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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Dear Acter

作者: 春馬


「アリス、今日何食いたい?」


 ずしりと背中に負荷した重みに、うっ、と小さく呻いた。床にペタリと座って足を投げ出した前屈の状態でいたので、背中に重みが増されるとあちこち(主に股関節)が悲鳴を上げている。


「夕雄さん、重いー。それに役名で呼ぶのやめてください。照れ臭いんです」


 首を捻って、背後から重みを与えてくるその人に文句を言ってやればクスクスと軽い笑いが返ってきた。

 自分の背に寄りかかる様に背中合わせで座る鮮やかな赤髪の男性が、その端整な顔立ちに悪戯気な笑みを浮かばせている。そんな笑みすら綺麗に見えるのだから、美形とは得だな、と変に納得する。


 一ノ瀬斗真、十七歳。毎日バスケ部の活動に明け暮れていたある日、怪しげな美女に声を掛けられてから、二年が経つ。

 美女は細い指で斗真の腕を掴んで、早口に言った。


「あなた、うちの劇団に入らない?」


 今思えば、あれが俺の人生を変えた一言だったんだ。



 美女は『御坂雪子』と名乗り、押し付ける様に名刺を渡してきた。『みさか』、『ゆきこ』。その当時まだ十五歳だった俺でも、その名は知っていた。妖艶で端整な演技をする実力派女優。母親が好んで観ていたドロッドロの愛憎劇ドラマなんかで、よく見掛けた顔だ。

 そして、名刺にはこう添えられていた。『劇団桜華衆 代表』と。


 劇団桜華衆(おうかしゅう)。御坂雪子が設立した、主にミュージカルを公演して高い評価を受けている劇団だ。多くの実力派俳優や女優も育て上げているというその劇団の座長に、俺はあの日スカウトされた。


 ─何か、もっと色々なことに挑戦してみたいと思っていた矢先のことだったから、迷わずに入団する事を決めた。初めてする演技、そうしたものに取り憑かれた様に稽古に没頭して、もっと上手くなりたい、もっと色々な役を演じたいと続けて……

 あれからもう二年も経つのかー、とぼんやり思った。

 気付けば、若手実力派、などと演劇雑誌で特集を組まれる様な地位まで来てしまっていた。それでも、まだまだ自分は未熟だと思う。

 そこまで考えてから、今自分の背中に寄り掛かっている赤髪の男性をもう一度首を捻って眺めた。


 劇団桜華衆に入った当初、一番嫌いだった人。赤い髪に、少しキツい印象だけども整った顔立ち。スラリとしたスタイルの良さに、漂う艶やかな色気。そして悔しいと思う程に高い演技力を持つ。

 それがこの人、梨谷夕雄だった。

 斗真よりも四歳年上の夕雄は、メンズ雑誌のモデルと劇団を掛け持ち、各方面から高く評価されている。多くは語らない寡黙な性格も、男らしいと人気の一つなのだろう。劇団内では、寡黙ではあるものの小さな気配りの出来る、頼れる兄貴分として慕われている。


「?どうした…?」


 不意に目が合った夕雄が首を傾げ、斗真は慌てて首を横に振る。


「今日はオムライスが食べたいです」


「了解」


 ふっと目許を柔らかな曲線に緩めてから、夕雄が背中から離れていく。温もりが消えた背中が寒くて、少しだけ寂しくなった。


 厳格な父親の反対を押し切って入団し、十五歳で一人暮らしを始めた斗真に、雪子を始め劇団の先輩達は随分優しく助けてくれた。困った時はお互い様、が桜華衆のモットーなのだ、と。

 ……初めはソリが合わずに喧嘩ばかりしていた夕雄が、初めてオムライスを作ってくれた時のことを鮮明に覚えている。

 稽古が終わった直後のことだった。父親から携帯電話に着信があり、電話口で告げられたのは家督を継がなければ勘当する、というたった一言。

 まだ気持ちも幼かった自分は、親に捨てられてしまうのかという恐怖で震えた。


 今すぐにでも演技を捨てて、家に戻らなければいけないのかもしれない。ただ、来月には自分が初めて主演を務める公演が迫っていた。どちらかを手離すことを決断しなくてはいけないのか……

 一人、どうしていいか解らずに途方に暮れていた時、喧嘩ばかりでロクに話もしたことがなかった夕雄が手を差し伸べてくれた。

 夕雄が作ったオムライスを食べて、号泣しながら気持ちを語ったのもはっきりと覚えている。


 演劇を、続けたいんです。

 ―そうか。

 もっと上手くなりたいんです。

 ―うん。

 でも、家を継がなきゃいけないんです。

 ―なんで?

