世界の分岐
[Jan-14.Sut/18:20]
『それ』は、唸り声をあげて、突如として俺らの間に滑り込む様に襲いかかってきた。
「な、なんや!?」
「こいつは……」
全長一〇メートルはあろう『それ』は、輝かしい銀の毛並みを風に仰がせた狐だ。ここまで巨大な狐……いや、生物を、俺は象か麒麟くらいしか知らない。
「あの二人……まさかこれほどまでに巨大な管狐をけしかけてくるとはな……」
「管狐?」
ズザザァ!俺と魔眼使子は同じ方向に飛んで避け、隣り合わせる様に着地しながら会話を交わす。
「あぁ。管狐……飯綱とも呼ばれる、イタチやオコジョと同じくらいの大きさの、人や家に憑くとされる妖怪だよ。尤も、コイツは憑依の力を無くした、純粋に戦力強化して育てられた様だがな。……そうか。アイツらの使う術式なら、最適な使い魔はコイツだな」
「待て!何の話や!?アイツらって誰や!?それに、どうしてお前はそんな事が分かる!?」
「解答1。アイツらってのは慈愛天使と残虐天使、天使を名乗る二人の女!解答2。そう言った魔術回路や術式を疑似的に視覚化するのが俺の『黒色霊視』の能力なんだよ!」
魔眼使子が叫ぶと同時に、俺達は左右別々に飛び込む。一拍遅れて、先刻まで俺達がいた地面に突進してきた管狐が、穿ち抉る。
「で、たらめな……!」
「足を止めるな!死ぬぞ!」
呆然と、巨大な化け物狐を眺める俺に対し、一喝してくる魔眼使子。ふと我に返った俺は、意識を管狐に集中させる。
(せや……今は他の事を考えとる場合やない。こっちに集中せなな!)
考えながら俺は走り出し、管狐の背中めがけて全自動で射撃を行う。吸い込まれる様に腰の辺りに突き刺さる、5.7mmの銃弾。
『クォォン……』
ドラムの様な重低音を轟かせて鳴く管狐は、首だけ曲げて俺を睨み付け、前足に力を入れて突進してきた。全自動でのコンバットシューティングのせいで、体勢を崩した俺に避けるすべはない。
「こっちだ化け物!」
斬!と魔眼使子が前足を袈裟に斬る。体勢を崩した管狐の背中に飛び乗り、魔眼使子はそれを踏み台にして俺めがけて跳躍してきた。
両手で握った刀は、振り上げられている。
「……なっ?」
それが俺への攻撃だと瞬時に気付いた俺は、横っ飛びに回避。《ガスンッ》と地面を斬るだけに終わった魔眼使子が「ちっ」と舌打ちする。
「足を止めるな。死ぬぞ。二回目だ」
「なっ……いきなり何してくれてんだよテメェは!?」
「何して……?お前こそ何を言っている?」
フン、と魔眼使子は一笑すると、高く高く、後ろに回転しながら五メートルは飛び上がる。同時に突っ込んでくる管狐。
「誰がお前の仲間だと言った?」
緩やかに、優雅に着地した魔眼使子が、再び疾走してくる。条乱虎を片手持ちに変え、水平に刺突する殺人技、一之太刀。
ガキィン!俺は思わず、PDWで突きを受け止めた。強化プラスチックの銃身に、剣先の数ミリが突き刺さっている。
「お前は俺の敵だろ?俺は共闘する気はさらさらない」
口を開いて白い歯を見せ、凶悪に強大に狂喜して嗤う。ザワリと風が前髪を流し、隠された右眼が覗く。
