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前世の大泥棒、女神の罰で最底辺職【泥棒】に転生する~『転職の神石』を巡りAランク冒険者にスキルを封じられ見捨てられたが、スキルなんてなくても十本の指だけで全部スリ取って料理人に転職します~

掲載日:2026/10/20

【1話完結・約15分で読める痛快逆転ファンタジー&グルメ転生譚!】

Aランク冒険者たちに『スキル封印の手錠』をはめられ、迷宮の宝物庫に生贄として置き去りにされた元・伝説の怪盗。

しかし、魔法もスキルも存在しない地球で頂点を極めた男にとって、自分を殴る裏切り者たちの懐から『転移石』も『転職の神石』も『極上サンドイッチ』もすべて抜き取ることなど朝飯前だった――!

スカッとする逆転劇と、読後に心が温まるラストをお楽しみください!


【第一幕:女神の罰と、竜公爵の十二の封印】



「お前は前世の地球において、ただの一滴の血も流させはしなかった、ニコ・ベリーニ。だがお前のその十本の指は、夜空の星の数よりも多くの金庫と、強欲な銀行家の懐と、装甲保管庫を空にしてきた」



 ドラケンガルド城の基礎から三百メートル地下にある黒い玄武岩の柱の陰で、暗い外套を肩に引き寄せながらうずくまっていたニコの脳裏には、今もあの『秩序の女神』の冷厳な声が響いていた。


 地球で不慮の死を遂げたあと、真っ白な大理石の神殿で自分を裁いた女神の厳しい瞳を、ニコはよく覚えている。



『お前は影の中に生き、自分のものではない富を奪い続けてきた』


 女神はそう宣告すると、ニコの右手甲に向かって光の指先を突きつけた。


『ゆえに私は、お前にふさわしい刻印とともにエーテルガルドの世界での二度目の生を与えよう。大陸で最も卑しく、最も蔑まれる最底辺のクラス――【泥棒(シーフ)】として生まれ変わるがいい。いかなる名誉あるギルドもお前を受け入れず、いかなる神殿もお前を祝福しない。己の罪の重さを知るその日まで、ドブネズミのように地下の暗闇を這いずり回るのだ』



 ニコは自分の右手の甲に視線を落とした。


 指先の開いた薄い革手袋の下で、皮膚がわずかに熱を持っている。そこには、折れた短剣と交差する鍵を象った黒い紋章――【泥棒】の『魂の刻印』が焼き印のように刻み込まれていた。



 神から与えられる【クラス】と魔力(マナ)がすべてを支配するこの世界において、その紋章を持って生きることは「ゴミ」として扱われることを意味していた。


 通りを歩けば貴族に唾を吐きかけられ、衛兵と目が合えばそれだけで牢屋にぶち込まれ、声をかけてくる人間といえば、致死性の罠が張り巡らされた迷宮の通路を歩かせるための「使い捨ての肉壁(罠解除役)」を探している高ランクの冒険者くらいだった。



「まったく、あの女神様もブラックジョークが好きなこった」


 ニコは暗闇の中で苦笑いを浮かべ、誰にも聞こえない声で呟いた。


「ヨーロッパ最高の金庫破りを魔法の世界に送り込んでおいて、皮膚の上に『私は犯罪者です』ってラベルを貼るとはね」



 だが、この世界で目覚めてからの二年間、ニコはリンゴ一つすら盗んでいなかった。


 地球にいた頃の彼は、スリルと挑戦のため、そして自分を神だと勘違いしている傲慢な大富豪たちの鼻を明かすために盗みを重ねていた。


 しかし一度死を経験し、空っぽだった自分の人生を振り返った時、彼の口の中に残ったのは灰のような虚しさだけだった。他人の労働の上前をはねる幽霊のような生き方は、もううんざりだったのだ。