 父が、反対していて…

 ―じゃあ、一緒に説得しに行ってやるよ。

 ―斗真が、本当は何をしたいのか、きちんと伝えに行こう。


 そうして、父の元に夕雄が一緒に説得に行ってくれた。

 駄目だ。馬鹿なことを言うな、の一点張りの父は、話を聞いてくれずに背を向けてしまう。そんな父の背に、夕雄はよく通る声で言った。まるで台詞を言うように堂々と。


「斗真の演技を見てから、決めてください」


 たった一言。去った父の背に涙が出そうだったが、夕雄が手を握っていてくれたから、少しだけ安心した。


 前屈から立ち上がり、稽古場の端に置いていたメッセンジャーバッグを背負った。出口で待っている夕雄に気付いて小走りで駆け寄ると、彼は車のキーをチラリと鳴らして先を歩き出す。稽古場から外へ出れば、冬の夜特有の張り詰めた冷たい風が頬を打った。


 斗真と夕雄が父の説得に失敗してから一ヶ月後。父は、斗真が初めて主演を務めた公演を一人で観に来ていたらしい。その夜、携帯電話の留守電に一言だけメッセージが残っていた。『高校を卒業するまで……三年だけ、待ってやる』と。

 嬉しさで泣きながら夕雄の元へと駆け寄って教えると、夕雄は笑って頭を撫でてくれた。初めて見た夕雄の笑顔は酷く優しくて、一層涙が溢れてしまった。


 高校を卒業するまで、あと一年か。夕雄が運転する車の助手席で、窓の外に広がった濃紺の夜空を眺めた。


 今は、新しい演目の稽古で忙しい毎日だ。

 バスケ部の割には華奢で生まれつき女顔な自分は、女形として有名になった。最初こそ思春期なのに女装?!と嫌がったけれど、相手役を務めていた夕雄のアドバイスがあったからこそ、評価される演技が出来た様に思う。

 …いつの間にこんなに信頼するようになったんだろう。ついついと流れていくネオンで彩られた景色に、ぼんやり思う。


 次の演目は『不思議の国のアリス』がモチーフの恋愛劇だ。不思議の国に迷い込んだヒロインのアリスを斗真が、彼女を助けた事で恋に落ちる相手の帽子屋を夕雄が演じる。

 …何度も恋人役は演じてきたのに、どうして今さらこんなにも緊張してしまうんだろう。

 窓に映った運転席の夕雄の姿を見れば、キュッと胸が締め付けられた。この苦しい想いが何なのかは、あまり知りたくない。知ってしまえば、何かが壊れてしまいそうだと本能的に感じていた。


 目を伏せて車の揺れに身を任せると、居心地の良さが睡魔を引き込んでくる。



 一ノ瀬斗真、十七歳。

 まだこの気持ちがなんなのかは、知るつもりがなかった。




*******************



 離れていった温もりに、斗真は紅くなった頬を片腕で隠した。


 触れ合っていた唇が未だ熱いことに気付くと、一気に羞恥が込み上げる。チラリと上目遣いに見上げれば赤髪から覗く薄い茶の瞳と目が合い、慌てて俯くと薄く笑われた。

 サラリと手のひらで髪を撫でられ、擽ったさに目を細める。ゆっくりと顔を上げてみると、夕雄は酷く優しく微笑んでいて、再度顔を赤らめた。


「頑張ってこい」


 夕雄に肩を叩かれ、斗真は頬をパチンッと両手で叩いて気合を入れる。

 地方へと出向いている桜華衆の公演"オペラ座の怪人"の千秋楽が、これから始まるのだ。怪人を演じる斗真は黒を基調としたゴシックな衣装に身を包み、片手に提げていた仮面を目許に当てて後頭部まで回した紐で固定した。