黒く黒く、ひたすらに黒に染まった、異質な眼球。中心には、皆既日食の様に、細い線が円を描いている。
ゴッ、と強い衝撃が腹部を打ちつけ、俺は後ろに吹き飛んで仰向けに倒れた。蹴られた、と気付くには少しかかった。
次に俺の視界に入ってきたのは、銀に輝く管狐の尻尾だった。狐は喧嘩の際、尻尾を相手に叩きつけるという攻撃を取る。その攻撃の先にいたのは、魔眼使子だ。
「おぐっ!」
身体をくの字に曲げ、ギュンと弾丸の様な速度で飛ばされた魔眼使子は、雑木林の木に背中を打ちつけ、ようやく停止した。メキメキとけたたましい音を立て、木がへし折れる。
(……寝てる場合じゃねぇなコリャ)
反動をつけて起き上がった俺は、振り向き様にセレクターを親指で前に押し出して全自動から半自動に切り替え、管狐の頭に向かって三発続けて発砲。PDW用の弾丸はどんぐり型ではなく、ライフル弾をそのまま小さくした様な物なので貫通力は高いのだが……流石にこのサイズの生物の頭蓋を貫く事は出来なかった。
轟!と風を唸らせて突進してくる管狐を冷静に見据え、俺は跳躍した。逃げる為に後ろではなく、避ける為に左右でもなく、戦う為に、前に。
管狐の上を跳び、俺は真下に向けて三発発砲する。銃撃戦などの銃を用いた接近戦では、最初の三発が重要とされている。
「わおっ!」
だが空中で発砲した事のない俺としては、体勢の整え方が分からない。後ろに弾かれる様に、俺は落ちていった。
空中で身動きの取れない俺に向かって、尻尾の一撃。バットで打たれた白球の様に地面に叩きつけられ、呼吸もままならない。
「ぁごぇ……」
それでも立ち止まる訳にはいかず、意志に反してバウンドする身体を無理矢理に捻り、立ち上がる。
目の前には、刀の切っ先が迫っていた。
「ンなっ!?」
とっさに首を曲げて回避する。ピッ、と首の皮が二枚、持っていかれた。
俺は軸足を曲げて屈み込み、バネの如く跳び上がりながら魔眼使子の腹部を穿った。銃口を魔眼使子に向けて引き金を引く、が、一八〇弱の巨体が虚空に掻き消えた。どうやらシュクチホウという奴らしい。
バックステップで距離を取った魔眼使子は、体重を後部の軸足に滑らかに移動させて、振り返って走り出す。その先にいるのは管狐だ。
(距離は八メートル……狙い撃ちにせぇゆうてる様なもんやで、魔眼使子!)
俺は片膝をつき、構える。巨大な管狐と魔眼使子を見据え、躊躇なく半自動で引き金を引く。
ガン、ガン!ガンッ!
三発撃ち込み、身体を奮い起こして移動。弾丸は管狐のみに命中した。
「ふん」
鼻で嗤う魔眼使子は、管狐の身体の下をスライディングする事で弾丸をかわしていた。瞬時の判断力に長けた奴は厄介だな、と俺は舌打ちする。
立ち上がり様に、振り返って管狐の腹を斬りつける。肉が厚いせいか、刀は途中で止まった。
俺は前に走る。今は管狐を挟んで向こう側に動けない魔眼使子がいる訳で、これはチャンスなのだが如何せんこちらからでは見えない。だったらどうして腹を斬りつけたとか分かるかって?そんなん神に聞け!
