2、彼との出会い
遡ること十数年前ーー。
結がまだピカピカのランドセルを背負っていた小学1年生の2月。
自宅のマンション前に着いた結は、オートロックの自動ドアを開けようと、ランドセルの中に手を入れ、共働きの両親に持たされている鍵を探した。
「こんにちは、今日も寒いねぇ。」
後ろから声をかけられ振り向くと、年配の女性がにこにこと微笑んでいた。
「こんにちは!」
結も元気に挨拶をした。
学校の先生や両親から、知らない人とは絶対に話さないよう口を酸っぱく言われているため、結は普段誰かに会っても挨拶をしないが、彼女は数少ない例外だった。
彼女は母の知り合いで、同じマンションの村田さんと言うらしい。
母と話しているところを何度も見たことがあるし、結を見かけるといつも挨拶をしてくれるので、結も挨拶をするようにしている。
「今日は最高気温0度だってね。珍しいよねぇ。寒くて困っちゃうねぇ。」
彼女の言う通り、結が暮らすこの地域は特段寒いわけでもなく、冬でもここまで気温が下がるのは珍しい。
彼女は手袋を外すと、結の代わりにオートロックの鍵を開けた。
結は彼女と共に、マンションの中に入った。
「それじゃあ、またね。」
彼女はゆっくりとした足取りで彼女の暮らす部屋の方へと去っていった。
彼女は1階に暮らしているため、いつもエレベーターには乗らずに去っていく。結は2階に住んでいるため、エレベーターのほうに向かった。
エレベーターで2階に上がり、自分の家の前に着くと、結はもう一度ランドセルを探り、家の鍵を探した。
(あれ?)
いつもはランドセルの決まった場所に鍵を入れているが、そこに鍵は無かった。
(うそ…)
結は慌ててランドセルの中の他の場所を探したが、どこにも鍵が見当たらない。
必死で記憶を探ると、あることを思い出した。
いつもは帰宅後すぐにランドセルに鍵を仕舞うが、昨日は、鍵に付けているキーホルダーを最近流行っているキャラクターのものに変えようと思って、自分の机の上に置いたままだった。
結の両親は共働きで、比較的帰りが早い母でも、帰ってくるまであと何時間もある。
学校に戻って先生に連絡してもらうことも考えるが、もし先生がいなかったら、マンション内にも入れなくなってしまう。
この寒さの中、屋根がないマンションの外でずっと待ち続けることだけは避けたい。
まだ幼い結は、結局部屋の前で親を待つ判断をしてしまった。
マンション内とはいえ、部屋の前の廊下は吹き抜けで、辛うじて屋根はあるが、横から入る冷たい風は防げない。
結は、部屋のドアの前に腰を下ろし、ランドセルを抱きかかえた。
どこからか足音が聞こえる度に、母が帰ったのではないかと期待するが、その期待は毎回打ち砕かれた。
時計がない結には、どの位時間が経ったのかも、あと何時間位で母が帰って来るのかも分からない。
とても不安な中、結はただじっと外を見つめていると、空から小さくて白い粒状の物が落ちてきたのに気が付いた。
何だろうかと不思議に思い、廊下の手すりのほうに近づいて空を見上げてみると、それは雪だった。
(すごい!雪が降り始めるところ初めて見た。)
最初は感動して、手袋をした手を上に伸ばして雪を掴もうとしたり、手を広げて雪が落ちてくるのを楽しんでいた結だが、雪の粒はどんどん大きくなり、風も強くなって廊下の中のほうまで雪が降り積もるようになってしまった。
手の平で受け止めた雪は解けて水になって滴り、廊下の地面を濡らした。吹き抜ける北風は強さを増すばかりで、弱まる気配がない。
最早ここに留まるのは得策とは思えず、結はとぼとぼと一階のエントランスに向かった。
エントランスも廊下と同様に吹き抜けになっている。寒いことに変わりはないが、直接風が当たらない場所のため、廊下よりは幾分か暖かかった。
結は安心して中央のソファに腰掛け、ランドセルを抱きかかえた。
最初からエントランスに来ていれば良かったのだが、同じマンションの住人とは言え、知らない人が通るので、まだ幼い結はこの場所が少し苦手だった。
