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信濃国の山猿

1183年のこの頃、中国の王朝は宋だった。趙匡胤が興したこの王朝は早い時期に戦闘で黄河上辺を異民族王朝、遼に占領され1005年セン淵の盟を結び年絹20万匹、銀10万両で平和を「買う」事となった。しかしこれは宋にとっては安い買い物で王朝の1つか2つの町から納められる税の額でしかなかった。この契約は100年以上守られ宋は繁栄し続けた。それだけ周りと比べて豊かな国だったのだ。この豊かさ溢れる大陸との貿易を促進すべしと考えたのが平家、無関心だったのが源氏、貿易の日本側の最大の商品である金を生み出していたのが奥州藤原だ。

平家は瀬戸内海諸国の国司職を早くから握り、浪速〜大陸へのラインを保護し、国内の奥州への古着等の取引で得た黄金で大陸の物品や宋銭を商人に決済させる。そして東アフリカ黄金海岸〜宋朝寧波に至る貿易潮流を国内により強く導く事で中世初期の日本を形作っていっていた。

源氏は次の穀倉地帯になりつつあった関東平野を握り東から対抗してゆく。

そしてこの2つにそれぞれに付き合っていた交易国家陸奥国(福島から青森までの広い世界+十三湊、吹浦の遼や高麗に繋がる港あり)。

この中で戦いは続いてゆく。


平貞能、、、、平家の家令。平清盛の「専一腹心の者」と言われた。保元・平治の乱にも参加した古強者。

横田河原、、、、長野市千曲川西岸

下野国も3月になると田植えの準備に忙しい。丸い田には去年落ちた葉っぱが厚く積もっている。それを掘り起こす大変な重労働。水路の見回りもする。今年は梅の花も山桜も咲き誇った。祖霊おやも気合が入っているのだろう。

「与一!ここにおったか!」

兄が走ってくる。汗を拭きながら迎える。

「お前、源氏に合力すると言っておったらしいが、本当か?兄は皆、平家へ合力しておるのだぞ!」

「源氏に行く。何せ畠山兄弟の重忠も源氏へ、だからな。それに奥州から九郎という将もきたらしい。坂東だけでなく東海、奥州、がまとまったなら行くべきだろ。」

「洲俣では負けてるぞ。」

「なら、俺の尽力で勝ちに向けるさ!」

11番目の末子ともなると気楽なものだ。那須基隆は与一を見た。特に情勢を見て考えている様子はない。


「勝ったか!」

平宗盛は喜色を浮かべた。父が世を去りどうなるかと思ったが、幸先が良い。父清盛が倒れて沙汰止みになったが、「棟梁の我が総大将として頭に立ち、関東を平定する!」と宣じたのが勢いを呼び込んだのかもしれぬ。馬面を綻ばせる。この調子で行こう、まずは知盛が帰ってきてから戦勝の宴だ。

洲俣合戦が行われた4ヶ月後、6月、越後国住人城太郎助長が越後国守に任命された。つまりは木曽義仲を討つのは助長すけなが、というわけだ。越後国は大和朝廷の北上に伴い耕されいくつもの柵が設けられ民草が増えてきた土地、やがて蝦夷対策の拠点となった地方、その国の有力者城氏。戦力は十分だ。

「木曽義仲が如き他郷の合力は不要、吉報を待たれよ。」

気力も十分に大兵を率い出発した助長は、しかし、その直後に突然倒れ帰らぬ人となった。3万を動員出来る越後の大立者の死は平家の北国・東国軍略に大きな穴を空けた。

この助長の頓死は、世間では出立した助長の軍勢の上に黒雲が湧き大雨が叩きつけられこの世のモノと思えない声が響いて助長が死んだと噂された。もちろん、噂は不確かなものだが、浅い眠りで夜を過ごしていた近代以前の時代の人々の現実の認識は現代とは大きく異なる。立ち込める黒雲からたたきつける大雨に確かな声を聞き、強い意思を感じたのだ。紛れはあるにしても「かえって世を乱す平家に味方した将が天から罰を受けた」のは当時としては事実として広まっていった。