ザシュル、という気味の悪い音が向こう側から響き、管狐の腹から血が吹き出る。どうやら刀を引き抜いたらしい。
俺は管狐の背に飛び乗り、反対側から同じ様に飛び乗ってくる魔眼使子と目が合い、俺はPDWを、魔眼使子は条乱虎を強く握り締めた。お互い武器は振るわず、互いに殴りかかる。ゴズッ、と脳が揺さぶられる感覚。
俺達が体勢を整えていると、管狐はまるで降りろと言わんばかりに身を揺すり、俺と魔眼使子はもつれ合う様に地面に落ちた。
「……ったぁ〜」
「お前……誰を踏み台にしていると思っている!?」
「記憶喪失か?魔眼使子に決まてるやん」
「殺す!お前だけは絶対に殺す!」
取っ組み合い、殴り合う俺達だが、管狐の後ろ足での一撃で俺達の身体が吹き飛び、一回二回三回とランニングコースをバウンドする。
「……痛つつ」
「……誰を下敷きにしとる思てんねんアンタ?」
「頭打ったか?紋知槍……だったか?だろ?」
「死ね!貴様は一度死にさらせ!」
それきり、会話は途絶える。俺と魔眼使子は同時にため息を吐き、立ち上がる。
「……まぁ、あれだな」
「……あぁ、あれやな」
魔眼使子が手を差し出して来て、俺はそれを掴む。引き寄せられる様に立ち上がった俺と魔眼使子は、ゆっくりと首を動かす。
その視線の先に佇むのは、言うまでもなく管狐だ。
「……邪魔だな」
「あぁ、ウザい」
どうやら俺と魔眼使子の考えは一致したようだ。
「何はともあれ、」
チャキリ。魔眼使子は条乱虎を正眼に構える。
「まずはあれを殺しとこかぁ」
カチャリ。俺はPDWの弾倉の残弾数を確認しながら、ベルトを肩に掛ける。
「……俺は水陸歌姫を殺す」
「……俺は水陸歌姫を守る」
だったら、
「「あれはただの邪魔者[だな/やな]」」
[Jan-14.Sut/18:20]
タッタッタッタッタッ……。
「フッ!」
ガギィン!という金属音が響く。行灯陰陽の両手にはそれぞれ儀式用の装飾ナイフを握っている。
目の前には、二人の天使の姿が。フルフェイス・マスクをつけている為に顔は分からないが、仮面越しでも疲労が見て取れる。
「ゼェ、ゼェ……」
「ハッ、ハッ……」
慈愛天使と残虐天使の手には、懐刀――俗に『ドス』と呼ばれる短い日本刀――が力なく握られている。
「どうしました?まさか、もう終わりじゃないですよね?」
眼を細めて妖しく笑う行灯陰陽。クスクスと含み笑うその姿は、普段の彼女を知る者からすれば異様に映る事だろう。
「紅螺旋が、そんなにお気に召しませんか?」
「貴様ぁ!」
「愚弄する気か!」
二人は懐刀を腰だめに構えたまま行灯陰陽めがけて走り出した。不敵に笑う行灯陰陽も同時に走り出す。
ギュン、と一瞬で残虐天使の背後に回り込んだ行灯陰陽は、左足で横薙ぎに蹴りを打ち込み、その反動で反対側の慈愛天使の顎を右足で蹴り上げる。両手に持った二つのナイフを虚空に投げ捨て、バク転の要領で体勢を整え、カポエラの様に逆立ちしたまま二人の側頭部に蹴りを見舞う。
「ハハッ!」
笑い、間を縫う様に慈愛天使と残虐天使の間合いに入り込み、二人の脇腹に掌底を打ち付ける。爆風に煽られた様に吹き飛ぶ二人。
「がぁあッ!」
残虐天使は体勢を低くして踏みとどまり、行灯陰陽に向かって疾走する。懐刀を真っ直ぐに突くが、行灯陰陽は手の甲で懐刀の腹を弾き、トン、と残虐天使の胸の下に潜り込んだ。
そのまま、全身を使った一撃。真下から、真上へと。残虐天使の身体が宙に浮かび上がる。
「うごっ……」
浮いた残虐天使の胸ぐらを掴み、腰の回転を最大限に遠心力を付けて力任せに投げ飛ばす。
それと同時に、先ほど空に投げたナイフが行灯陰陽のすぐ左右を通り過ぎて落ちる。二つのナイフを空中で掴み、軸足を中心に回り、投げる。《カッ》《カッ》と倒れ伏せた二人の近くにナイフが突き刺さる。
「灼けろ(ラン)」
――突如として、ナイフが《ボパンッ》と爆発した。コミカルな音と同時に爆炎が舞い上がる。
