第60話 ヘイヴンでの生活
カーテンの隙間から入り込んだ朝日(と言っても人工太陽灯だが)を浴びて、スノウドロップは穏やかに目覚める。
隣を見るとスティーブンは姿はない。もう起きているのだろう。ベッドにはまだ彼の温もりが残っていた。
〈ヘイヴン〉の機能が完全に復旧するまでの間、スノウドロップはスティーブンと共に、この家を借宿として使っている。
キッチンに行くと、スティーブンが朝食を作っていた。
「おはよう、スノウドロップ」
「おはよう、スティーブン」
二人は笑顔を交わした。
「まだ寝てても良いんだぞ。昨日は訓練にかなり熱が入っていたからな」
「大丈夫よ。とても気持ち良く眠れたから、疲れはもうないわ」
食卓に朝食が並ぶ。ベーコンエッグに野菜のスープ、それにパンだ。
アレックス・シールドが無属性の人々を助けるための結成した〈白い盾〉のメンバーである、スティールとピジョンが生活物資を入手してきたおかげで、〈ヘイヴン〉の生活水準がさらに改善された。
幼いころにマリアがサンドイッチを作ってくれた事を思い出す。 愛してくれる人が作った料理は、栄養以上の活力を与えてくれる。
「今日は対抗の魔法の訓練を休んで釣りに出かけようと思うの」
「この時期ならグレイリング(※サケ科の川魚)あたりが釣れるはずだな。俺も一緒に行くよ。久々に釣りをしてみたくなった」
「釣りが趣味だったの?」
「10年くらいハマってた時期があって、海にも川にも行ったし、ルアーとかフライとか大抵の釣り方もやってたよ。そうそう、マグロの一本釣りもやったな」
前に、スティーブンの世界でのエルフは多趣味な人が多いと聞いた事がある。
以前にドレスをデザインしてくれた事がある。今回の釣りもそうだが、スティーブンという男にはたくさんの意外な一面がある。スノウドロップは彼のそういうところが魅力的だと感じた。
「普通の釣り方でも良いけど、川釣りならフライフィッシングに挑戦してみるか? 俺が教えるよ」
「そうね。せっかくだから、そうさせてもらうわ」
スノウドロップとスティーブンは、朝食の後に〈ヘイヴン〉の近くにある川へと向かった。
冬の寒さは厳しく、二人はおそろいの色のコートに身を包む。
数日前に雪が降って、あたり一面が銀世界だ。今日は快晴で日光を浴びた雪がキラキラと輝いている。
世界が美しく見えた。そう感じられる心の余裕がスノウドロップにあった。
目的の川に到着したら、釣りに必要な道具をスノウドロップがオリハルコン生成で作る。
「これでどうかしら?」
「うん。いいね。早速はじめよう」
普通の釣り方と異なり、独特の動きで疑似餌を操るフライ・フィッシングは、かなり難しかった。はじめは、釣れるどころか、魚を疑似餌に食いつかせる事すらできなかった。
でも、スティーブンが丁寧に教えてくれたおかげで、スノウドロップはわずかながら上達していった。
「いいぞ! その調子だ!」
「やった! 釣れたわ!」
釣り上げられた銀色の魚が日光を浴びて光り輝く。
その魚は大物には程遠く、平均よりも少し小さいくらいだったが、それでも初めての釣果の喜びは格別だった。
結局、スノウドロップは釣れたのはその1匹だけで、大半はスティーブンが釣った。
少し残念だったが、嫌な気持ちではない。むしろ一生の思い出にしたくなるほど美しい体験だった。
これと同じくらい素晴らしい思い出を、スティーブンと作っていけると思うと、自分は今、本当に幸せなのだとスノウドロップは実感できた。
釣った魚のグレイリングは鮮度が落ちやすいので、生かしたまま川の水と一緒にバケツに入れて持ち帰る事にした。
「どうやって食べようかしらね」
「そうだなあ。シンプルに塩焼きでも良いけど、寒いから煮込み料理にするのもありだな」
そんな風に話しながら帰ると、家の前で数人の男女が待っていた。
「スティーブンさん。話があります」
「デイビットか。どうしたんだ?」
デイビットと呼ばれた男と、その周囲にいる者達をスノウドロップは知っていた。
(無属性だからと自分達を差別した人々に復讐したいと考えている人たちだわ。そのせいでスティーブンから無属性魔力の使い方を教えてもらえなかった。一体、何のようかしら?)