 太陽の光の下で、誰かから奪うのではなく、自分の両手で何かを作り出し、人に喜ばれる真っ当な人生を生きたい。



 だからこそ今夜、彼はこの王国で最も危険な場所――『竜公爵の深淵地下宝物庫』に潜り込んでいた。



「さっさと歩け、ウジ虫め!」


 背後から傲慢な声が飛び、ミスリル装甲のブーツのつま先がニコの脛(すね)を蹴飛ばした。


「貴様にぼんやり突っ立たせるために地下五階層まで連れてきたんじゃないぞ。宝物庫まであとどれくらいだ?」



 ニコはゆっくりと振り返り、高ランクの冒険者たちが自分のような人間に期待する「卑屈で怯えた態度」を即座に作って頭を下げた。


 目の前に立っていたのは、王都で貴族たちの庇護を受ける高名なAランク冒険者パーティ『深紅の牙』の三人だった。表向きは英雄気取りだが、裏街では冷酷な強欲さで知られる連中だ。



 一人目はリーダーのガレット。炎のルビーを散りばめた軽鎧に、防汚の魔法がかけられた真っ白な絹のマントを羽織った金髪の【王立剣士】だ。


 その隣にそびえ立つのは、身長二メートルの大男ヴァンス。背中に巨大な両手斧を背負い、飛竜(ワイバーン)の革ベルトに金貨の袋と――中から燻製肉のたまらない匂いが漂ってくる「ルーン保温袋」をぶら下げた【重装狂戦士(バーサーカー)】。


 そして三人目は、冷酷な笑みを浮かべた美女リリア。脈動するサファイアが埋め込まれた銀の杖を長い指先で弄ぶ【呪鎖の魔導士】だった。



「もう着きましたよ、ガレット様」


 ニコは低い声で答え、通路の突き当たりを指差した。


「あの角を曲がった先が『魂の石橋』、そしてその奥が十二の封印で閉ざされた大扉です」



「よし。なら先頭を歩いて目を皿のようにしておけ」


 ガレットは黄金の剣の柄に手を置いて命じた。


「もし警報のルーンを一つでも踏んで公爵の守護兵を起こしたら、その場で貴様の両脚の腱を切って囮(おとり)にしてやるからな」



 ニコは無言で頷き、再び先頭を歩き出した。


 通路を抜けると、液化した青いマナの川が流れる巨大な地下空洞に出た。


 公爵家の宝物庫へと続く唯一の石橋の両脇には、黒曜石の台座の上に二十体の『ミスリル・ガーゴイル』が微動だにせず鎮座していた。身の丈三メートル、剃刀のように鋭い金属の翼と、胸の中央に赤い魔結晶の核を持つ古代の自動人形(オートマタ)だ。


 正規の手順で扉の封印が解かれている限り、ガーゴイルたちは休眠状態を保つ。だが、もし力ずくで扉を壊そうとしたり、緊急警報のルーンが作動したりすれば、二十体の金属の怪物が一斉に目を覚まし、上層に控える公爵家の重装近衛兵団とともに侵入者を八つ裂きにする仕組みになっていた。



 四人は息を潜めて石橋を渡りきり、ついに『眠れる竜の大扉』の前に立った。


 それはドワーフ鋼とオリハルコンで鍛えられた高さ六メートルの巨大な壁だった。中央には白金(プラチナ)で作られた十二個の同心円のリングが回転しており、それぞれに魔力圧式の魔法錠と、バジリスクの猛毒を塗った毒針の罠が仕掛けられている。



「なんて複雑なの……」


 魔導士のリリアが目を細め、扉の魔力回路を解析しながら呟いた。


「十二個の独立した回路が絡み合っているわ。解錠の順番をコンマ一秒でも間違えれば、扉から雷撃の嵐が放たれて階層全体が完全封鎖される。さあドブネズミ、お前のスキルを使ってさっさと開けなさい」



「……約束は覚えていらっしゃいますよね?」


 ニコは振り返ることなく、チョッキの内ポケットから自分で鍛えた極細の鋼のピック(解錠針)を二本抜き出しながら尋ねた。


「中にある三十万枚の金貨も、公爵家の王冠の宝石も、魔法の武具も、すべてあなた方三人のものです。僕がいただくのは、中央の台座に乗っている『転職の神石(クラスチェンジ・オーブ)』ただ一つだけ」



