陽が燃え尽きるなら
中世と言っても全てが停滞していた、分割の時代というわけではない。むしろ古代→近世近代という広域な権力体が切り替わる為の長い準備期間であったと思うべきだろう。ローマ帝国崩壊後の1000年でゆっくりキリスト教はヨーロッパの宗教となった。AC1000年段階では「西暦」なんて有るだけでほぼ誰も使ってなかったし、信仰はしても聖書の内容も知られていなかった。ギリシャ哲学は書庫に死蔵され、1200年代のイスラム圏との接触で逆輸入され、ようやく神学との融和が図られ始めた。しかし徐々に農業技術は発達し、土地の生産力も回復していた。ローマの遺跡が打ち捨てられて人が住まなくなった平野部、不便な土地に分断されて生きる人々。そんな中でも未来に向けての歩みは遅々としてながら続いていた。
日本では中世は院政の開始〜徳川幕府の成立までの500年間が中世となる。因習と迷信に囲まれながら、中国との交わりは続いていた。民間では寺院が船を仕立てて対中貿易を始めていたし、倭寇(国際武装交易同盟)も出現する。宗教者達は信仰をもとに募った銭を投資して道や橋、津の建設を盛んに行っていたし、儲けた商人は再投資・寄付をするかしないかで有徳人・貪欲の判断の対象となっていた。「中世の闇の中」と言われていたが、実際は未来の恒星を内包した暗黒星雲のようなものと捉えたほうがよさそうだ。開高健の作品「輝ける闇」は内容は一切関わりがないが、中世を表しうる良い単語だと思う。輝ける闇の中に平家物語もある。そしてそこに生きた無数の魂たちも。
「馬の売れ行きがいいねぇ。」
吉次は言った。打ち続く戦は馬の需要を大いに高める。馬が死ななくても、次は何が起こるかわからない。多めに手元に置いとかなければならない。結果、奥州の牧から連れて来る馬は次々と売れる。陸奥金もより多くの品や銭と交換できる。危機が進む中で商人は笑う。
今、東寺の近くにいる。京の南限はここだが栄えて人も多い東寺側に比べ、朱雀大路を越えた西寺側は荒れ錆びて田園や小屋が勝手に造られている。清盛が巨大な屋敷を造った東寺近くからは寂れて荒れてゆく西京部に日が沈んでゆくのを吉次は見ている。崩れた屋敷や生い茂る木々の夕暮れを見ると末法の世、来たれり、と思う。都の西側は縮まってゆき、反対に大内裏背後の一条大路から北に向かって、そして賀茂川を超えて東へ向かってその洛域を拡大している。都自体が意思を持っているように、水中に棲むアメーバーのように形をグネグネと変えていっている、無秩序というべきか、活気と言うべきか。賀茂川の河原にも「平安なる都」の外の貧民街にも人が流れ込んでいる。乱れる天下の中心もまた、混沌だ。そしてそれは深まってゆく。
「何せ、あの湛増が叛くんだからな。」
源行家に敗走したあの湛増だ。熊野別当であると同時に熊野水軍の頭でもある。長らく瀬戸内海から紀伊半島を周り関東にも達しようとしていた航路を支えてきた水軍(水群というべきかもしれない)にとっては、そう言われることは心外だろう。ただ単に平家一本足から源氏にも誼通じようとしているだけだからだ。平家はまだまだ強い。しかし何が起こるかわからない今を進むには別の所にも掛けておきたい。
関東からの移動に熊野水軍の力を使うなんてアタマは源氏には無い。東海道を行軍していて、海岸沿いを船が行くのを見る、しかしどこの連中だろうとも思わないのだ。源氏の目には海を行くモノは映らないのだろう。しかし話を持って行っとかなければ、いざという時の道は見いだせない。
「昔、は見ることができる。今はここにある。先は何も見ることはできない、、、、。」
なら様々な道を用意しておく。未だ来たらぬ世に向かうこと、それは背走向未来於暗闇であるという事。一群の長である以上、備えは怠らない。それだけだ。