まさか、無理矢理にでも自分達に無属性魔力の使い方を教えろと脅しに来たのだろうか。スティーブンが彼らにやられるはずなど無いが、スノウドロップは警戒する。
「俺達はもう復讐しないと誓います。だから無属性魔力の使い方を教えて下さい」
デイビット達は一斉に頭を下げた。
「復讐を諦めた理由を聞かせてくれ」
スティーブンの目は、彼らの本心を知ろうとしていた。
「この間、十騎衆が襲ってきた時に思ったんです。きっと同じような事はこれから何度も起きる。復讐するよりも、世界で唯一、俺達を対等に扱ってくれる場所を守るべきだって」
「君達の中に、まだ憎しみは残っているか? 力があれば、すべての有属性保有者を滅ぼしたいという気持ちがわずかでも残っているか?」
問われたデイビットは、少し考えた後、答えた。
「俺達を差別した奴らはまだ憎い。でも憎いのはそいつらだけです。〈白い盾〉の人たちのように、俺達を対等に扱ってくれる有属性保有者を憎むほど俺達は馬鹿じゃない。それに」
「それに?」
「そう遠くない未来に、俺達が生み出すオリハルコンなしじゃやっていけない時代が来る。差別してきた奴らへの復讐はそれで十分ですよ」
かすかに笑みを浮かべるデイビットの目に、憎しみの黒い炎は宿っていなかった。彼の言葉は真実だとスノウドロップは感じる。
「君達の気持ちはよくわかった。そして信じよう。明日、訓練所にくるといい」
「ありがとう、スティーブンさん」
デイビットに続き、彼の仲間達もスティーブンに感謝を伝える。
そのやり取りをスノウドロップは黙って見守っていた。
デイビット以外の人たちも、特に憎しみに囚われているようには思えなかった。
「さて、さっそく釣った魚を使って昼にしよう」
「そうね」
彼らが去った後、スノウドロップとスティーブンは釣った魚を調理して昼食を作る。
二人で相談し、煮込み料理にした。
何種類かのハーブを使って香り高いスープが出来上がった。
こんな風にハーブや香辛料を使った料理ができるのも、スティールとピジョンが大量の生活物資を調達してきてくれたおかげだった。
以前の〈ヘイヴン〉では塩すらも貴重品で、味付けされていない肉や野菜を食べていた。
そんな生活を送っていたせいで、〈ヘイヴン〉の住民達の心は荒む一方だったが、今は心が満たされる食事を口にできる。それどころか、今日の献立に悩むというささやかな贅沢すら楽しめるようになった。
「いずれここを去るつもりだったが、その前に唯一の心残りがなくなって良かったよ」
「デイビット達の事を気にかけていたのね」
「彼らの気持ちもわかるからね。後は〈ヘイヴン〉の修復が終わり、スノウドロップの”仕返し”が終われば、この世界にいる理由もない」
その時、スティーブンは何かを言おうとしたが、すぐには口に出せなかった。
「それで、その、この世界を去るまでに、君の気持ちを改めて聞かせてほしい」
「ええ、もちろん」
スノウドロップは笑顔を浮かべた。
「でも、聞くからにはちゃんと準備してね。それにムードも大事にしないと」
「そうだな。準備は絶対必要だし、ここぞという時に聞かないと、台無しだからな」
「その時を楽しみにしているわ」
昼食の後、二人はそれぞれの時間を過ごす事にした。
「俺は午後に狩りへ出かけるよ。〈ヘイヴン〉の安全のために、周囲の魔物はある程度間引く必要があるし、魔物の肉は意外と美味しいからな」
大量の生活物資が手に入った後も、牛や羊より魔物の肉が好きという者はそれなりにいたりする。
「私はルーシーの様子を見に行くわ。何か手伝える事があるかも」
昼食の後、狩りに出かけるスティーブンを見送ってからルーシーのもとへ向かった。
手土産に紅茶を保温ポットに入れ、お茶請けのクッキーを包む。
彼女は今、〈ヘイヴン〉内のとある建物にいる。
その建物にたどり着くと、中から若い男がしょんぼりとした様子で出てきた。その手には素朴な野花が握られている。
(ああ、またね)
男はよほど落ち込んでいるのか、スノウドロップに気づかず去っていった。
彼の背中を見送った後、スノウドロップは建物に入る。