 少しだけ狭まった視界を動かして、斗真は隣に立つ夕雄を見上げる。


「―行ってきます」


 はっきりと告げると、夕雄と自分との間に流れていた甘ったるい空気が霧散するのを感じ取る。それに僅かに安堵してから、斗真は振り返らずに舞台へと足を向けた。



 一ノ瀬斗真、十八歳。高校卒業まであと半年。




 劇団に入った当初、斗真は夕雄が嫌いだった。

 万人の目を惹くような美形だけど目付きは鋭いし、元ヤンという噂があったし、無口だし、無駄にでかいし。それと、もう一つ。

 『本当の自分を見透かしていたから』、嫌いだった。


 誰とでもそつなく付き合えて、皆の人気者で愛される、いつも笑顔の一ノ瀬斗真。

 でも夕雄は気付いていた。その『明るくて優しい一ノ瀬斗真』が演技の末に出来上がった偽装した表面だと。


 歳上だらけの中で過ごすうちに、どんな風に振る舞えば愛されるのかを覚えて無意識のうちに実践している斗真に気付いていた。誰も気付かなかった…、斗真自身ですら気付かなかった『弱くて泣き虫で狡い一ノ瀬斗真』が夕雄には見えていた。

 それが怖くて、いつ皆にバラされるのかと怯えて、やけに突っ掛かって、喧嘩をして。でもいつの間にか、夕雄を一番信頼していた。

 表では満面の笑みで無邪気に振る舞っていても、裏では今にも泣いてしまいたい時に、夕雄は黙って隣に居てくれる。それが凄く安心した。

 不安定な斗真の内面を支えてくれたのは、いつも夕雄だった。



 ─あの日。夕雄が酒に酔った勢いだったのか、そうでないのか今では思い出せないけれど、唇を交わした。

 それから本当にふとした瞬間、触れ合うだけのキスを重ねる様になった。いつも胸が苦しくて痛い程に高鳴って、真っ赤になって。それでいて妙に、ホッとした。

 そうさせるのが恋愛感情なのかは解らない。夕雄も、自分も、ただの気紛れだとか、気の迷いなのかも知れない。

 …そう思うと、ギュッと胸が締め付けられることには気付かないフリをした。



「……斗真くん?」


 柔らかな高い声で名を呼ばれ、ハッとして我に返った。自分の顔を覗き込んでいた、ヒロイン役を演じる和歌那に慌てて貼り付けた微笑を返す。


「はい?」


「どうしたの?ボーッとして…疲れた?」


 問うてくる和歌那に首を横に振った。

 好評の内に幕を閉じた千秋楽の打ち上げ会場に向かう途中だった。地方に出向いていた為、ホテルで一泊してから帰ることになっている。今夜は打ち上げも盛り上がるのだろう。自分と和歌那をホテルへと誘導するスタッフ達の浮き足立った楽しげな声に、何とはなしにそう思った。


「ちょっと楽屋ではしゃぎ過ぎたのかもしれないです。もう気が抜けちゃって」


 苦笑して言うと、和歌那はフフッと愛らしく笑んだ。


「打ち上げの最中に寝ちゃったりしてね」


 和歌那に笑みを返してから、彼女と並んだままホテルのロビーに入った。





「乾杯ーっ!」


 ホテルの広間を貸し切っての打ち上げは、副座長の高嶺の音頭で始まった。

 演者、照明、音響…関わった全てのスタッフ総勢百数名に和歌那と共に労いの御酌をして回っていた斗真は、席に戻ると同時に音響リーダーの品本と大道具スタッフの傘村に囲まれた。


「斗真、お疲れ!最高だったよ!」


「ほら、乾杯乾杯!」


 グイグイと押し付けられた日本酒の瓶を受け取ってから、斗真は苦笑した。品本と傘村は大の酒好きで下戸だ。未成年の斗真にすら飲ませようとするから、気をつけていないと。

 日本酒の瓶をテーブルに置いてからオレンジジュースのグラスを持ってカチンと音を鳴らして乾杯し、一口だけ飲む。その両隣で品本と傘村は、既に二杯目へと突入していた。


「斗真は主役なんだし、今日は無礼講だろう?」


「え?」


「ほれ、一杯!」


 それはほんの一瞬の出来事。傘村が煽っていた日本酒の入ったグラスが斗真の口に触れたと気付いた瞬間に、一気に口に流し込まれた大量の日本酒に思い切り噎せてしまう。

 突然のことだったからか、あっという間に全身にアルコールが回るのを感じれば、くらり、と左右に揺れた視界に片手で目を押さえた。

 近くに居た和歌那が慌てて差し出してきた水を流し込んでみても、腹から膨れていく熱さが留まる様子は無い。


「ちょっと、品本さん、傘村さん!斗真くん、未成年なんですよ?!」


 目を押さえたままの斗真に不安げに瞳を揺らしていた和歌那が眉を吊り上げて注意しているが、三杯目を飲み干した品本はヘイヘイと適当に聞き流し、彼女は困った顔でこちらを見た。


