3.小鬼たち
車は集落の外れにある高台で停車した。見晴らしが良く、田舎の風景を眺望できる一等地であった。
真澄を乗せた車体は、エンジンを停止した際に、一瞬大きく振動し、すぐに静かになる。当然の静寂。真澄はハッと顔を上げた。
本に熱中していた少年には、途中から車がどこを走っていたのか、今自分が何処にいるのかも分からなかった。
「着いたぞ」
父はドアを開けてぶっきらぼうに言い放つ。少年はびくりと肩を振るわせた後、はい、と小さな声で呟いた。
真澄は両腕に力を込めて、車のドアを開けようとするも、小さく細すぎる少年には難しい。
悪戦苦闘しながらも、体当たりするような形でドアを押して、何度目かの挑戦でやっとドアは開いた。
転げるように車を降りた瞬間、少年を出迎えたのは、さらさらと風に揺れる青葉の囁きと、土や草の甘やかなにおいだった。
真澄は、都会では感じられなかった自然の息遣いに、その目をわずかに輝かせたのも束の間、父の姿が見えない事に気が付いた。
辺りをきょろきょろと見回すと、約50メートル前方に、すでに扉の開け放たれた、瓦屋根の日本家屋が建っていた。
その家は木造の数奇屋造りをしていて、急勾配の切妻屋根と、格子の付いた向拝付き玄関が、堂々とした雰囲気を醸し出している。
真澄はリュックを引きずるように手元へ寄せて、急いで本をリュックに詰めると、ショルダーベルトを肩にかけた。そして、その重さに僅かに身じろぎながらも、車のドアを閉めて、父の居る家へと向かって行った。
恐る恐る少年が玄関へと足を踏み入れると、畳六畳程の土間が真澄を出迎えた。
「おじゃまします」
見たことのない広さの土間玄関に、真澄は驚きながらも、礼儀正しく挨拶を済ませ、土間の右隅で靴を脱いだ。式台に足を乗せると木の軋む音が微かに響く。靴を揃えると、取次を超えて部屋の奥へと進んで行った。
かつて、祖父と父が住んでいた家は、築七十年が経過しており、濃い飴色に変化した柱や梁、漆喰壁のひび割れや、床板の剥がれ等、過ぎ去った年月の長さを感じさせた。
屋敷は古びていたが、二人が住むには充分過ぎる程、豪壮な造りをしていて、風呂場やトイレ、台所は修繕をされており、今でも何不自由なく生活できる環境であった。
真澄はきしきしと音を立てる色の禿げた縁側を進みながら、一部屋一部屋襖を開けて父の姿を探していた。
少年がふと外を眺めると、やや白んだ硝子戸から見える庭には、冬になれば爛漫と美しく咲き誇るであろう、牡丹の木々が庭一面に植え付けられ、その葉は光を受けて青々と輝いていた。
広い客間には一枚の掛け軸が飾られていた。
それ以外の物は何一つ無く、がらんと広い空間の中で、その掛け軸のみが強く存在を主張している。
真澄は、吸い寄せられるように近づいて行く。
そして、しばらくその作品から目が離せなかった。
ーー赤い着物に身を包んだ一人の娘が描かれている。
爛漫と咲き誇る大輪の牡丹の花々を背にして、小首を傾げ、優艶たる笑みを浮かべていた。
濡羽鴉の豊かな髪に、妖々と炎が揺らぐ紅の瞳、ふっくらと濡れた小さな唇。
女の肌は、蚕の腹のように蒼白く、冷え冷えと冴えていて、まろやかな頬は幼い輪郭をしていた。
一見すると美人画である。しかし、幽霊画とも見て取ることが出来た。
銀朱、鉄紺、黄朽葉、黒鳶。
少女の頭程の大きさの、角の生えた無数の化生が、彼女の足や腰、腕にしがみついて、少女の顔を一様に見つめている。
それは酷く醜怪な姿をしていた。
乱れ逆立ったざんばら髪に、瞼の無いぎょろりと飛び出た白濁の目玉、耳元まで裂けた口からは、剣山のようにびっしりと鋭い牙が乱立し、歯を剥いて笑っているような表情を見せている。
それの身体は、前面から肉をえぐり取ったように痩せさらばえているものの、腹だけはカマキリのように異様に膨れ、枯れ木のようにか細い手足には、研ぎ澄まされた刃のような鉤爪があった。
それらは、娘に縋るように、守るように、その裏若き体にへばり付き、女の着物の赤も相まって地獄の業火から這い出た餓鬼のように思えた。
触れるのを憚るほど悍ましく描かれた無数の化物に対して、真澄は不思議と恐怖心は無く、ただ、ただ、そこに居る美しい娘に触れたいという強烈な思いが胸の中で膨れ上がっていた。
真澄は無意識に少女に向かって手を伸ばす。
そんな様子の少年を、掛軸の中に居る女は、上目遣いでじっと見つめ、誘うように、芍薬のような唇を笑みの形に結んでいた。
あぁ、触れてみたい。
――鮮やかな紫光りの黒髪に、白磁のまろやかな頬に、紅椿のような赤い唇に。
絵にも関わらず、そこに描かれた娘はまるで生きているように生々しく、肌の質感や、髪の毛一本一本に至るまで、狂気的といっても過言ではない熱量で描き込まれていて、少年は、まるで目の前に生きた少女がたたんずんでいるような心持ちになっていた。
少年は口の中に溢れ出る生唾を飲み込むと、
右手を少女のまろい頬に向かって差し伸ばして行く。
真澄の鼓動は強く高なっていた。後数ミリで人差し指が少女に触れる――その時だった。
絵巻の中の鬼達の頭がぐるりと周り、無数の瞳が真澄を強く射抜いた。
「…っ!」
――1匹残らず全ての鬼が、小さな少年を睨み据えている。
彼にまっすぐ焦点を当てる白濁の澱んだ瞳は、枯れ井戸のように深く暗く、しかしその奥では、瞋恚の猛火が激しく燃え上がっていた。
あまりの出来事に、ただ茫然と立ち尽くす少年は、胸の奥で警鐘が鳴る音を聞いていた。彼のか細い肩が小刻みに揺れる。
地表に縫いつけられたように動かない足を急かそうとでもいうのか、鐘が勢いを増して狂ったように鳴り響いている。
冷たい汗が背を滑っていくのがわかった。掛軸の中で一匹の鬼が、少年を睨め付けながらゆっくりと動き、続いてもう一匹が口を大きく開き、甲高い叫び声をあげた瞬間、呪縛が解けたように彼は踵を返して駆け出していた。




