世界の作為
[Jan-14.Sut/14:10]
結局、間食どころか昼食まで奢ってもらった。女に財布を出させるのは最低な男、というのは俺の友人である二人の少女の言。だがそれは飽くまで男女雇用機会均等法が作られる前後、つまり男女の月給に差があった時代の話であり、今では殆ど変わらないのでその言葉は適用されないんじゃないかと思う。いや、どうでもいい話なのだが。
「ところで、金沢は図書館でナニしてたの?」
「その聞き方はちょっとアレな気がしないでもないけど……ちょっとした調べ事やね」
「調べ事?」
「……ちょっと、な」
曖昧に濁した。まさか実は人魚に関する文献を探していたなんて、オカルティックな事、口が裂けても、言え、な、い……。
「……あちゃー」
しくじった。
その張本人である人魚の存在を、すっかり綺麗さっぱり忘れていた。そう言えば図書館で別れたまま置き去りにして仕舞った訳で。今頃は探し回っているかも知れない。
「悪い、詩聖。俺ちょっと用事思い出したから、今日んとこはいとまさせてもらうで」
「ん?用事?ボクも付き合おうか?」
「いやええて。お前受験勉強せなあかんやろ。アホやから」
「あ、アホじゃなぁい!自分中心に考えるな!主観で物を考える『コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)』なんて所詮、自己犠牲自己満足自己欺瞞の産物に過ぎないんだからなぁ!」
「ほな、昼飯サンキューな。万年二位ちゃん」
俺はコートを羽織りながらウィンクし、店を後にした。何か後ろから「絞め殺すぞゴルァ!!」とか何とか聞こえてきた気がしたが、とりあえず無視した。
(さて、果たしてここはどこなんだろうな)
この街には図書館は一つしかなく、俺が通ってる中学校とも反対方向。正直この辺りの地理に明るくはない。
しかも詩聖の跡を追う様に歩き回っていたから、風景も記憶にない。どっちから来たかくらいは分かるが、どこから来たかはとんと見当がつかない。
(そう言えば。この辺りはカナタやミサトの学校近くだよな。偶然巡り会えたりしねぇかな)
そんな偶然があるはずもないのだが、俺は商店街をキョロキョロと見渡す。そこに見知った顔はいない。
……見知った顔はないのだが、出来れば見知りたくはなかった顔があった。
「魔眼使子……」
何故かボロボロの魔眼使子が俺の視線の先にいた。向こうも俺に気付いたらしく、目が合う。
「……」
無言のまま、竹刀袋を揺らせてこっちに歩み寄ってきた。ただしその目は訴える。『逃げるなよ』と。
「こんなところで何をしている。道にでも迷ったのか?」
「うわー、ビンゴ。まさにその通りや」
「……少し、寄り道する時間はあるか?」
「その『少し』の時間にもよるけどな」
「少々、付き合ってほしい」
「……昨日ボッコボコにしといて、よくそんなセリフが吐けるもんやなぁ。感心するで、ホンマに」
そう皮肉ってみたが、魔眼使子はさして気にした様子もなく歩きだした。ついてくるならついてこい、という意味か。俺としてはマリアの方が気がかりだったが、仕方がないと嘆息吐いて魔眼使子の後を追う。
[Jan-14.Sut/14:30]
俺たちは近場のオープンカフェにいた。……男二人の構図というのが何とも哀愁を誘うが、この機会を逃せば次はいつ魔眼使子に会えるか分かったもんじゃないので、特に後悔はない。
……だが。だが一つ言わせてほしい事がある。
「どうした?食べないのか?別にワリカンにしようとしている訳じゃない。この席は俺が奢ろう」
ガラス張りの円卓には、何かゴチャゴチャと料理が運ばれていた。どう軽く見積もっても四人前はあるだろう現状。
(……昼過ぎのこの時間帯にこの量の食事……嫌がらせ?)