「斗真くん、釣られちゃだめよ?」


 いつもマイペースで穏やかな彼女らしくない、不安を押し出した声に、彼女を追い付かせる様に微笑だけを返した。

 ……残念ながらもう、釣られてしまったかもしれない、と思いながら。







*******************




 打ち上げが始まってから一時間が過ぎた頃。


 夕雄はふと、自分からは遠い席に座っている筈の斗真の声が全く聞こえないことに気付いて周りを見渡した。

 いつもなら彼の周りは明るい笑い声で満ちていて、彼の屈託無い明るい笑みが見えるのだが。


 見れば、斗真が居るテーブルでは完全に出来上がってしまった品本と傘村が何やら楽しげに騒いでいる。それを、最早どうしようも出来ずに見つめている和歌那。そして和歌那に心配そうに肩を叩かれているのは。


「…?!」


 テーブルにぐったりと突っ伏していたのは斗真だった。

 瞬時に『潰されたな』と理解して席を立つと、隣に座っていた副座長の高嶺も事態に気付いて口を開く。


「夕雄。斗真の部屋、二○六号室」


 わかったと頷き、一際騒がしいテーブルへと向かった。





「梨谷くん……」


 問題の席まで行けば、そこには空になった多種多様な酒の瓶が置かれ、目眩も引き起こしそうな程にアルコール臭が漂っていた。そんな中で、和歌那が困った様に夕雄を見上げてくる。

 和歌那に軽く目配せしてから斗真の体を起こしてやると、ガクンッと体が大きく揺れた。完全にアルコールが回ってしまっている斗真の顔や首やらはほんのりと紅く火照って、照明の明るさに堪えられないのかギュッと固く目を伏せていた。


「斗真、部屋に戻るぞ」


 体を支えたまま言うと、一度震えてからうっすらと開いた瞳は紅く潤んでしまっていた。ゆるゆると動いた瞳で夕雄の姿を捕らえた斗真は、甘える様に夕雄の腕に頬を擦り寄せてくる。

 母親に全幅の信頼を寄せる子猫の様な可愛らしい斗真のその仕草に、品本が目を丸めた。


「さすがに『桜花衆のお姫様』は可愛いね。酔わせた甲斐があるよ!」


 グラスに並々と注いだ日本酒を揺らしながらひゃひゃひゃと下品なまでに甲高い声で笑った品本が、不意にその口を閉じた。

 品本に同意しながら斗真の紅い頬を見てにやけていた傘村も同様に、ごくりと息を飲んでから笑みに歪んでいた口を固く一文字に変える。


 彼等の視線の先では、あから様な怒気を含んだ夕雄が鋭く細めた瞳で睨んでいたからだ。

 決して口には出していないものの「殴るぞ、てめぇ」とでも言いそうな鋭利な視線に、品本のみならずその場に居た全員が凍り付いている。

 ほぼ真下から夕雄を見上げていた和歌那は、斗真のシャツの袖を掴んだまま硬直していた。

 確かに口は悪く目付きも良くない夕雄だが、劇団の仲間達には温厚だ。

 普段、怒ることはおろか声を荒げることすら無かった夕雄が見せた憤怒の表情は、その場を凍らせるには充分過ぎるものだった。

 不意に品本と傘村から視線を外してふわりと軽い動きで斗真を横抱きにした夕雄は、そのまま背を向けた。

 まだ呆然と見上げたままの和歌那に夕雄が一言呟けば、ハッと我に返った彼女は壊れた人形の様にかくかくと頷く。

 夕雄は刺さるような視線も気にせずに、斗真を抱き抱えたまま広間の出口へと向かった。

 その姿が廊下へと消える直前、未だ鋭いままの夕雄の視線が一度だけ品本と傘村に向けられれば、彼らは慌てて視線をそらす様に俯く。

 夕雄が去った後も暫く呆っとしていた劇団員達は、ハッと我に返った様に唐突に賑やかさを取り戻す。すっかり酔いが醒めたらしい品本と傘村は、ちびちびと料理を摘まんで黙り込んだ。