 背後で、巨漢のヴァンスが喉の奥で下品な笑いを噛み殺し、自分の太い腹を撫でながらベルトに下げた温かいサンドイッチの袋に触れた。


「ああ、もう一万回も聞いたぞ!」


 ガレットがいら立たしげに遮った。「戦闘の役にも立たない石ころなんかに興味はない。警備の交代時間が来る前に、さっさとその忌々しい扉を開けろ!」



 ニコは冷たい金属の扉に左耳をぴたりと当て、静かに目を閉じた。



「スキル発動――【亡霊の指先(ファントム・ハンド)】」



 右手の甲の黒い紋章が、淡い紫色の光を放った。


 絹のように薄いマナの膜が彼の十本の指を包み込み、指先の触覚を五十倍に増幅させて、扉の内部にある十二個の魔法シリンダーの微細な振動を伝えてくる。


 だが――ニコがこの世界の誰にも明かしていない本当の秘密は、スキルが担っているのは作業全体のわずか「一割」に過ぎないということだった。残りの九割は、純粋な地球の物理技術だ。チューリッヒやミラノの銀行の地下で、スイス製の特注金庫の真鍮ピンのコンマ一ミリの動きを聞き分けてきた、何十年もの経験と指先の感覚である。



 ――カチ。カチリ。チンッ。



 ニコの十本の指が、残像が見えるほどの超高速で十二個の白金のリングの上を舞った。


 一本目のバジリスクの毒針を無効化し、四番目のシリンダーの魔力バイパスを逸らし、七番目と九番目のリングを逆回転で同時に揃え、最後に右手の小指の羽毛のようなタッチで、十二番目の公爵印のロックを弾いた。



 ――ガシャアアアン、プシュウウウウウ……!



 隙間から青い蒸気が噴き出した。


 白金のリングが黄金色に輝き、公爵家宝物庫の巨大な双開きの扉が、きしみ音一つ立てずにゆっくりと内側へと開いていった。



 目の前に広がったのは、まばゆいばかりの円形の大広間だった。


 山のように積まれた金貨、ダイヤモンドの聖杯、ルーン文字が輝く名剣の数々。そして部屋のど真ん中、宙に浮く白いビロードのクッションの上で、握り拳ほどの大きさの球体が虹色の光を放ちながら脈動していた。


 人間の魂を書き換え、女神の刻印すら永遠に消し去ることができる世界で唯一の秘宝――『転職の神石(クラスチェンジ・オーブ)』だ。



「あ、開いた……」


 ニコは高鳴る胸を押さえ、中央の台座に向かって一歩を踏み出した。


 だが、彼が二歩目を踏み出すことはできなかった。



【第二幕:黒い呪枷と、竜兎のサンドイッチと、裏切り者たちのリンチ】



「見事な仕事ぶりね、ドブネズミ。本当に完璧よ」


 背後から聞こえたリリアの声には、もはや一片の緊張感もなかった。


「――『重力呪鎖(グラビティ・チェイン)』!」



 ニコが振り返るよりも早く、彼のブーツの下に血のように赤い魔法陣が展開された。


 突如として五百キロもの鉛を背負わされたかのような重圧が両肩にのしかかり、ニコは大理石の床の上に両膝から崩れ落ちた。


 同時に、リーダーのガレットが前へと飛び出した。だが彼が向かったのは金貨の山ではない。空間収納袋から呪われた黒鉄で鍛えられた『スキル封印の呪枷(手錠)』を取り出すと、床に伏せたニコの両手首を背中で乱暴にねじ上げ、ガチャンッ!とロックしたのだ。



 黒い鉄が皮膚に触れた瞬間、氷のような衝撃がニコの血管を駆け抜けた。


 スキル【亡霊の指先】の紫色の光が風に吹き消されたロウソクのように瞬時に消え失せ、体内のマナとスキルが100%完全に封印された。



「な、何をなさるんですか、ガレット様!?」


 ニコは荒い息を吐きながら床に顔を押し付けたまま叫んだ。スキル封印の手錠をはめられた者はクラスを持たない一般人と同じ無力な状態になるため、リリアはすでに重力の魔法を解いていた。


