最後に生きていた時から十年経つのに消えない。トイレに何故か備え付けられている時計の正確さを信じるなら、目覚める時間は夜の九時と決まっていた。きっかりと十五時間睡眠。これまた生きていた時の習慣なのか自然と体操をする。

 準備運動をすませたところでトイレに入ってくる女の子達の気配がした。部活が終わって帰る前の一時、というのだろう。しばらく僕はナナフシのように細くなりにょろにょろしながら女子の用足し終了を待った。

 響く足音から分析する。数から考えて二人。体重はどちらも五十二キロだ。脂肪の付き具合を考えると運動部。バレーボール部でおそらく間違いはない。今日はバレーとバスケの日だ。

 タイミングを計ってマイルームである三番目の個室から飛び出して、叫ぶ。

「ほーらほらほら。トイレの花男さんですよ~」

 インパクト。初めのインパクトが大事なのだ!

 僕は腰を前後左右に振りながら手を洗っている二人の女子生徒へと近づいた。こちらを向いて顔を強張らせている顔はどちらも僕好み。セーラー服にマッチした黒髪。ショートカットとロング。髪型は対比されているけれど、顔は同じくらい童顔だ。少し肉がついているといっても間違いじゃない。だが、僕はあえて言う。もちもちしていると。

「熱くて熱くて死にそうなんだ~。冷ましてくれないかぁああ~」

 身体に巣食う熱さは火事で焼け死んだ時からのものだ。

 今でも思い出す、あの十年前の夏の日。トイレでおなじみの金木犀の香りが充満する中、中一の僕が入り口から三番目の個室で用を足しているといつものように上から水が降ってきた。僕は華麗なステップでそれをかわそうと心の中で思っていたけれどそのまま被ってしまった。汚れた水じゃないだけましだった。より黒くなった制服を脱いで搾り、下も脱いで搾り、ワイシャツもシャツもトランクスも搾り、存分に搾ったところで満ち足りる。でもそんな気持ちはドアが開かないことにしぼんでいった。どうやら何か細工をしてドアが開かないようにされたらしい。トイレに閉じ込められたなんて「なんて骨体理科室の骨体」と思ったもんさ。

 そこで起こったのがあの火事。火事だよ火事。防災訓練とかするって言ってたから、最初は非常ベルが鳴っても「あー、防災訓練かー誰か気づいてくれないかな?」と思う程度だったんさ。そのうち黒い煙が下から湧き上がってきてはじめて気づいたよ。こりゃあ、モノホンの火事だって。

 必死になって扉を叩いて助けを求めたけど、どうやら訓練の成果か生徒も先生も避難完了しているらしい。国語数学理科社会英語体育もろもろよりも避難の精度が一番成績良い学校なだけあると感心したものさ。そして感心した中で僕は煙にむせて息が出来なくなって死んでいった。意外と好きだった金木犀の香りも煙に掻き消えていた。あー、これが一酸化炭素中毒だったのね。

「そんなわけで、僕は幽霊なのさ!」

 僕の一大スペクタクルを説明し終えて感想を聞こうと思ったら、すでにさっきの二人はいなかった。床に落としたらしいハンカチを拾おうとして、幽霊だから触れないじゃんと自分に突っ込んで、僕はため息をついた。

「僕はただ、女子とストロベリートークがしたいだけなのになぁ」

 生きている間に女の子と最後にちゃんと話したのは小学三年生だった。

 最後に手を繋いだのは小学校六年生の運動会での踊りだった。

 最後に告白したのは幼稚園年少組でお世話になった先生だった。

 名実共にシャイナー(シャイな人間)の異名を輝かせたけれども、本当の僕はウィットに飛んだアメリコジョークを十六連打できるナイスボーイなんだ。ただ、それが人間と言う器の中から出なかっただけで。ちゃんと女の子と親密になれば満足させられるはずなんだ! というわけで。

「誰かいいおにゃのこいないかにゃー」

 思わず猫言葉を話してしまった。この前、紛れ込んできた猫に「おはにゃー」とか言ったら引っ掻かれたのはきっと「猫舐めんな」ということだったんだろう。傷はつかなかったけど。

 でも、今度の相手は引っ掻いては来なかった。

「語尾ににゃーとか言ったら猫語って安直ですよ」

 いつの間にかそこにいた女の子は少し好みから外れていた。髪の毛は背中まで伸びる黒髪ロングなんだけれど、黒ぶち眼鏡をかけていて、にきびも少し多い。美少女ではなかった。僕も別に可愛ければいいけど、この娘はさほど可愛くもない。まあいいか、おにゃのこだし。

「ほーらほら。トイレの花男さんですよー」

 僕は本日何度目かになる腰振りを披露した。出会い初めはインパクトが大事。出足で躓くと話してももらえないし。さあ、活目して見よ!

