世界の雌伏
[Jan-13.Fri/21:00]
顎を打ち上げられた魔眼使子の動きが止まる。ほんの一瞬だったが、俺にはそれだけで充分。
魔眼使子の髪を掴み、頭を下げさせると同時に顔めがけて左の膝を打つ。
両手を揃えて持った条蘭虎でガードした魔眼使子は、身を捻ってリンボーダンスの様に上を向いた状態で屈むと、左の肘打ちを振るってきた。無茶な体勢からの一撃だったので速度はなく、俺は左にステップする事で難なく避け、勢いを殺さないまま蹴りを放つ。魔眼使子の後頭部を穿つ。
「ぐ、がっ……」
呻きながら、その場に背中から崩れ落ちる魔眼使子。背中のバネを使って立ち上がると、俺に振り返る。
お互いの距離は、たった二メートル程度。一気に飛び込める位置だ。
「くっ、油断したか……」
「油断ン?アホぬかせ」
俺は魔眼使子を見据え、嗤う。先程の様に自然に浮かべた嗤いではなく、相手の心理を逆撫でする挑発の意味合いを持つ嗤い。
「その包みが使えん近距離まで接近すれば俺の方が強い。ただそれだけやで」
格闘技の世界において、間合いはとても重要な意味を持つ。特に上級者ともなれば、『相手を殴る』という概念がなくなるのだ。
間合いの占領。上級者が拳を振るうのは『相手を殴る』為ではなく、その空間を奪う、つまり相手の『間合いを占領』するという一段階上の概念が生まれる。ここに到達するまでには苦難の修行を修めなければならないが、俺には元々その素質があったのか、若くしてそこに到った。
スミレやカナタはまだこの概念に到っていない。普通の人間が到達するには多くの年月がかかるものだ。一方で、俺やミサトの様に素質と才能を生まれ持った者は、修練はともかく人から学ぶ事の無意味さを自ら悟る。
格闘技――武術の伝承は模範から始まる。しかし、やがては自分に合った型を模索するものだ。そうした結果があらゆる流派を生み出した訳で、俺やミサトは陸自で教わった空手・柔道・剣道の特徴を元に、独自で開発した我流武術を研究してきた。カナタやスミレがそこに到るのは、もう少し先の話だろう。
閑話休題。
そして間合いとは、自らの領域。自分の手足が届く間合いを『本間』、一足で飛び込める間合いを『総間』と呼ぶ。
だが、武器を持つ者は当然、リーチが長い。つまり、『本間』が広い。だが『本間』が広ければその分、隙が大きくなる事を意味する。縄張りを広げすぎたヤクザや暴走族が、その全域まで目が届かなくなる様に。
武器を持たない者が武器を持つ者に挑む時、必要なのは離れない事だ。ピッタリと頭がくっつくぐらいの近距離戦にまで持っていければ、武器は使えない。逆に武器を持つ場合は、必ず離れる事が必要になってくる。
だからこそ、今、俺は「しまったなぁ」と思う。何故なら、俺と魔眼使子の距離は二メートル。お互いに『総間』を侵されている訳だが、如何せん魔眼使子には武器がある。繰り返し言うが、『本間』は武器を持つ方が広い。
つまり、何が言いたいかと言うと、カッコつけてる暇があったら、どうして間合いを詰めなかったんだよ自分!という事で……つまりそういう事だ。
(油断していたのは俺でした、という罠。……どないしょ)
元々が圧倒的不利な上に、油断。救いようがない、この言葉は今まさに俺に当てはまる言葉だ。
(でも、ま。攻略法は何となくやけど読めたわ。まずは初撃を見極めて避ける事に集中、連続する二撃三撃はなるべく奴の本間に潜り込む事で打点をズラして衝撃を殺す。その次は体術でくるやろうからそれにカウンター合わせてこっちのラッシュ浴びせれば、少しは効くやろ)
身構え、俺は自らの本間を再確認し、呼吸を練って気を整える。ここで言う『気』とは、マンガなどによく使われる『氣』ではない。気迫や気合を意味する。
呼吸を整えると、次第に双方の間合いが視えてきた。総間は足下を中心に円を描く二次元的な感覚で、本間は重心を中心に球を描く三次元的な感覚。別に、これらが形として見えている訳じゃない。第六感にも似た、本当に感覚的で概念的なものだ。視えるというよりは感じると言った方が的確かも知れない。