「約束が違うじゃありませんか! 僕は扉を開けました!」



 ガレットは高らかに笑い声を上げた。


 中央の台座へ歩み寄って手袋をはめた手で『転職の神石』を鷲掴みにすると、ニコの目の前に戻ってきて、少年の鼻先数センチの場所でボールのように弄んで見せた。



「【泥棒】との約束だと?」


 ガレットは心の底からの侮蔑を込めてニコを見下ろした。


「鏡を見たことがあるのか、このゴミクズが! この神石はな、帝国の闇市場に流せば金貨十二万枚で売れるんだぞ! Aランク冒険者である俺たち三人が、攻撃スキル一つ持たない最底辺の人間モドキと国宝級の秘宝を山分けするとでも思ったか?」



 ガレットは絹のマントを開き、胸鎧の右側にある内ポケット――脱出用の『高位転移石』が入っている小ポケットのすぐ上――に『転職の神石』をしまい込み、留め金をパチンと閉めた。



「それにね」


 リリアがサディスティックな笑みを浮かべ、ヴァンスと一緒に山積みの金貨や宝石を次々と自分たちの空間収納袋へ放り込みながら言った。


「罠を発動させずに扉を開けたとはいえ、あと五分もすれば公爵家の結界魔導士たちが宝物庫のマナ圧の低下に気づくわ。もし現場に『犯人』がいなければ、公爵家は王国全土に追跡用の魔獣を放つでしょうね」



「だがよぉ」


 身長二メートルのヴァンスが太い指の関節をバキバキと鳴らしながらニコの前に歩み寄り、ニヤリと笑った。


「衛兵どもが駆けつけた時、ここに手首に枷をはめられて両脚の骨を折られた【泥棒】の刻印持ちが転がっていれば、事件は三十秒で解決だ! 『謎の共犯者に利用されて見捨てられた哀れなコソ泥の単独犯』として、お前が一人で絞首台に登るってわけさ!」



「ま、待ってください……お願いです、そんなことはしないでください!」


 ニコは目に見えてガタガタと震え、恐怖にパニックを起こした臆病者のように床の上で体を丸めた。「公爵家の衛兵に捕まったら、僕はその場で処刑されてしまいます!」



「だからそのための生贄だろうが、馬鹿め!」


 ヴァンスが下品に笑い、丸太のような右脚を振り上げてニコの脇腹を思い切り蹴り上げた。


「ぐあっ――!」


 ニコの体は床の上を転がり、ガレットの両脚にぶつかって止まった。


 ニコは慈悲を乞うかのように、ほんの一瞬だけガレットのブーツと胸鎧の下端に必死にしがみつくような動きを見せたが、ガレットは「汚い手で触るな!」とニコの肩を蹴り飛ばし、魔導士リリアのスカートの足元へと転がした。



「きゃっ、私のローブに泥をつけないで、虫ケラ!」


 リリアが銀の杖の石突きでニコの背中を突き飛ばし、さらに身をかがめてニコの頬を平手でピシャリと張った。「私たちの手で首を掻き切られないだけ感謝しなさい! 生きたままの方が、ミスリル・ガーゴイルたちのいい朝食になるわ!」



 最後に、巨漢のヴァンスがニコの上に覆いかぶさるように身をかがめ、両手でニコのシャツの襟首を掴んで床から十センチ持ち上げると、ボロ雑巾のように激しく揺さぶりながら顔面に向かって大笑いした。


 その至近距離で、ヴァンスの革ベルトにぶら下がった『ルーン保温袋』から、天国のように芳醇な香りがニコの鼻をくすぐった。


 焼きたてのパリッとしたパン、溶けた高山バター、粒マスタード、そしてリンゴの薪でじっくりと燻製にされた極上の柔らかい肉の香りだ。



「いい匂いだろう、腹ペコのドブネズミよぉ?」


 ニコの視線に気づいたヴァンスが、空いた片手で自分の左腰の保温袋を誇らしげにポンポンと叩いた。


「これはな、港町の名店『黄金の星亭』の料理長が作った一日十食限定の『燻製竜兎(ドラゴラビット)フィレ肉の王様サンドイッチ』だ! これ一つで銀貨二十枚、てめえが一ヶ月泥水をすすって稼ぐより高い代物よ! ここから転移石で脱出したあとの祝勝会用に買っておいたんだが、てめえはあの世で衛兵の槍でもしゃぶってるんだな!」