「女の子にそんなことしないほうがいいですよ」

 あっさりと否定してきた女の子はそのまま僕に近づいてきた。なんだろう、この反応の違いは。仮にも僕は幽霊だからもうすこし恐がってもいいのに。逃げられるのもショックだったけれど、逃げられないとそれはそれで寂しい。

「あなたがトイレの花男君?」

「そうだけど……なんで恐がらないの?」

「私はトイレの花子さんですから」

 彼女は口元に手を当ててふふ、と笑い、事情を説明し始めた。僕も自分の説明を忘れはしなかったけど。

 彼女は田中花子。だから、渾名は「トイレの花子さん」らしい。なんて安直なんだと言うと彼女はまた笑って言った。

「語尾ににゃーで猫語と同じくらい安直ですよね」

 焼失した頬が紅潮する感覚が甦る。最初はそんなに可愛くないと思ったけれど、髪をかきあげて笑う彼女は僕の心を鷲づかみにした。多分つかめないだろうけど。

「花男君の本当の名前は?」

「僕は本当に花男だよ。苗字は……あれ? なんだっけ」

 自分の苗字を思い出せない。そりゃあ「女の子とストロベリートークしたい」という思いで幽霊になってるなら、余分な情報は消えていくのかもしれないけれど、自分の苗字は覚えていたはず、だったかな?

「どうしました?」

「いや、何でもないよー。十年も幽霊してると苗字忘れるんだ」

 僕は笑ってごまかした。今この場のトークには何の支障もないし。

 仕切りなおすために息を吸い込むと、金木犀の香りが肺を満たした。意外と好きだった香り。皆は臭い臭いと言ってたけれど、気分を落ち着かせる香り。久しぶりに感じる安息。

「それより花子さんはどうして僕を恐がらないの?」

「あなたは怖いというより奇妙ですから」

 それは誉め言葉なんだろうか。

 そんなやりとりから五分程度だけれど、いろんな話をした。

 花子さんはバレー部で補欠だそうだ。そしてバレー部は、補欠にさえなれない人がいるほど強いらしい。その中で補欠になるだけでも十分凄いと思う。僕は生きてる時は帰宅部だったし、運動できる人にはあこがれていた。ただ、部活のことは喜々として話すけれど、友達のことははぐらかされた。

「それにしても災難でしたね。十年前の火事って記憶にないんですけど」

「あー、そうだね。その頃は花子さんは五歳だ。幼稚園のスペシャリストの頃だね」

「なんですか? 幼稚園のスペシャリストって」

「アメリコジョークさ。そこはイタリアの中にあるバチカン市国みたいなもんで、アメリカのグランドキャニオンの中にある三平方センチメートルの国なのさ。でまあ、そこで生まれたジョークなのさ」

「そうですか」

 存分にスルーされた。でも別に悪い気分じゃない。最初に感じた違和感ももうなくなっていたし、その意味も分かった。

 金木犀の香りがする。幽霊であるはずなのに匂いを鼻が拾ってくる。僕は今、人間に戻ってるのかもしれない。少なくとも、そう錯覚しているのかもしれない。それは、花子さんは僕を『幽霊』じゃなくて『死んだ男の子』として接してくれているからだ。それは同じ意味かもしれないけど、僕の中では別の物だ。一歩踏み出すか踏み出さないかの些細な違いだとしても。

 だからなのか、生きてる時を合わせてももっとも幸福な気持ちになった。

「でも本当、幽霊には惜しいですね」

「ん? なんで?」

 話が途切れたところで花子さんが少し寂しそうに呟いた。僕が問い返すと彼女は一度顔を伏せて僕から視線をそらした。瞬間に見えた顔は、もっとも見覚えのある顔。

 なんでもない口調で本当の気持ちをごまかす、過去の自分の顔だった。

「もっともっと話したいのに、部活の後でしか会えないからです。こんなに人に自分のこと話せたの、初めてだから」

「……俺でよかったら、話し相手になるよ。何しろ対になる相手だから」

 僕は彼女の方に手を置こうとして、すり抜けた。当たり前だけどそのことに気づかなかった。僕は幽霊であることをこの瞬間だけは完全に忘れていたんだ。

「トイレの花子さんと花男さん。いいカップルじゃんー」

「ふふ。そうですね。ありがとうございます」

 花子さんは時計を見た。もう時刻は十時に近い。たった十四、五分の会話だったけれど、この間だけは僕は人間に戻れた。これからも彼女はやってきてくれるに違いない。そう考えると嬉しくなった。