流石に、条蘭虎を持つ魔眼使子の本間は広い。俺の総間すらも僅か数センチ程度だが、侵されている。踏み込むには度胸が必要だ。
魔眼使子を見据えたまま、俺は大きく息を吸い、吐き出し、今度は小さく吸い、
右足一本で跳躍。魔眼使子の懐に一気に飛び込む。
さっき魔眼使子は縮地法がどうとか言っていたが、恐らく流派的な考えなのだろう。この跳躍方法はボクシングでは『ジャックナイフ』と呼ばれる手法……もとい足法だ。
条蘭虎の先端が、俺の額めがけて空気を裂く。まずは右手でこれを軽く弾き、軌道を僅かにズラす。突きというのは直線的な動きなので、方向軸をちょっとズラすだけで簡単に外れる。わざわざ大きくよける必要はない。尤も、この行動を出来る程度になるまでには血の滲む努力が必要な訳だが。まさに文字通り。
俺の本間は、まだ微妙に魔眼使子に届いていない。初撃をかわす事が目的だったので、あまり深く潜り込めなかったのだ。一方の魔眼使子の本間は、俺に侵されている。つまり、こちらの攻撃は届かず、向こうの攻撃は届くという事だ。
バックステップを取りながら、魔眼使子は条蘭虎を袈裟に振るう。だが俺は食い下がり、前に出した左足でフロントステップ。打撃点のズレた一撃を俺は右肩で受け止める。ボクシングの世界では『ショルダーブロック』という防御方法がある。ここから分かる通り、肩は堅いのでダメージはさほどない。
ギュ、ザシュッ。
魔眼使子は着地とほぼ同時に膝を曲げて屈み、内股の状態で左のサイドステップ。膝のバネを利用した移動法で、飛んだ状態で真上からの一刀両断。
右に飛ぶかとヤマを賭けていたので、僅かに反応が遅れた。俺は魔眼使子に飛びつく様にステップを踏みながら、一瞬で逡巡する。打点をズラせない、喰らったらモロだ。それでも無理に受けるか、避けるか。本当に一瞬。刹那と言ってもいい。逡巡する。
俺は、空中で体位を変え、地面に倒れて条蘭虎の一撃を避けた。勢いを殺す事なく前転して地面との衝突のダメージを殺し、立ち上がると同時に左フック。ロシアンフックというボクシングの技で、軌道の大きな一撃。動作が大きい分、相手の死角から拳が飛来する訳で、避けにくいのだ。
だが、垂直斬りの勢いに身を任せ、魔眼使子はこれをかわした。チッ、と俺は舌打ちし、左足を右に大きく踏み込み、右の踵を大きく振って後ろ回し蹴りを放つ。が、魔眼使子は肘を使って防御し、条蘭虎を俺に投げつけてきた。ダメージを与える様な速度ではなく、放り投げる感じで。
思わず俺は、ドッジボールを受け止める様に両手でそれを取ってしまった。過剰反応してしまい、しまったと思った頃には、槍の様に鋭い蹴りが俺の顔面を貫いた。仰け反る様に俺は背後に吹き飛ぶ。
(アカンな……やっぱコイツ、強い……)
背中からアスファルトに倒れ、俺は混濁する意識の中、魔眼使子が、右目を隠した前髪をクシャリと握る光景を確かに見た。そのまま、円陣を組む野次馬に紛れて傍観していたマリアに向き直る。
「さて。邪魔者は排除した。俺と一緒に来てもらおうか、水陸歌姫」
スッ。魔眼使子はマリアに向けて手を差し出し、
突如として、その手が震え始めた。
「グ。あ、ガッ。ギィ、ぁ、あ ぁあ アァアあ!ああ あぁァアああ アァ あアアァあァァァ!!」
両手で右目を押さえ、非道く苦しみだした。
「な、何や、一体……」
痛みに軋む身体を無理に動かし、上体を起こして魔眼使子を見る。まるで激痛に耐えるかの様に、叫び続けている。
「ひぃギャアアあぁ!ぎぎ、ギぎャあガァアアアアアアアアア!!」
聞くに堪えない、断末魔。裂けんばかりに口を広げ、晒け出した左目を皿の様に開き、唾液を撒き散らしながら。魔眼使子の絶叫が街に轟く。
「ぐが、がかガァ!ぢぐ、じょ、ヴ、くそッグぞゥッ!痛ェ、痛ェ、痛ェんだよクソがぁ!!」
痛みを紛らわす様にヘッドバンキングよろしく頭を振るい、両手を振り回す。ギリギチギリギリと歯を食いしばる音が、垂れ流れる唾液と共に吐き出される。