見ているだけで胸焼けがしそうだ。
「話、と言うのは分かっているだろう?」
ピザを摘み上げながら、魔眼使子が呟く。俺は無言で頷いた。
聞くまでもない。水陸歌姫……マリアの事だ。
「ムグ、ンック……。あれの正体をお前は知っているか?」
ピザを一気に二口でかき込んだ魔眼使子は、油にまみれた指を舐めながら俺に呟いた。
「人魚……やろ?ちゃんと脚がヒレになったとこも見たで」
「なら話が早い」
よほど腹が減っていたのか、バクバクと目の前の料理を片っ端から食べていく魔眼使子を見ながら、俺はオレンジジュースを啜る。魔眼使子は咥内を料理の坩堝と化し、咀嚼し、呑み込んで次の言葉を紡ぐ。
「どの程度の知識がある?」
「あんさんよか少ないのは確かやな。さっき図書館で調べたけど、殆ど成果はなかったし」
「ふむ。まぁ、人魚というのは昔は海泳動物で、陸上活動する様になったのは魔女狩りの時代が終わった後ぐらいからだ。資料が少ないのは致し方あるまい」
そんなもんなのか、と俺が魔眼使子に目を向けると、魔眼使子はステーキを一気に三切れ口に頬張っていた。
「ング、ック。まぁ人魚伝説で一番有名なのは八百比丘尼だろう。一七歳の少女が人魚の肉を食べ、そのままの姿で若狭を巡礼しながら八〇〇年の時を過ごした……」
「知っとる。他にもアルドヘルムの『怪物白書』にも同じ様な伝承があった。そこでは主に人魚と人鳥の関連性とかが書かれとった。顔が美しい女性で身体が鳥なんつー怪物が、『海で美しい声で歌を歌って船乗りを惑わせ、難破させる』とこが同じやから同一視して書かれたっつー話やろ」
「そうだ。ちなみに人魚は海の生物だと思われがちだが、実はそうではない。海水人魚と淡水人魚の二種類がいる。前者は想像通りだから説明は省くが、後者は主に湖や沼などの淡水に生息する。海の人魚が美しい容姿をしているのに対し、湖の人魚は村娘の様に平凡な容姿をしていて、しばしば陸に上がって現地の者と友好を結び、一緒に湖で泳いで帰さない、といった伝承があるくらいだ。どちらにしても人々を脅かす生物に変わりはない」
魔眼使子はリゾットをモグモグと大きく咀嚼しながら語る。ちゃんとマナーはあるのか、口に手は添えてある。
「実はこんな話があってな。名前さえない伝記、俺の育った村にまつわる伝承だ。それによると、海水人魚の肉は不老不死の力を与え、淡水人魚の血は傷を癒す力があるという」
海水人魚と淡水人魚の違いは、西洋圏のみだと記載されていた。それが日本で描かれているのもおかしな話だ。
という旨を魔眼使子に訊ねると、
「昔、鎖国していた時代に蘭学というのがあるのは知っているな?日本はオランダを通じ、隠れて十字教を学んでいたと言うしな。俺はその頃に二種類の人魚の分け方が伝わったんじゃないかと睨んでいる」
「さすが。昨日今日、存在を知った俺とはやっぱ考えの幅がちゃうな」
ちなみに人魚は、日本最古の資料は日本書紀だったりする。その頃には海のジュゴンに関連付けた内容が多かった為、もしかしたらあながち間違いではないかも知れない。
「……で?この程度の知識じゃ本題には入れへん?」
「いや。ただ、予備知識の確認をしたかっただけだ。いちいち話の腰を折るのも面倒だからな。話がスムーズに進まないのは嫌いだ」
「そら奇遇やな」
初めて意見が合致した。いや、心底からどうでもいい話なんだがな。
「……俺の目的は。水陸歌姫の肉を食う事だ」
どうという事もなさげに魔眼使子は呟いた。俺は思わず臍を噛む。
感情なんてとうの昔にどこかに置いてきた。……そう、思っていたんだが、どうやら俺は怒っている様だ。
本当に不思議だ。
「不老不死がそんなに素敵か?永遠の生命を手に入れてどうするつもりだ?それは人を殺してまで手に入れる様な物か?