 ヤレヤレと胸を撫で下ろした和歌那は、同じ様な表情をしていた高嶺と目が合い顔を見合わせて笑った。






 明かりの無い二○六号室のベッドに斗真を横たわらせて、ベッドサイドにある控えめな薄オレンジ色のライトを点けた。すると、すがる様な弱い力でシャツの袖を掴まれる。


「……夕雄さん…」


 呂律の回っていない斗真は、トロンと熱っぽい瞳で見つめてくる。普段は劇団員らしくハキハキとした滑舌なのに対して、舌足らずに夕雄を呼ぶのは、形容し難い色気を含ませていた。

 斗真の目に掛かった細い髪を撫でてやると、その手を掴んで頬を擦り寄せてくる。


「…斗真…?」


 僅かに戸惑った声で呼んでベッドの端に座ると、斗真はビクリと体を震わせ、それからソロソロと両手を伸ばしてくる。体を起こし、躊躇いながらも両腕を夕雄の腰に回した。

 最初は遠慮がちだったそれは、不意にギュッと強く抱き締めてくる。

 夕雄の固い胸に顔を埋めたままどこか不安そうに見上げてきた斗真に、目を奪われていた。


「…俺は…わからないんです…」


 掠れた声で斗真は呟く。


「…夕雄さんとキスすると凄くホッとして、ずっと一緒にいたいって思うけれど…、"それ"は、変なんですよね…?