そこには壁一面に大型モニターがあり、また無数のコンピュータ端末が並んでおり、司令所といった雰囲気だった。
無数にある端末の一つを使って作業するルーシーの姿を見つける。
「ルーシー」
「どうしたのスノウドロップ」
「ちょっと様子を見にね。邪魔だったかしら」
「ううん。ちょうど休憩しようと思ってたところ」
二人はちょっとしたお茶会を開いた。
「さっき、あなたに振られた人とすれ違ったわ。これで7人目かしら」
「いえ、9人目よ……あれ、11人だったかな? あまり覚えていないわ」
これまで玉砕してきた男達が少しだけ可哀想に思うスノウドロップだった。
「ルーシーは恋に興味ないの?」
「そういうのは前の人生で満喫したからね。男の中で私が愛したいと思うのは、前世の夫だけよ」
「一途なのね。私もそういう気持ちをスティーブンに持ちたいわ」
「何言ってるのよ、もうあなたは一途よ。見てるこっちが照れちゃうくらい相思相愛じゃない」
「そう? 良かったわ」
愛に対しては誠実でいたいと思うスノウドロップは、ルーシーの言葉に自信を得た。
ふと、壁の大型モニターに目を向ける。そこには〈ヘイヴン〉のが修復進捗が示されていた。
「順調のようね」
「〈ヘイヴン〉の自動修復システムを制御する、このメンテナンスセンターは完全に復旧したわ。何か不具合がないかしばらく見守る必要はあるけど、基本的には修復が終わるのを待つだけね。ただ……」
ルーシーには何か懸案事項があるようだった。
「私がここを去った後に、保守点検をする人は必要よ。自動修復システムは同じのが二つ並行稼働して、片方が故障しても、無事な方が直すから滅多な事じゃもう〈ヘイヴン〉は機能不全にならない。でも、修復システムが二つ同時に破損する可能性はゼロじゃないわ」
「実際にそれが起きたからこそ、ルーシーが直さないとダメだったものね」
「だから私の後任を探さないと」
スノウドロップ達は〈ヘイヴン〉に手を差し伸べた。そうした以上、果たすべき責任を果たさねばならない。
「それは誰にしてもらうの?」
「エヴァンズ夫人にお願いするつもりよ。彼女しかいないと思う」
「確かにね」
この世界で〈ヘイヴン〉の保守を任せられる人間といえば、彼女しかいない。
他にいるとすればエマくらいだが、今は敵だ。
「改変前の時間軸では『無属性の真実』とランディール達の行動を教えたら味方になってくれたから、今回もそうしてくれるはずよ。今の仕事に区切りが付いたら、〈ヘイヴン〉に来てくれるよう、私から説得するつもり」
その時、会話に割り込む者がいた。
「ルーシーよりアレックスが適任よ」
見れば、いつのまにかアカシックがいた。
「相変わらず神出鬼没ね。私よりアレックスさんがというのは、またバタフライエフェクト関係かしら?」
「ええ、そうよ」
アカシックは手近な椅子に腰掛ける。
彼女にもお茶を出した方が良いだろうかとスノウドロップは思った。ポットにはまだお茶は十分残っているが、しかしカップは自分とルーシーの分しか持ってきていない。
そんな事を考えると、アカシックは指を鳴らして、自分の分のお茶を出現させ、何事もなく飲み始めた。
「改変前の時間軸でエヴァンズ夫人が〈ヘイヴン〉に参加したのは、半ば感情に任せた行動なの。手塩にかけて育てた養子が、スノウドロップ暗殺に加担していた怒りに突き動かされた結果よ」
「もしかして、スノウドロップが生きているから、エマの裏切りに対する怒りが小さくなる?」
アカシックは「察しがいいわね」とルーシーに笑みを浮かべた。
「そうよ、ルーシー。『無属性の真実』をただ伝えただけだと、エヴァンズ夫人は自分は王国に残って社会の意識を変えるべきだと判断してしまう。それを覆すには別の情に訴えるしかない。アレックスと彼女の間にわずかだけ残ってる愛という情にね」
アカシックはお茶を飲み終えると立ち上がる。
「話はこれでおしまい。最後にこれをあなたに渡しておくわ」
彼女はスノウドロップに一通の手紙を差し出す。
「マリアからの手紙よ」
「お姉様から? あなたがなぜ?」
「そのあたりの詳しい事は手紙に書いてあるわ。それじゃあね」
現れた時と同じように、アカシックは瞬間移動で忽然と姿を消した。