そんなエゴイズムの塊みたいな思考は捨てろ。殺したくなる。
不老不死に生きるってのがどんなものかは分からない。だからここから先は俺が勝手に想像しただけに過ぎない主観の意見だ。
それは人じゃない。長く生きる事で精神は疲弊し、色を失う。生きるという意味意義意志を失う。何もしなくても死なないからな。さぁ、それは人か?死ななくなるってのはそういう事だろう?肉体的には人を構成しているとしても精神的にはそれは死人と変わらない。普通の『人間』であれば耐えられない衝撃だ。もっとも、アンタを人だと思った事は欠片もないけどな。
……お前は、誰だ?」
関西弁で話す事も忘れ、俺は語る。それに……これは俺自身にも言える事だから。
「魔眼使子。他に何に見える?」
「人間か、って意味なんだがな?」
「一部以外は人間だな」
それだけ言うと、魔眼使子は前髪で隠された左目を、神妙な顔つきで髪の上から押さえた。
今のはどういう意味だ?と俺が訝しんでいると、魔眼使子の口端がつり上げられ、不気味に嗤う。嗤い声は低く重く、喉から響く。
「一部、というのはこういう事だ」
そう暗く呟き、
魔眼使子は、
右目を覆う紫の前髪を、
上げた。
「これが、俺が『魔眼を使う者』であるが所以だ」
それは。
人の眼球ではない。
あらゆる可能性が死滅した。
黒。
目の前の男、魔眼使子の右目は、それ以外に形容のしようがなかった。
「魔眼『黒色霊視』。いくら神話に疎いからと言っても、北欧の最高神オーディンくらいは知っているだろう?これはそのカミサマが捨てた眼だとか」
まず、その『黒色霊視』とやらは、眼球の『白』い成分である硝子体が『黒』だ。だから、そこに白目の部分は見当たらない。瞳孔も同色の黒で、唯一の白い部分と言えば瞳孔の縮小拡大を行う虹彩筋ぐらいだ。普通の日本人なら瞳の周りの茶色の部分がそれだ。
だがそれすらも、瞳孔を限界まで開ききっているのか、細い。まるで皆既日食の太陽の様に希薄で、白く細い線が円を描いているだけにしか見えない。
それは、義眼の様に物質的で、冷たい光沢を放っていた。
「……お前は驚かないんだな」
「驚いてる。ただ上手く表情に出せないだけだ」
「ふむ」
魔眼使子は納得したのか納得しなかったのか、曖昧な言葉を漏らす。
「硝子体が墨をブチ撒けた様に真っ黒なせいで光を取り入れ様と虹彩筋が限界まで縮んでいる。そのまま劣化したのか、白色に変色までしやがってな。しかも結局、網膜まで光が届いていないから視力はゼロ。普通に生活する分にはまるで役に立ちゃしない」
「だったらその眼を潰して義眼でも入れればいいだろ」
「何度もやったが、灼ける様な激痛が走るだけだ。そもそもこの眼は潰しても潰しても、ほんの数十秒で回復する。義眼なんか入れたところでグロテスクに瞼からこぼれ落ちるだけだ」
それは、どれほどの激痛なんだろうか。
少なくとも俺には理解できない程の痛みなんだろう、と思う。
魔眼使子は前髪を下ろして再び右目を隠すと、ふと思い出した様に食事に取りかかった。勢いよく食事を次々に平らげていく魔眼使子を余所に、俺は考えを纏めていく。
(どうして奴はこのタイミングで俺に眼の事を告げた?捨て置いてもいいような問題だと言うのに、わざわざ関係性の薄い、この俺に?)
海水人魚――つまりマリアは不老不死の力を与える。だから肉を食う。
だが、俺にはこの男が不死に執着しているとも思えない。
いや、そもそも、
マリアは一体何者だ?
(待て……何かがひっかかる)
思い出す。初めて出会ったあの瞬間からの記憶を揺り動かす。
海に倒れていた少女をうちで保護して、
起きたらデパートに服を買いに行って、
魔眼使子と戦って、
家に帰ってマリアに求婚されて、
朝、人魚のヒレを見せてもらって、
図書館で詩聖と会って喫茶店に行って、
帰り道に魔眼使子と会った。
特に変わった箇所はないように思える。いや、『全裸の少女を家で保護』というワードだけで充分に怪しいのだが、この際は置いておく。
だとすれば、
俺はどこに、ひっかかった?