 ヴァンスが力任せにニコを後ろへと投げ飛ばした。


 ニコの体は滑らかな大理石の床を滑り、宝物庫の入り口と外側の石橋を隔てる「第二鉄格子」のラインをわずかに越えた通路側で、背中で手錠をはめられたままピクリとも動かなくなった。



「よし、金貨はすべて袋に詰めたぞ!」


 ガレットが空間収納袋の口を閉めて宣言した。「リリア、扉の上の警報ルーンを撃て! ガーゴイルと衛兵どもをここに呼び寄せて、俺たちは目の前で転移してオサラバだ!」



 リリアが銀の杖を宝物庫の入り口の上に刻まれた赤いルーンに向け、魔力の火花を撃ち込んだ。



 ――ブオォォォォォン! ブオォォォォォン!



 巨神の角笛のような重低音の警報が、地下迷宮全体を激しく揺らした。


 通路の青い照明が一瞬にして血のような真紅へと変わり、天井から分厚いオリハルコンの鉄格子が落下して宝物庫を封鎖した――ちょうど気絶したように倒れていたニコを通路の外側に、そしてガレットたち三人を宝物庫の内側に隔てる形で。


 同時に、外の石橋の二十の台座の上で、『ミスリル・ガーゴイル』たちの赤い結晶の目がギラリと光を放った。



 ――バキバキッ! ギャアアアアアッ!!



 石の殻を砕いて金属の翼が広がり、さらに大階段の上からは、槍を構えた五十人の『竜公爵家・重装近衛兵団』が地響きを立てて駆け下りてくる音が反響した。



「あばよ、哀れなコソ泥くん! 処刑人によろしく伝えておいてくれ!」


 ガレットが腹を抱えて笑いながら叫んだ。


 ガレット、ヴァンス、リリアの三人は同時に自分のポケットや腰袋に手を突っ込み、それぞれの『高位転移石』を取り出して頭上に掲げると、声を揃えて起動呪文を唱えた。



「「「【即時帰還(インスタント・リターン)――王都中央広場】!!」」」



 …………。


 一秒が過ぎた。


 二秒が過ぎた。



 赤い警報が点滅する宝物庫の中には、転移の魔法陣など影も形も現れなかった。


 聞こえるのは、石橋の上を猛スピードで迫ってくるミスリル・ガーゴイルたちの金属の爪音だけだ。



「……は?」


 ガレットが目を見開き、自分の右手を激しく振った。「な、なぜ起動しない!? 【即時帰還】! 【即時帰還】!!」


「わ、私の転移石も光らないわ!」


 リリアがパニックに陥り、自分の手のひらを見下ろした。



 その時になって初めて、三人は自分たちが指先で握りしめている「それ」の正体をちゃんと見た。


 それは高位転移石ではなかった。


 重さと大きさだけが転移石と寸分違わぬ、地下一階層の湿った壁から拾ってきた『発光苔(ごけ)を貼り付けただけの、ただの丸い川原の石ころ』だったのだ!



「な、なんだこりゃあ!? ただの苔のついた石ころじゃねぇか!!」


 ヴァンスが眼球が飛び出さんばかりに絶叫した。


「ま、まさか『転職の神石』は!?」


 ガレットは血相を変えて自分の胸鎧の内ポケットを探った。ポケットの留め金は完璧に閉まっていた……だがその中に入っていたのは、金貨十二万枚の神石ではなく、どこかのゴミ箱から拾ってきた『干からびた古いカブ』だった!



