世界の終幕
[Jan-14.Sut/19:00]
《《ゴスッ》》と言うコミカルな音が、誰もいない、音の死んだ公園にステレオで響く。
それは、俺が魔眼使子を殴った音であり、魔眼使子が俺を殴った音でもあった。
ただし、左手は握手をしたままだ。
――そう。俺達は、左手で握手をしていた【左手握手は喧嘩の証】。
「こんのッ!お前は行動がいちいち遅いんだよ!実質上、俺が殆ど一人で戦ってたじゃねぇかよ!」
「うっさいキモ根暗!俺のPDWの方がダメージでかいに決まてるやろ!第一刀なんて古くさすぎや!テメェはどこの流浪人だ!?」
「それは著作権的に待て!危なすぎる禁止ワードだ!」
「さっき俺が止めへんかったらお前も言ってたやろうが!その禁止ワードを!」
叫び罵り合いながらも、俺達は殴り続ける。左手握手のまま、武器は右の拳オンリー。男だけの聖戦たるワン・ハンド・シェイク・デスマッチである。
そもそも、喧嘩に武器を持ち込む事が間違っているのだ。まぁ若気の至りと言うべきか。男なら拳で語れって話だ。
《ゴシャベキガスグシャメキャゴキズガッ》!やたらと鈍い音だけが響きまくる。かなり異様だ。
勝負は、もはや決した。ワン・ハンド・シェイク・デスマッチではストレートパンチに体重を乗せる事が出来ないので、何より勝敗を分けるのは腕力となる。俺の腕力と魔眼使子の腕力では俺の方が上で、いかに体術が魔眼使子の方が優れていようと、俺の勝ちは明白だ。
「ぐはぁっ!」
と、何だかやたら格好いいセリフと共に血を吐きながら、魔眼使子が仰向けに倒れた。完全無欠に俺の勝利。
「くそっ……俺は、どうしても人魚の肉が必要だと言うのに……!」
「そこまでしてその魔眼ってのを殺したいんか?それは、人を殺してまで手に入れるもんなんか?」
「当然だ。……お前も俺と同じだ。分からない訳ではないだろう?」
地面に座り込んだまま、俺を見上げてくる魔眼使子。その言葉に、思わず俺は視線を逸らした。
「……気付いてたんか?」
「当然だ。あの喫茶店での一件で、気付かない方がどうかしている」
人を殺す事で『正常』を得る。そう言う点では、俺と魔眼使子は似ていた。
『異常』を持つ者として、その気持ちは痛い程よく分かる。『正常』を手に入れるすべがすぐ近くに転がっているのであれば、俺の気持ちも揺らぐかも知れない。
「……せやけど、それでも、」
人を殺すのは間違っている。それは何かが違う。
殺人とは『異常』だ。『正常』を手に入れる為に『異常』に手を染めると、それでは結局、ただ別の『異常』を身に背負う事になって仕舞う。それでは本末転倒だ。
「……どうして同じ状況で、こうも違う思考回路が生まれるものか?」
「年月の違いやろ。俺が『こう』なったのは、四年前から。それまでは普通の美少年やっただけや」
シン、と静まる空気。穏やかな風が、ほんの一瞬だけ身体を煽る強風に変わった……気がした。
「くっ……どいつもこいつも、人がネタ振ってんのにどうしてツッコまねぇんだよ……ッ!」
「……そう言われてもな」
どうしろってんだ……って感じの表情の魔眼使子。どうも感情の起伏のレスポンスがない。
だが、それは逆に、どんな少年時代を送ってきたかを想像させやすくしている。
異常な眼『黒色霊視』を持つ、魔眼使子。その名はまさに彼を表すにふさわしい言葉だと思う。
「四年前、か……爆破テロがあった頃だな。だったらお前には分からない。俺がどれだけの苦痛を伴ってきたか」
「……魔眼使子」
「大体、人魚は人間じゃない。聖霊だ。死ねば泡になって消えるだけ。だからこそ俺は、生きた肉を喰らわなくてはいけないんだよ!気持ちが悪いのに、やらなくちゃいけないんだよ!」
犬歯を剥き出しに、魔眼使子が吼える中、ふと俺の隣にマリアが立ち、呟く。
「あの……私の肉を食べたいという件は理解しましたが……もしかして不老不死を望んでいられるのでしょうか?」
「……」
「……」
「え?この沈黙は何ですの?まるで『そういやお前いたなぁ。二話くらい出てなかったからすっかり忘れてたよ』と言わんばかりのこの空気は?」
「マリア……それかなりビンゴ」
「そう言えば……文中では『水陸歌姫』という単語を出してはいたが、目標としては紋知槍との対決になっていたからな、後半」
「うぅ……ユーサク様はともかく、貴方まで……」
「俺はそないに信用ないんか?いや、ある意味信用が深いんか?」
何か、和気藹々としたマターリ空気が流れている。それでいいのか、魔眼使子?