チラリと魔眼使子を見る。俺の思考を余所に、ガツガツと目の前の料理を口にかきこんでいる。こんなにアクティブな魔眼使子、何かイメージ壊れるな。
(……あれ?)
不意に頭をよぎる。急に、まるでパズルのピースが偶然に当てはまる様に。
根本的な問題として、淡水魚と海水魚の理屈が思い浮かんだ。あれは体内と体外の水分に含有する塩分濃度の違い、浸透率の誤差で分けられている。これは人間にも言える事で、恐らく人魚にも適用されるだろう。
だとすれば。
『ただの温水』で人魚化したマリアは――?
「……もしかして、お前の目的は、不死じゃ、ない?」
つまり、そういう事だった。
[Jan-14.Sut/17:10]
雪が降っていた。というか、風が強く、雪が横に流れているので『降っている』とは言いがたいが。
閉じられた図書館の扉の前には、一人の少女が座っていた。緩やかにカールした、外国人独特の金の髪が目立つ。
「よっ。待たせたなぁ」
俺は少女に近付き、片手を挙げた。俺の声に反応した少女は、ゆっくりと顔を上げ、
その端麗な顔は、泣き顔だった。
目からは滝の様に涙が流れ、頬の辺りは涙と鼻水でグジュグジュになっている。寒そうに身体を震わせ、顔面蒼白したまま、少女・マリアがゆらりと立ち上がり、俺に抱きついてきた。
「うぇ……ふぇええ……心、配、じまじだぁ……」
顔を俺の胸に埋めて、涙声だか鼻水声だかで語るマリア。どうでもいい話だが、今、服の胸を見たくない。
「すまんすまん。ちぃっとヤボ用あってな」
まさか忘れてたとは言えない。
「ちゃんとええ子にしとったか?」
俺は優しく語りかけるが、マリアはただすすり泣くだけで答えない。
雪が、俺らの頭や肩に降り積もる。風が吹く度にコートを貫いて刺す様な痛みが全身を襲うので、出来れば今すぐにでも帰りたいのだが、マリアがこの状態なのでそれも望めない。
不意に、カタカタカタカタ、と。マリアが震えている事に気付いた。
普通、図書館というのは五時に閉まる。今は一〇分くらい経っているので、この寒空の下でじっと動かなければ、そりゃ震えもするだろう。
(……仕方ない、か)
幸いにも、俺の着ているロングコートはゆったりしたデザインだ。子供一人くらいなら、簡単に入れる事が出来る。
俺はマリアの小さな身体を抱き寄せてコートで包んだ。驚いた様子でマリアが見上げてくる。
「これやったら寒ないやろ」
俺は、笑う。
何故か、この時だけは、自然に笑う事が出来た。
「ゆ、うさく、様ぁ……」
「……せやから、『様』は止めぃっちゅーねん。普通に『君』か『さん』程度にしてくれへん?」
微笑は、苦笑に変化。俺は自分の状態を客観的に見ながら、思う。
感情のない躯が、笑っている、と――――。
[Jan-14.Sut/17:30]
どのくらいそうしただろうか。
ようやく泣きやんだマリアは首まで真っ赤にして照れ、俺はマリアの頭を撫でながらポケットから取り出したティッシュで、マリアの鼻水を拭う。
「どっかにあったかいもんでも食いに行こか」
「あ……よろしいのでしょうか?」
「ええてええて。待ちぼうけさせた詫びも兼ねて、パァーッと豪勢な鍋でも食おうや」
「あ、それでは、お言葉に甘えて……」
マリアが微笑み、俺も笑う。
それではいざ行かん……と二人で肩を並べて歩きだしたところで、俺は急に足を止めた。怪訝そうな表情で俺に振り返るマリア。
「……の前に、家帰って着替えてもええ?」
思い出した。今の俺の服は鼻水まみれだ。
「も、申し訳ありませんユーサクさん!わわ私とした事が、とんだ粗相を……!」
今にも土下座せんばかりのマリアだが、呼び掛け方が変わってる事に気付いた俺は、今一度笑った。