 その瞬間、彼らと脱出通路の間を隔てるオリハルコンの鉄格子の向こう側から、痛みなど微塵も感じさせない、明るく落ち着いた少年の声が警報の轟音を切り裂いて響いた。



「いやあ、魔法がある世界の人間は危機感が鈍るって地球の映画で見たことはあったけど……まさかここまでチョロいとは思わなかったよ」



 ガレット、ヴァンス、リリアの三人は、弾かれたように鉄格子の方へと振り返った。



【第三幕:『スキルなんてなくても指が十本あれば十分だ』と、盗むべき心】



 鉄格子の向こう側で、ニコは何事もなかったかのようにすっくと立ち上がり、片手で革ジャケットの埃を軽く払っていた。


 肋骨にヒビ一つ入っていなければ、顔にアザ一つなかった。


 ヴァンスやガレットに蹴られた瞬間、パリの屋根の上から飛び降りる時と同じ要領で衝撃のベクトルに合わせて重心を数ミリだけ逃がし、運動エネルギーをすべて床へと受け流していたのだ。


 そして何より――彼の両手は体の前にあり、完全に自由だった。



 チャリン、と乾いた金属音を立てて、ニコは手にしていた『スキル封印の呪枷』を床に落とした。


 舌の下に隠していた長さ三センチの「ピアノ線の針」一本を使って、わずか二秒で内側から開けたのだ。なぜならその呪枷は、マナとスキルこそ100%封じるものの、物理的な鍵穴の構造は地球の八歳児でも開けられるほど単純な「三枚ピンタンブラー錠」に過ぎなかったからである。



「お、お前……スキルを封じられていたのに、どうやって手錠を外したのよ!?」


 リリアが鉄格子にしがみついて金切り声を上げた。その背後では、最初のミスリル・ガーゴイルたちが宝物庫の入り口に降り立ち、赤い目を光らせている。



 ニコはすぐには答えなかった。


 なぜなら彼は、右手で外套の下から見覚えのある『ルーン保温袋』を取り出し、袋の口を開けると――血走った目で固まる巨漢ヴァンスの真ん前で――湯気を立てる『燻製竜兎(ドラゴラビット)フィレ肉の王様サンドイッチ』に、豪快にかぶりついたからだ!



 ――サクッ、ジュワァァァッ!!



 黄金色に焼けたパンの皮が弾け、溶けた発酵バターと粒マスタード、そしてリンゴの薪の香りを纏った驚くほど柔らかい竜兎のフィレ肉の肉汁が口いっぱいに広がった。


 ニコは目を閉じてゆっくりと咀嚼し、その信じられないほどの美味しさを堪能した。



「うわあ……ヴァンス、あんたの言った通りだ」


 ニコは一口目を飲み込むと、親指についたソースをペロリと舐めて満面の笑みを浮かべた。


「これ、本当に銀貨二十枚の価値があるよ! フィレ肉の火入れが完璧なロゼで、燻製の香りが肉の甘みを少しも邪魔してない!」



「お、俺の限定サンドイッチィィィッ!!」


 ヴァンスが自分の空っぽのベルトに両手を当てて絶叫した。留め金は一度外され、再び元通りに留め直されているのに、彼は指一本触れられたことにすら気づかなかったのだ。


「いつ盗りやがった!? てめえはスキル封印の手錠をはめられてただろうが! 『窃盗(スティール)』のスキルは使えなかったはずだぞ!」



 ニコは楽しそうに笑うと、左手のひらで四つの輝く球体をジャグリングのように宙へ放り投げて見せた。


 三つの本物の『高位転移石』と、その真ん中で虹色の光を放つ『転職の神石』だ。



「あんたたち、財布を抜き取るのにいちいちマナやスキルが必要だと本気で思ってるのかい?」


 ニコは落第生を見る教師のような目で、三人のAランク冒険者を見つめた。


「僕が生まれた地球にはね、魔法もスキルも最初から存在しなかったんだよ! あるのは指先の物理法則と、視線誘導(ミスディレクション)、そして人間の心理学だけさ!」



 ニコは食べかけのサンドイッチを持った手でガレットを指差した。


「ヴァンスに蹴られて僕がガレットの足元に転がった時、ガレット、あんたは僕の顔を蹴飛ばそうとして下ばかり見て優越感に浸ってた。人間の脳っていうのは、自分が攻撃している瞬間は自分の胸元の感覚を完全に無視するんだ。内ポケットから『転職の神石』と『転移石』を抜き取って、布の張力が変わらないように同じ重さのカブと石ころを滑り込ませるのに、コンマ三秒もかからなかったよ」