魔眼使子自身もその自覚はあったのか、眉をひそめ、無言のまま立ち上がる。地面に刺していた条乱虎を引き抜き、その辺に放り投げたままの鞘に納め、竹刀袋に入れた。
「……とにかく。勝負形式はさておき、俺の負けは負けだ。水陸歌姫の肉は諦め、この魔眼を殺す他の方法を探す事にする」
苦虫を噛み潰した様な表情のまま、俺とマリアに背を向け、その場を立ち去ろうとする魔眼使子を、引き留めたのは他ならぬマリアだった。
「待って下さいませ、魔眼使子さん」
ジャリ、と足音を立て、魔眼使子が立ち止まった。
「……今更、俺に用はないだろう?謝罪か?悪いが、謝罪をする気はない。聖魔が生命を狙われるのは仕方のない事だという事が分からない訳ではないだろう?」
「いえ、そうではなく……先程から魔眼がどうこう言われてますが、どういう意味ですの?」
――何か。ちょっとした、しかしとてつもない違和感を感じた。
まるで、歯車が噛み合っていないオルゴールの様な、カラクリ人形の様な。些細で、致命的な違和感を。
「どういう意味、って……貴様は淡水人魚と海水人魚のハーフなのだろう?」
「あ、ハイ。それは間違いありません。青の属性を持つ『水』なら淡水でも海水でも変態する事が出来ますから」
「……淡海半身の生き肉は『あらゆる魔の殺傷』なのだろう?ならば俺の『黒色霊視』の消去も可能な筈だ」
「……えっと。何の話かは存じませんが、ハーフにそのような能力はありませんよ?」
……あぁ。
違和感の正体が分かった。理解した。そういう事か。
一方の魔眼使子は、苦虫を噛み潰したら甘かった、みたいな微妙な表情のまま凍り付いた。微動だにしない。
「淡水魚と海水魚は、血中ヘモグロビン濃度が大幅に違います。
例えば、淡水魚は周囲の水と比べて血中塩分が高い為に、外から水分を取り込んでいます。故に血中ヘモグロビン濃度は低い。水分が多くなるからです。
一方で海水魚は血中塩分濃度が高い。浸透率により水分が外に放出される。そういった性質上、血中ヘモグロビン濃度が高くなります。
ですから、淡水人魚と海水人魚では、血の濃さが違うんですよ。ハーフはどちらかと言えば、海水人魚に近くなります。私の肉を食べる事で起こり得る特性としては結局のところ、不老不死のままなのですよ」
「なっ……」
「もっとも、それまでの血統によっては変わるでしょうが、少なくとも私は父が海水人魚、母が淡水人魚というだけです。肉を食べても、恐らくは不老不死になるだけでしょう。試した事は御座いませんが」
信じきっていた自分の考えが否定され、魔眼使子はよろめきながらマリアの肩に両手で掴みかかった。《ジャカッ》と反射的に、俺はPDWを拾い上げて魔眼使子のこめかみに押し当てる。
「……それは、」
呆然と呟くが、しかし二の句を告ぐ事はなかった。今の話は、それほどまでに精神的なダメージが大きかったらしい。
噂は所詮、噂だったというだけの話だ。誰が悪い訳でもなく、そこを理解した俺には、魔眼使子を責める事は出来ない。
「……ま、殺してまうよか先に気付けてよかったんとちゃう?」
PDWをコートの内側、背中に当たる場所に革を縫い合わせて作ったホルスターに仕舞う。これをすると背中がゴツゴツして痛いので普段はあまりやらないのだが、今は致し方ない。これがなければ俺は死んでただろうし。
「で、お前はこれからどないするつもりなんや?もう別の人魚を捜せば済む問題でもないで?」
苦々しく顔を歪めた魔眼使子は、マリアから身を離し、条乱虎の入った竹刀袋を肩にかけて背中を向けた。
「……世界中には、俺も知らない様な魔術が腐る程ある。そこに、この魔眼を殺す魔術もあるかも知れない。まずはそれを探し出すさ」
「負け惜しみ臭いセリフやけど……ま、頑張るとええ」
ゆっくりと闇に消えていく魔眼使子の背中を俺が眺めていると、再びマリアが呼びかけて止めた。
「あ、あの……もしも、その魔眼を殺すすべが、魔物の削除だとすれば、……貴方はどうなさるおつもりなのでございましょうか?」
「無論、斬る」
それだけ。たったそれだけを答えた魔眼使子は、今度こそ闇に向かって歩き、やがてその姿は見えなくなった。
俺とマリアだけがその場で穏やかな風に吹かれていたが、俺はボソリと疑問な事を呟いた。
「外国に、どうやって刀を持ってく気だアイツ……?」
だってそうじゃん?