俺も夕雄さんも男で…、キスだって、ただの…、気紛れで…」


 腰に回された手が震えていた。


「…気紛れだってわかっているのに…"これ"は間違ってるってわかってるのに……」






 溺れていく。

 この、得体の知れない熱くて醜い感情にどんどん沈んでいく。

 ボンヤリとした頭で斗真は思う。


 これはいつか終わる夢だ。いつか、夕雄に飽きられて終わる夢だ。

 だから、この感情は気付かないフリをしなければいけなかったのに。

 そうすれば何も、今までと変わらなかったはずだった。傷付くことも無かった。





「─…苦しい」


 目に涙が溜まった。

 今泣くのは、反則だ。相手を困らせて同情を請うだけの卑怯な仕草だ。だから、涙は堪える。

 でも声は掠れきってみっともなかった。


「─夕雄さん、もう、キス、しちゃだめです」


 そうしてくれないと、俺は。もう、"今まで"には戻れなくなる。


「─…もう、気紛れは…終わりです」


 そうして、くれないと…






 噛み付く様なキスだった。


 ベッドに押し倒されて、深く深く唇を合わせられる。息が出来ずに開いた口に夕雄の舌が捩じ込まれ、そのまま口内を蹂躙されていく。

 夕雄の舌は上顎をなぞってから、僅かに触れただけだった斗真の舌を素早く絡め取ってから喉奥まで舌を這わせた。

 斗真が逃げる様に首を振れば、頭の横についていた夕雄の両手で頬を押さえつけられてしまう。

 動きを制されて体を緊張で固める斗真に構いもせず、夕雄は斗真の舌に自身の舌先をもう一度絡めてから口付けた。

 いつもの触れるだけのキスではない、酷く乱暴なもの。


「─はぁっ…」


 ようやく解放された口で大きく息を吸い込む。驚きで零れた涙が頬を伝った。

 覆い被さっている夕雄を恐る恐る見上げてから、驚きで目を見開く。

 夕雄は酷く苦しそうに眉を寄せて、ジッと斗真を見つめていた。その真摯なまでの瞳に目が逸らせなくなる。


「…何が気紛れだよ…」


 夕雄の声は低く、沸々とした怒りが感じ取られた。斗真はこくりと息を飲む。


「俺が気紛れでしてたって思ってんのかよ…」


「夕雄さん…?」


「言えよ」


 斗真の手首を押さえる夕雄の力が強まり、痛みに顔をしかめて、それでも彼から目を逸らす事は出来なかった。


「やめないとどうなるのか言えよ」


 強く、低く、夕雄が問う。


 あぁ、もう。


 だから、駄目なのに…



「─好きです…」


 本当はずっと前から気付いていた。この気持ちの名前や意味も。キスされる前から、ずっと。


「─夕雄さんが好きです」


 もう、涙は止まらなかった。





 抱き締められて、何度も角度を変えて唇を塞がれる。

 止まらない嗚咽と乱れた息を整えられない苦しさに堪えきれず、夕雄の背に手を回してしがみつく。

 上顎を舌でなぞられると背筋がゾクリと粟立ち、強く夕雄のシャツを掴んで爪を立てた。


「…ゆう、さん……」


 強すぎる刺激に切れ切れの息で呼ぶと、夕雄の切れ長な茶の瞳が見つめてくる。


「―好きだ」


 低く、しかしハッキリと囁かれた言葉に耳を疑って、涙に濡れた目を見開いた。

 サラサラと夕雄が髪を撫で、そして斗真の頬を伝う涙を指で拭う。


「好きだ」


 もう一度。抱き締められて、耳許で。


「…夕雄さん…?」


 止まらない涙を、潤んで歪んだ視界に映る夕雄は優しく微笑んで拭ってくれる。


「好きだよ、斗真」


 ああ、この人は……

 どうして、いつも俺の事を見透かすのかな…


「―好きです、ずっと…ずっと好きでした…」


 震えて上手く紡げない声で告げると、今度は優しい触れるだけのいつものキスが降りてくる。

 それに安心すると、長い吐息がどちらともなく漏れていった。


「これは…夢、ですか…?」


 いつか、覚める夢ですか?


 夕雄はゆっくりと首を横に振って、頬を温かな手で包み込んでくれる。


「夢じゃないよ、斗真」


 一筋伝い落ちていった涙に、斗真はゆっくりと瞳を閉じた。



─不安だと、涙が出る。

─怖いと、涙が出る。

─嬉しいと、涙が出る。

─幸せだと、涙が出る。


─愛しいと、涙が出る。


 こんなに泣き虫な自分も、こんなに怖くなるくらいの気持ちも、まだ知りたくはなかったです。

 受け止め方が解らなくて、戸惑ってばかりで、上手く伝えられているのかも解らないけれど、でも……







 ずしりとした瞼をようやく持ち上げれば、明るい陽が閉められたカーテンの隙間から射し込んでいた。

 気だるい体を動かして、ベッドサイドにある携帯電話で時間を確認すると、朝の六時を過ぎた頃だった。

 斗真はゆっくりとベッドから身体を起こす。

 ─頭が痛い……

 ずん、といつもの数倍も重い頭を片手で押さえて部屋を見渡した。シン、と静まり返る室内には斗真以外は誰も居ない。

 ふと、携帯電話が淡い発光を繰り返し、メールが届いていることを知らせているのに気付いて、メールボックスを開いた。

 午前四時二十分。夕雄からのメールだった。


 たった、一文。『夢じゃないからな』。


 カァッと顔が熱くなるのを感じた。

 泣きながら告白したことも、唇が痛む程にキスを繰返したことも、全て夢で留まらせていようと思っていたのに。

 なんで、そんなとこまで見透かしてしまうんですか。

 そんな風に先手を打たれてしまえば、使おうと思っていた手も封じられてしまう。「酔っ払っちゃってて記憶がありません」とか、「酔っ払いの戯言です、気にしないでください」とか、諸々。


 突如部屋の中に鳴り響いたモーニングコールにビクリと身体を揺らし、斗真は我に返る。


 まず…冷たい水を飲もう。そして、熱い湯でシャワーを浴びよう。

 それから…


 今日は一番最初に、夕雄さんに会いに行こう。

 きっと、いつもみたいに優しく笑ってくれる。

 そうしたらようやく実感出来ると思う。

 夢じゃないんだ、と。



 どれだけ演技に没頭しても、この気持ちだけは偽って演じ隠すことは出来なかった。

 まだまだ自分は未熟だなぁ、と苦笑してみれば、ようやく鬱屈したものが落ちて軽くなった様に思える。

 鏡に映った自分の顔が酷く腫れぼったくて、思わず笑ってしまった。



─Dear Acter

 今あなたにもう一度伝えに行くので、どうか笑わないで聞いてください。




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