 そしてニコは、シーツのように真っ青になっているリリアとヴァンスに視線を移した。


「リリアが僕の頬を叩こうと身をかがめた時、あんたの腰袋は僕の左手の真ん前に垂れ下がってた。そしてヴァンス、あんたが僕の襟首を掴んで持ち上げた時は……文字通り、その美味しそうなサンドイッチを僕の両手の上に自分から押し付けてくれたようなもんさ! あんたたちみたいなド素人から物をいただくのに、スキルなんていらない。僕を殴りながら、全部自分たちからプレゼントしてくれたんだからね!」



「く、くそっ、転移石を一つ返せ、この野郎!!」


 ガレットが半狂乱で剣を抜き、オリハルコンの鉄格子を斬りつけようとしたが、火花が散るだけで傷一つ付かない。「ガーゴイルが来たぞ! 殺される! 金貨ならいくらでもやるからここから出せェッ!」



 まさにその瞬間、二十体の『ミスリル・ガーゴイル』と五十人の『重装近衛兵団』が宝物庫の正面からなだれ込んできた。


 近衛兵たちの目に飛び込んできたのは、開け放たれた宝物庫の中で、公爵家の金貨や王冠がはみ出た空間収納袋を背負って立ち尽くす『深紅の牙』の三人の姿だった!



「いたぞ! 犯人はAランク冒険者『深紅の牙』の三人だ!」


 近衛隊長がハルバードを突きつけて咆哮した。「閣下の秘宝を強奪した現行犯である! ガーゴイルよ、奴らの手足をへし折って終身刑の硫黄鉱山へ引きずり込め!」


「ち、違う! 開けたのは泥棒だ! 俺たちは――ぎゃあああああっ!!」



 ガレットたちの悲鳴は、飛びかかったミスリル・ガーゴイルたちの金属の咆哮と、ヴァンスとガレットが装甲の爪の下に押し潰される音にかき消された。



 ニコは鉄格子の外側で、竜兎のサンドイッチをもう一口美味しそうに頬張ると、三つの『高位転移石』の一つを掲げて、檻の中の三人に向かって二本の指で礼儀正しく敬礼してみせた。


「ここまで案内してくれて、それに最高の夜食をご馳走してくれてありがとう! 公爵様には『金貨は全部自分たちの袋に入ってます』ってちゃんと説明するんだよ!」



「――【即時帰還(インスタント・リターン):自由港湾都市オークヘイヴン】!」



 青い光の柱がニコの体を包み込み、近衛兵の一人が外側の通路に気づくコンマ一秒前に、その姿は跡形もなく消え去った。



        ◇ ◇ ◇



 十分後。


 ニコは竜公爵の城から五百キロ離れた平和な自由港湾都市『オークヘイヴン』を見下ろす、朝日に照らされた緑の丘の草の上に座っていた。


 手の中には、あの『燻製竜兎のサンドイッチ』の最後の一口が残っていた。



 ニコはそれをゆっくりと口に運び、パンの温もりと、誰かが心を込めて作った肉の信じられないほど優しい味わいを最後の一かけらまで噛みしめた。


 食べ終えたあと、自分の空っぽの両手を見つめたニコの目の奥が、子供の頃から一度も感じたことがなかったほど熱く滲んだ。



「地球で三十年もかけて、ダイヤモンドや金の時計や名画を山ほど盗んできたけど……」


 キラキラと輝く朝の海を見つめながら、ニコは静かに呟いた。


「どんな宝石を手に入れた時よりも、命懸けで働いたあとに食べる、この温かいサンドイッチ一つの方が何百倍も幸せで、生きてるって感じがするじゃないか」



 金貨や宝石は、ガレットたちのように人間の心を狂わせ、仲間を裏切らせるだけだ。


 だが、愛情を込めて作られた温かい料理は、人の心を温め、明日を生きる力を与えてくれる。



 ニコはポケットから、虹色に輝く『転職の神石』を取り出した。


 それを両手で胸に強く抱きしめ、目を閉じて、きっと空の上から自分を見ているであろうあの厳しい女神様に向かって心の中で語りかけた。



(あなたの言う通りでしたよ、女神様。僕の泥棒稼業は、今日で完全に廃業です。これからはこの十本の指で誰かから物を奪うのではなく、包丁を握って、真っ当に働く人たちにお腹いっぱいの幸せを作るために使います)



 ――パキィィィン……シャララララッ!



