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時代に急かされて

高倉宮=以仁王

今上=高倉天皇

言仁(ときひと)皇子の誕生から年が明けて1179年は7月に比叡山の闘争への介入、敗走があった。しかしその頃に同じく

「小松内大臣(平重盛)が世を去った?へぇ。」

吉次は言った。元々軍勢を持って国を動かす入道相国とそれを快く思わない諸々の勢力の間の仲裁で気苦労が絶えなかった。内大臣を辞めて熊野詣にゆき、帰ってきてから数日で。死期を悟っていたのかも知れない。齢43。

「でも人望のある跡取りが居なくなるって、きついよね。入道殿も老年としでしょ。」

とはいえ平家の天下は続くのではないか、そう思う。貴族や僧兵が天下を支える平家に代わって担ってゆけるものか。仮に担えるものを、、、というのであれば、、、

「源義朝の嫡男、、、なんといったっけな、、、関東にいたか。」

それと自らが奥州藤原氏のもとに連れて行った九郎(義経)の顔が浮かんだ。


「、、、、、、、」

震えている。声も出さずに泣いている。重盛よなぜ親に先立って去ってゆくのだ。つい数か月前に御子の誕生を祝ったではないか。時子はひたすら念仏だ。悲しみは男親の比ではないのだろう。その証拠に頭のどこかで政治日程を考えている。

そのような士気の揚がらない調子で堂衆合戦は撤退となった。そこから怒涛の展開が始まる。関白藤原基房以下、公卿、殿上人43人の大量追放、後鳥羽上皇の幽閉である。やんごとなき人々が官職を解かれて九州や関東や中部地方に流される。例がないわけではないがこれほどの規模は前代未聞だ。

法皇の幽閉はより衝撃的だった。住居、法住寺殿を兵でぐるりと囲んで移動を要請した。

「平治の乱の時に藤原信頼がしたように焼くつもりではあるまいな、、。」

それはなかったが危険を感じ、屋敷の使用人達が次々逃げてゆく。そうこうしているうちに平宗盛右大将が牛車で乗り付けて

「鳥羽殿へ。多事な時勢なのでそこでお守りします、との事です。」

「ならば宗盛!供をせい!」

と言うと父の命令にないからともじもじしている。この程度の男が偉そうにいうなと怒気が湧いてきた。

重盛亡き後はこのようなぶつかり合いが増えるのか、なんのために安産を祈ってやったと思うのだ。

武士に囲まれ京を眺める六波羅の法住寺殿から七条大路を西へ進み、朱雀大路にあたって南に下り京を後にした。

「ああ、法皇様があんなに引き立てられるように伏見の鳥羽殿に、なんてお痛ましい。」

身分の低い老若男女がどんどん集まってきてただ見ている。巨椋池や平等院あたりの寂しい場所がこれからの法皇の住まいだ。流石にこれはやりすぎではないかという声が出始める。


「いつまでもこの清盛がいるわけではないのだぞ、宗盛。」

日嗣の皇子は生まれた、しかし次期の棟梁がいなくなった。未来に向けて引き締めて進む時期が来ているのだ。次代に引き渡すためにあらゆることは急いで行う。悪名も気にしない。なぜなら必要なことをしているだけだからだ。

そうして決めていたことが済むと福原京の別荘に移っていった。京の全権は宗盛。もう邪魔になるような勢力は公卿・殿上人には残っていない。

「今上のいうことをよく聞き政治を執れ(今上も逆らう気もない、が)。」

と言われた宗盛が参内すると高倉天皇は

「法皇から禅譲されたのならともかく、何を言えというのか!そちらで決めろ!」

と不機嫌そうに言った。それをひそかに伝え聞き、ギッと奥歯を鳴らした者がいる。以仁王だ。


「医師問答」~「城南離宮」

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