「四郎、天佑だな。」

木曽義仲は今井兼平に言う。越後の城助長といえば信濃国木曽の地理にも詳しい。その精兵3万はキツイ戦いになっただろう。それが避けれた。2月の平宗盛の関東出陣宣言を伝え聞いた時には、絶好の機会と喜んだところに清盛の死での頓挫。まだその時ではないのかと思っていると手強い助長の出馬。身構えていると頓挫。危機は遠のいたが、戦機を主体として掴めない自分達を思い知っている。

「だが機会を待つ者にはいつまでも流れは来ない!ということではないか。こちらから動け、ということだろうが。」

平家の中心清盛は最早いない。今、ではないのか。

「次郎殿、信濃国四つの野を区切る山のようにどっしりと待てば良いのです。」

「四郎、この義仲の戦は木曽川の如く出会うモノをことごとく押し流す(怒涛)の勢いが本分よ。進んで戦機を取る!」

義仲が自分の意見を押し返すなら今井はもはや何も言わない。ただ従って力を尽くすのみ。

「では、今年は用意をしましょう。京は米不足です。つわものを集めて動けるのは来年で。」

「良し!」

畿内ではない国のしんどさか。


平家の切っ先が変わった。

7月には平貞能が九州の動乱を鎮めるために筑前・肥後国守として西に向かう。頼朝が動けないことを見越して大宰府を再び押さえて九州沖〜瀬戸内海の航路の安定を取り戻す。交易で潤う商人達の要望は疎かにできないのだ、圧倒出来る清盛は居ないのだから。木曽を睨みながら切っ先を九州へ。対木曽の後任が決まらない中、軍勢を分ける。危うい二方面だ。

「まだ信濃国が収まっていません。畿内に危機が来るのは避けねば。まずは木曽を。」

元は越前国住人斎藤実盛は宗盛に献策するが、聞かれない。木曽は思うよりも京に近い。地理を知るからこその意見だ。

「浪速から福原、大宰府そして震旦ちゅうごくに抜ける航路は確保せねばならぬのだ。」

実盛とは違い、対宋交易がどれほどの重みを知る宗盛は木曽が前に出ない内に西を何とかしたい。商家を抑え「畿内があれば良い」と言い切り、木曽を討ちそしてなお関東の足が動かないのを見て西へ、と順序をつけた父のようには出来ない。

九州へ軍勢は出立した。時流の巡り合わせで北陸・関東ともに用意に徹し、実盛の心配は外れ、1181年は東に動きは起きなかった。この年、治承は養和に改元。天下の安定が祈願された。

明けて1182(養和元年)年、ようやく越後守が決まった。城助長の弟、助茂すけもちである。5月にまた改元があり、寿永となったすぐ後に何とか決まった。改元の効果があったのかもしれない。しかし時をおいて木曽の用意もできている。助茂は憂鬱であった。

「心機一転、改名するか。」

城長茂とした。9月越後・出羽国の他に会津四郡にまで声をかけ4万を以て信濃国に進んだ。9月9日、横田河原に陣を敷いた。

それに対して依田城を発した木曽勢3000。しかし西岸の陣から見る軍勢は思ったより少なく見える。

「山から出てきたうろつき猿のようだな。」

遠目でまばらな軍勢を見ていると、食べ物を探りほっつき歩く猿の群れを思った。少ない数でのんびり動いているように見えた。しかし、猿ではない木曽勢はすでに策を講じていた。それはこの戦場をどう彩るのか?



与一、、、、十一郎という意味の名

城助長、、、、城資長ともいう。

浅い眠りで夜を過ごしていた時代、、、、「失われた夜の歴史」を読んで


「嗄声」

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