 『転職の神石』が黄金色の光の粒子となって溶け、ニコの胸と右手の中へと吸い込まれていった。


 右手の甲に刻まれていた黒く呪われた【泥棒】の刻印が最後の一瞬だけ熱く燃え上がり、次の瞬間には朝の潮風に吹かれて灰のようにサラサラと消え去った。


 そしてその跡に、熟れた麦の穂のような温かな黄金色の光とともに、新しい『魂の刻印』が浮かび上がった。



【現在のクラス:料理人(レベル1)】


【継承パッシブスキル:『十指の絶対技巧(ゴッド・フィンガーズ)』――あらゆる食材の解体・皮むき・みじん切り・仕込みの速度と精度が500%上昇する】



 ニコは右手の甲に浮かんだ「包丁と麦の穂」の紋章を見つめ、二つの人生を通して初めて、自分の魂が羽のように軽くなったのを感じて微笑んだ。



        ◇ ◇ ◇



 翌朝の午前七時きっかり。


 港町オークヘイヴンで一番人気の食堂『黄金の星亭』――あの伝説の竜兎のサンドイッチを作った店――の厨房は、すでに朝の仕込みの活気に満ちていた。



 ニコは真っ白で清潔なコックコートに袖を通し、大きな木のまな板の前でエプロンの紐を背中でキュッと結んでいた。


 昨日の午後、見習い募集の張り紙を見て飛び込んだニコが、実技テストで『十指の絶対技巧』を使って巨大な魚を三枚におろし、二十個の玉ねぎをわずか八秒で均一なみじん切りにして見せたところ、料理長は目を丸くしてその場で即採用してくれたのだ。



「よし、ニコ」


 ニコは新品の輝く包丁の刃に映る自分の顔を見つめ、低い声で自分に言い聞かせた。


「今日からが、お前の真っ当な人間としての新しい人生の始まりだ。もうトリックも、スリも、盗みも一切なしだ。今この瞬間から、僕は生涯二度と、誰からも何一つ盗まないぞ!」



 まさにそう誓った瞬間だった。


 客席ホールへと繋がる厨房のスイングドアが、軽やかな鈴の音とともに開いた。



「おはようございます、料理長! 焼きたてのパンのバスケットが届きましたよ……あ!」



 厨房の敷居の上で足を止めたのは、空色のワンピースに白い刺繍入りのエプロンを着けた、十九歳くらいの少女だった。


 黄金色がかった長い栗色の髪を柔らかく束ね、朝の海のように輝く大きな琥珀色の瞳を持ち、そしてニコが地球のどんな大銀行の金庫で見たダイヤモンドよりも眩しく、優しく、透き通った笑顔を浮かべていた。



 少女は注文伝票を胸に抱えて小首をかしげると、頬をほんのりと桜色に染めてニコに微笑みかけた。



「あなたが今日から入った新しい料理人のニコくんね! 私はホール係のミナよ。これからよろしくね!」



 三秒間、二つの世界を股にかけた史上最高の怪盗は、包丁を宙に浮かせたまま完全に石のように固まり、二十体のミスリル・ガーゴイルに囲まれた時ですら起きなかったほど激しく心臓が跳ねるのを感じた。



 やがてニコはゆっくりと包丁をまな板の上に置き、白いコックコートの襟元を正すと、その顔にあの昔ながらの、少しだけ不敵で優しい「怪盗の微笑み」を浮かべた。



「こちらこそよろしく、ミナちゃん」


 ニコは温かい声で答えた。


 そして少女が鼻歌を歌いながらパンのバスケットを並べに向き直った背中を見つめながら、ニコは小さく肩をすくめて、自分にだけ聞こえる声でそっと呟いた。



「……うん、やっぱり『盗みをやめる』のは明日からにしよう。だって今日はどうしても、あの子のハートを盗まなきゃいけないからね」



【完】


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また次の物語でお会いしましょう!ボナペティート&グラッツェ!


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