「ふ、グゥ……ッ、ガァア!畜生が!」
魔眼使子は俺めがけて走り出し、俺の腹部を爪先で一蹴し、条蘭虎を奪う様に取り上げ、魔眼使子は犬歯を剥き出しに吼える。
「右目が痛みだした!クソッ、今日のところは一旦引く!」
それだけ告げると、魔眼使子は野次馬をかき分けて抜け、去って行った。
「……何やったんねん、一体」
俺の言葉は、次の瞬間に巻き起こった、野次馬の歓声にかき消された。
[Jan-13.Fri/21:15]
「アッ痛つつつつ!」
「あらあら。結構腫れてますわね」
近くの公園の水飲み場でハンカチを濡らし、俺の顔の怪我を冷やしているのは、マリア。
「あ〜、よくもまぁ、俺をここまでボコボコにしやがったなぁ。次会うたら、キッチリ二〇〇倍に返したらなアカンわ」
ぼやきながら、俺は辺りを見渡す。
何事かあったのか、この広い私立公園の一部の雑木林は、殆どが切り株と化していた。更にランニングコースである舗装されていない道には幾数もの鎌鼬が起こった様な亀裂が見える。街灯も他の場所と比べて新品になっている。
一体、ここで何があったのか。どんな力を以てすればこんな事になるのか。全く分からないし、想像もつかない。
(特別な機械を使うか、それとも魔法でも使わん限りはこんなん無理やろ……)
公園の損害額はどのくらいなのかなと俺が考え始めてると、マリアがもう一度、濡れたハンカチで俺の顔を拭いてきた。とてつもなく痛い。
「おわッたったっ痛つつ!」
「……本当に、申し訳ありませんでした」
俺の悲鳴と同時に、マリアがボソリと呟いた。その意味が分からず、俺は首を傾げる。
「何の話やねん?」
真義を探るべく俺は訊ねる。すると、マリアは本当に心底から申し訳なさそうに頭を擡げた。
「私の為に、無益な戦いをさせて仕舞い、本当に申し訳ありません。介護して頂き、なおかつ魔眼使子から守ってもらって、どうお礼を言えばいいものか……」
俯いたまま、マリアはハンカチを握りしめる。ようやく意味を理解したが、マリアの深刻っぷりを無視して俺は言う。
「何言うとんねん。気にしてへんっちゅうに」
笑い、頬を掻きながら、出来るだけ優しい響きを持たせて呟く。感情が凍結した俺には、普通の人が何気なくする行為でさえ、頭で考えなくてはいけない。
マリアは立ち上がる。力が入っていない様に、フラついている。
「……どうして、私を助けて下さったのですか?」
「理由はない。動機もない。……せやけど、」
俺はマリアを見上げ、謳う。
「ピンチの女の子がいたら、助けるのが当然やろ」
そして、笑う。相手を安心させる為に、今の自分の演技の限界まで笑ってみせる。
「さて。そろそろデパート戻ろか。買わなアカンもんもあるし、腹も減ったしな」
オーバーに腹を両手で押さえ、俺はベンチから腰を上げる。マリアは放心した様に惚けていたので、ペチンと額を叩いてみる。いい音がした。そして気が付いた。
同時に、マリアがガシッと俺の両手を掴んできて、驚く。
「……ユーサク様」
碧色の双眸を輝かせ、呟く。ゴクッと息を呑む俺。
「な、何や?」
「結婚して下さい」
…………なんか。とんでもない事を真顔で言ってきやがった。
[Jan-13.Fri/21:15]
「なるほど」
「なかなか」
つい先程まで、竹刀袋の男と素手の少年が喧嘩していた野次馬の中から出てきたのは、二人の人。
紫に染められたショートヘアの二人は、同じ顔。背丈もミリ単位で見分けがつかず、着ている服も同じ。
まるで。精巧な人形が歩いている様に思える二人は、交互に語る。
「何者かは知らないが」
「戦力にはなりそうだ」
「特に刀使いの方は」
「飛び抜けてつよい」
「私達の目的、旧約世界の再生の為に」
「私達の組織、神ノ粛正ヲ下ス使徒の」
「「偉大なる壮挙の為に」」
そう語る二人は、まさに入力された人形の如し。まるで互いに言わんとする事が分かる様に、ピッタリと隙間なく合っている。
たったそれだけを呟くと、二人は人混みに紛れて仕舞った。
あるいは、
本当に人形だったのかも知れない。