[Jan-14.Sut/19:15]
カチャキ、カチャキ……。
刀の鍔鳴りが非道くうるさい。もしかしたら目貫と目釘が噛み合っていないのかも知れない。かなり無茶な戦い方をしたせいで、刀に負担がかかった事に、魔眼使子は申し訳ない思いに苛まされる。
そういえば、と不意に思い返す。
(慈愛天使と残虐天使は、いったいどこに……?)
紋知槍や水陸歌姫が来てからはどこかに身を潜め、管狐を繰り出してきたにも拘わらず、その後の攻めがない。まさか諦めた訳でもないだろう。
(……あまり、この『眼』を使うのは好きじゃないんだがな)
舌打ちしながら、魔眼使子は左眼を開き、右眼を閉じる。薄暗闇だった宵道が、暗闇になる。左の黒色霊視には光を取り込む機能がないので、当然なのだが。
(魔眼、発動)
暗闇の世界に、幾筋もの光の束が浮かび、風に流されている光景が疑似的に視覚化される。それは決して物理的な何かではなく、イメージの産物に過ぎない。
それは、地脈からにじみ出る大気に残留している『魔力』だ。
またそれは有名な祝詞『延喜式』では『たかあまはら』と書かれている。
古事記にも登場していて、学問的解釈では『高天原』とされる事があるが、魔術的な記号として『タカア・タアマ・カアマ・ハラ』の四語を合成した言葉と解される。タカアは中央より外方へ向かう魔力、タアマは外方から中央へ向かう魔力、カアマは滞留し残留する魔力、ハラは滞留し旋回する魔力とされていた。これらも地脈から昇る魔力とされている。
魔術とは外界から取り込んだ魔力を体内で使いやすい用に精製し、魔術として外に放出するものだ。この辺りは石油からガソリン、オクタンを消費する車の関係性に似ている。
北欧の最高神オーディンの両目はあらゆる『魔力の流れ』を視る事が出来たという。
(……流れが、狂ってる?)
まるで幾何学紋様だ、と魔眼使子は心中に吐き捨てる。大気に流れる光の帯が、ところどころが渦巻きの様にかき乱されている。魔術が使われた後によくある現象である。
「二人の天使なら、私が追い払っておきましたよ」
目の前からの突然の声。魔眼使子が目を開けてみると、見た事のある人物がすぐ目の前に立っていた。
「お前、今朝の……ッ!」
魔眼使子はバックステップを取りながら、竹刀袋を強く握り締める。しかしチドリはコートの内ポケットに手を突っ込んだまま、何事もなく呟く。
「はぁ……まったく、お互いボロボロですね」
二人はお互いの顔を見合わせた。痣だらけで、至る箇所が腫れている。
「えぇっと……ああ、ありました。これを差し上げますよ。回復用の呪符です。持ってるだけで地脈から魔力を吸い上げて身体の治癒力を高める優れ物ですよ」
チドリは片目だけで笑いかける。右眼には、いつもの眼帯。
「……お前も、魔眼持ちか?」
「えぇ。私の場合は貴方とは少し違いますけどね。『螺旋』という魔眼です」
「……」
魔眼使子は何も言わず、チドリが差し出してきた呪符を受け取る。未だに警戒してはいるが、ほんの少しだけ信用した様だ。
「それと、これも差し上げます」
コートのポケットから、予備の眼帯を取り出しながら呟く。
「『月桂樹の印章』を使用した『魔力喰らい(ウィタ・オクスィド)』の眼帯です。貴方の魔眼は、地脈の魔力を視すぎるが故に、それらを収束している。魔術的な符号では、『認識』するという事は大きな意味があるのですが、まさにその通りと言えます。ですので、収束する魔力をこれで発散するだけで、少しはマシになると思いますよ。良くて暴走が収まり、まぁ悪くても暴走の回数が減る程度ですが。神の眼を抑えるのは初めてですので、あまり自信はありませんが」
魔眼使子は眼帯を受け取り、角度を変えて見てみる。本来ならガーゼが当てがわれている箇所が、切手サイズの呪符に変わっている。しかも中には、月桂樹の葉の欠片が入れられて。
「……信用してもいいのか?」
「それは貴方の自由です。私は貴方の苦悩が理解できるからこそ協力しようと考えた。ただそれだけの話です」
言いたい事を言い終えたのか、チドリは魔眼使子の脇を抜けて通り過ぎる。
「待て!」
魔眼使子は思わず引き留めたが、チドリが立ち止まる事はない。
「……俺の名前は魔眼使子!お前は何者だ!」
「行灯陰陽。ただの陰陽師ですよ」
結局、一度も立ち止まる事なく、チドリ――行灯陰陽は宵道に溶ける様に消えた。
「……行灯陰陽」
手に持った呪符と眼帯を見つめ、魔眼使子は左眼に眼帯を装着し、行灯陰陽が消えていった方角に向かって深く頭を下げた。
こうして、
ある日の、
魔術師の戦いは幕を閉じた。