「では、また明後日」

 部活は一日飛びだった。一日の合間がとても長く感じられるだろう。

「あ、花子さん」

 思わず呼び止める。これからも続くだろう会話。その前に、一つだけ言っておきたかった。

「素直に思ってること言って笑ってるほうが、可愛いよ」

 花子さんは頬を赤らめて「何言うんですか」と呟いてから出て行った。おそらくもう残ってる生徒も先生もいない。たまに警備員さんがやってくるくらいだから、もう起きてる必要はないだろう。ふいに眠気が襲ってきて、僕は自分の部屋へと戻った。


 ――眠気が襲ってきた?


 その事実に悪寒が走る。眠気がくるなんて体力を消費することから生まれるんだ。今まで眠る時もけして眠気からじゃない。明るくなったから目をつぶろうと思って、結果として寝ただけだった。なのに、何故今になって眠気がくるのか。

 身体がばらばらになるような気がする。思考も千切れていくような、気がする。

 ふと、想いを遂げた幽霊は成仏するという話を思い出す。

 僕はストロベリートークをしたいと望んだ。

 まさか、花子さんとの会話がストロベリートークだったのか? それってもっと甘い話とかじゃないのか?

 思い違いしていただけで、甘い雰囲気で会話したならストロベリートークなのか?

 僕を幽霊にしたのが神様なのかそれとも強い思いなのか分からない。でも、どうやら「女の子とストロベリートークをする」という点では僕は満足してしまったようだ。だから、意識が薄れていく。

 でも、でもでもでも!

 まだ、僕は花子さんとたくさん話をしていたい。あの、僕と同じ顔をどうにかして変えてあげたい。心で思うだけで、実際に行動できなかった弱い自分を、花子さんを助けることで消し去りたい。この想いは叶わないんだろうか。

 それは消えていく意識が物語っていた。

「まだまだ話せると思ったのになぁ」

 激しい後悔の後は、やけにさっぱりした気持ちだけが残った。やっぱり、出来る時にやっておかないと後悔するってことだ。生きてるうちにもっと僕を苛めていた奴らに言い返せばよかった。行動すればよかった。いつか開放される時が来るという甘い考えなんて、捨てればよかった。花子さんにもっと自分を出してと伝えればよかった。

 出来れば花子さん。僕の言葉を忘れないで欲しい。

 素直に思ってること言って、笑ってて欲しい。僕がいなくなっても――

 そのまま僕は眠気に勝てずに眠りについた。


* * * * *


「ねぇ、花子。そんなに気合入れなくてもいいよ、トイレなんて」

「皆で使うんだから綺麗にしないといけないよ」

 眼鏡をかけた女の子が、ふてくされた言葉使いの女の子に言い返してからごしごしと便器をみがいた。

 僕のすんでる部屋だから、きれいになるのはうれしかった。

「本当、トイレの花子さんね」

「そうね。トイレの、花子さんだもん」

 眼鏡の女の子は少しだけ寂しそうに繰り返した。トイレの花子さんということばに何かひっかかりをおぼえたけど、すぐに消えていく。

 何で死んだのかも、何で幽霊になったのかも分からないけれど、こうして自分のいる場所をみがいてくれる人を見るだけでもうれしかったし、みちたりる。心が温かくなると、だんだん視界がボケていく。

「会えるまで、ずっと磨くから」

「なんか言ったー?」

 ぼくの便器をみがき終えた女の子の呟きは、もうひとりの子には聞こえなかったらしい。眼鏡の子は胸元のポケットからボールペンを取り出して、個室の端っこに目立たないように一本だけ線を引いた。それまで書いていた線と合わせて「正」という文字になる。なにか、切なくなった。

「さて、いこうかー」

「うん」

 先に出て行く女の子。そして眼鏡の女の子はぼくのほうを向いた。見えてるはずはないんだけれど、まるでぼくに話しかけるように言った。

「また明日ね」

 ことばはきこえるけど、どういういみなのかもうわからない。

 つめたくなっていくからだをみおろすと、もうむねのあたりまできえている。

 でも、いわないといけないきがして、ぼくはいった。

 また、あ、し

花男の苗字は作中に出ています。

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