悪天候のためか、いつもより住人の出入りは少ないが、結は誰かがエントランスを通る度に、もし悪い人だったらどうしようかと不安に襲われた。
結は、このマンションで唯一の知り合いである村田さんが戻って来てくれないかと期待していたが、残念ながら、そう都合良く現れてはくれなかった。
(村田さんのお部屋の場所を聞いておけばよかった…)
身体が芯から冷えて、結は奥歯がガタガタ言い始めていた。寒さで耳が痛くなり、両手で耳を覆ったが、その手の指も痛いような痒いような不思議な感覚がし始めていた。
(身体がおかしい気がする、怖いよ。)
心細くなった結は、涙が出そうになり目を閉じた。
すると、ウィーンとオートロックの自動ドアが開く音がして、ランドセルを背負った男の子が入って来た。
(この子、見たことある。)
結は、彼の整った顔立ちと、スラッと背が高い容貌に見覚えがあった。
以前何度か、家が近い子供達で集団登校した際に、彼の姿を見かけたことがある。
マンション内で会うのは初めてだが、結は母から、このマンションに同じ小学校に通う6年生の男の子がいるらしいと聞いたことがあったので、すぐにそれは彼のことだったのだろうと分かった。
(どうしよう、お母さんを家で待たせてくださいってお願いしてみようかな。でも話したことないし…)
結が迷っている間に、彼は結を一瞥し背を向けると、小走りでエレベーターのほうに向かい、そのままエレベーターに乗っていなくなってしまった。
もしかしたら助けてもらえるかもしれない、と期待したぶん、結は余計に悲しくなってしまった。
結が下を向き、必死で涙を堪えていると、急にエレベーターのドアが開き、ハアハアと肩で息をしながら先程の男の子が降りてきた。
彼はずんずんと結の目の前までやってくると、結と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「僕、京人。6年1組。1年生の子だよね。鍵忘れちゃったの?」
結は彼を見つめて、こくんと頷いた。
その瞬間、ずっと我慢していた涙が結の両目からぽろぽろとこぼれ落ちた。
先程までは奥歯がずっとガタガタ言っていたが、今度はしゃくり上げて喉がヒクヒクと鳴りだした。
結は、何か言わなければと必死で考えたが、考えれば考えるほど、何も言葉にできなかった。
結の様子を見て色々と察したのか、京人は下を向いて「そっか…」と呟いた。
暫く何かを考えるように俯いていた京人だが、急に意を決したように顔を上げ、結の目を真っ直ぐ見つめた。
「一緒にうちに帰ろう。今日はうちもお父さんとお母さんがいないんだ。1人だと怖いから、一緒にいてくれる?」
そう言って微笑む京人は悪い人には見えないが、結は、先生や親から知らない人について行ってはいけないときつく言われている。
とはいえ、もしこの誘いを断って京人が行ってしまったら、また独りぼっちになってしまう。
それだけは絶対に嫌だと思った結は、何も言えずに俯いた。
すると、京人はうんうん、と頷いた。
「分かるよ。先生に言われてるよね、知らない人について行くなって。」
すると京人は、自分の小指を立てて結のほうに差し出した。
「でも、約束する!僕ぜったい嫌なことはしない!」
京人の必死の様子に、結は心を打たれた。
(知らない人の家に行くのはすごく怖い。でも、この子は怖くないと思う。)
「分かった、一緒に行く。」
結は手袋を外して自分の小指を立てると、京人の小指の先にほんの少しだけ、ちょん、と触れた。
「ありがとう!」
京人は心底嬉しそうに笑って、結の小指に自分の小指を強く絡めた。
「じゃあ、約束ね。」
そのまま京人は結の手を強く握ると、反対側の手で結のランドセルを持って、ずんずんと自分の家のほうに向かった。
(もしお兄ちゃんがいたらこんな感じだったのかな)
結は嬉しそうな京人に手を引かれながら、そんなことを考えていた。