「……終わりですか?まだ私は本気を出してはいませんよ」
髪をかきあげながら、行灯陰陽はため息を一つ吐く。
「式神も喚んでいませんし、奥の手も出していない。これならばまだ白鬼夜行の方が強いですよ。二人がかりなのに、情けない」
行灯陰陽はそう言うが、戦闘能力面では桁が違いすぎるのだ。特に違いが明確なのは、体感速度。行灯陰陽と二人の天使の時間軸が根本的にずれていると言っても過言ではない程に、レベルが違うのだ。
相対性理論を学んだ事がある者は理解しやすいかも知れないが、空間の歪みとはそういうものだ。
時速四〇キロで走る車に乗っていて、時速五〇キロで走っている車が抜いた。外から観測している者はどちらも速く走る自動車に見える。だが、時速四〇キロで走る車の中から見れば、追い抜く車は時速一〇キロで走っている様にしか見えない。
これは一見すると当たり前の事の様に思えるかも知れないが、実はそうではない。時間軸のズレ……有り体に言えば、体感時間の誤差というのは内と外では決定的に違うのだ。
つまり、『瞬歩』という超高速移動が可能な行灯陰陽からすれば、並の人間の能力しか持たない慈愛天使や残虐天使の動きが、まるでナメクジの行進程度にしか見えないのだ。
「嘗めるなよ、行灯陰陽……」
砂埃の向こうから、慈愛天使の声が聞こえてきた。あの爆発に呑まれてよく生きているものだ、とは行灯陰陽は思わない。むしろあの程度の攻撃で降参する様では、魔術師としては三流どころの話ではない。
(まぁ、見たところ、私の様な魔法戦士タイプではなく、純粋な魔術師みたいですしね。今まで魔術を使わなかったのは様子見、といったところだったのでしょう)
「解源。是天地運行・四時三則一成」
ゾクリ、と背筋を凍らせる様に冷めた声が、行灯陰陽の背後から聞こえてくる。訝し気に振り返るとそこには、あぐらをかいた状態で懐刀を両手でしっかりと握り締める、残虐天使の姿。
「……魔術?」
そう呟くのも束の間、残虐天使の『声』は続く。
「四魂。荒御霊・和御霊・奇御霊・幸御霊。
統括。一霊・分御霊。直霊、曲霊。霊止なりて人となす」
それは。まるで、プログラムに従って唱える機械音声の様で。感情の一切が伴わない『声』だった。
しかし、行灯陰陽が驚愕したのはそこではない。そんな感情の死んだ声なんて、魔術世界ではざらなのだ。
問題は、残虐天使が唱える言葉の内容。
「解源、四魂、統括……。まさかそれは、『神字起源解』!?」
高畠康明が描いた『神字起源解』。世界の文字の基本・根元図である。日本の神代文字は世界の各文字の元祖根元にして、いずれの文字もこの源字より発生したと言われている。
「なかなか……ッ!」
歯を食いしばって笑い、行灯陰陽が足を一歩踏み込み、今まさに残虐天使に飛びかかろうとした瞬間、
「ユ・ツ・ク・ネ」
慈愛天使の方から声が聞こえ、行灯陰陽の動きがビタリと止まった。まるで、全身を石膏で固めた様に、動かない。
「なッ!?……そうか、これは、言霊か!」
「当たりだ」
フワリ、と。風が頬を優しく撫でたかと思うと、目の前にユラリと現れた慈愛天使の右のアッパーが行灯陰陽の顎を打ち抜いた。
「……けふっ」
ゆっくりと、背中を反って倒れる行灯陰陽。顎を殴られたせいか、軽い脳震盪が彼女を苛む。
(しまった……、油断した……)
悔やみきれない後悔が行灯陰陽を襲うが、それも構わずに、慈愛天使は今までの恨みを晴らさんとばかりに行灯陰陽の顔と言わず腕と言わず腹と言わず脚と言わず、問答無用で蹴たぐっていく。愉悦に満ちた笑いの仮面の下に覗く唇をへの字に引き伸ばしたまま。
「言葉を返そう。終わりか?まだ私達は本気を出してはいない」
ぶっきらぼうな物言いをする慈愛天使の向こう……座ったまま何かをブツブツと言っている残虐天使に視線をやる。
「占示。五・閑也。閑安なる象、火水なりて神となす」
詠唱を終えたのか、最後の仕上げと言わんばかりに、残虐天使は懐刀を勢いよく地面に突き立てた。