清盛は後白河法皇のことを考えている。皇后を亡くし、三人の息子、一人の孫も先立っている。何故老いた自分ではなく息子たちなのか?そう思って悲しみに囚われているのではないか?自分も息子重盛を亡くした。同じ人の親として辛さは分かるつもりだが慰めるすべがどれほどあるのか。寂しさを紛らわすために若い女を遣わしたがどれほどの効きがあるか、、、、。厄介な男だが幼帝の治天を支えるには法皇の協力がいる。
「何とか気を取り直してほしいものじゃ。」
そう呟いて立とうとした清盛はそのまま倒れた。呻くような声が漏れる。慌てて周りの手で床に運ばれた。体が火のように熱い。こんな体で今までいたのか。
これまで気力で立ち、動いていた体が耐えられなくなり倒れた。病床の清盛の身体に一気に衰弱が現れ出た。高熱にうなされ、呻きながら手を宙に招き動かしている。清盛の妻、二位の尼時子はやるせない怒りに包まれていた。こんなになるまでにこの人は天下を支えるために力を尽くし続けた。そしてどれほどの働きをしたか。
律令国家が緩み崩れていく中、荒れてゆく高野山の修繕の指揮を取り、熊野水軍と結び九州沖〜瀬戸内海〜伊勢〜東海部への航行の安全を確保、海賊の鎮圧、厳島神社の再建、平家の力による各地勢力の一統による安康、私財を使っての大和田の泊沖の築島造営による巨大港都「福原」の創出、六甲山内の明要寺の大拡張、震旦との交易による富の拡大、挙げればきりがない。そこまでしたこの男に無情にも天はこの仕打ちをしている。
「やはり三井寺や南都への焼き討ちが祟って、、、」
宗盛が巷間に流れる噂を口にした時、我が子ながら時子は激怒した。
「太政入道殿が行ったことは、天下を騒がす僧兵めらを懲らしめ、世に安寧をもたらした一挙、宗盛!入道の側にいたあなたが、そんなことに惑わされてどうするのです!」
眉を吊り上げて叱る母の剣幕が屋敷に響く。まだ病床の清盛が周りに当たり散らすなら気も紛れただろう。しかし清盛は苦しんでも周りに怒りを漏らさない。それが自分の無力感をいや増しているのだ。
とにかく熱の苦しみを癒そうと身体を拭いたり、山から引いた清水を満たした岩風呂に浸すなど手は尽くしたが気休みにしかならぬ。清盛が苦しんでいる数日のうち、時子は夢を見た。燃え盛る車が屋敷に迫って来る、車を引くは牛頭馬頭の鬼達だ。屋敷の門まで来ると停まった。
「どのような用できたのです。」
問うた時子に
「清盛、人界の鎮めの盧遮那仏、焼いた。だから無間地獄に連れてゆく。今、閻魔王庁で無間地獄行の無の字を書いたところ。仏敵の清盛、もうすぐ連れてゆく。」
鬼が答えた。
ここで目が覚めた。寝汗をびっしょりとかいていた。近代以前の一日は日が暮れて始まる。夜の夢の示唆があって、現の時間が始まる。時子から怒りが消え、悲しみとともに覚悟が決まった。この数日、治療のかいあって清盛の意識はハッキリしている。高熱の苦しみをはっきりとした意識で味わうことは苦痛以外のものではないが、だからこそ時子にはやるべき事がある。床の側に寄る。熱がここまで感じるようだ。
「トキ。」
気付いた清盛が声を出した。
「、、、あとどれだけ命があるかはわかりません。殿、モノをはっきりと考えれる内に言い残すことがあるなら、、、、。」
後は嗚咽が出そうなのを噛み殺すしかできなかった。
聞くや、清盛は微笑んだように見えた。
「若き頃から志を立て、保元・平治の乱に出陣して以来、朝敵を平らげ、、、位人臣を極め、皇統に孫も得た。望みはすべて叶えたが、心残りがただ一つ。伊豆国流人、頼朝の首印がない事よ。我が去った後は、仏堂仏塔は建てるな、供養も要らぬ。奴の首をはねて墓の前に供えろ。それが我が弔いと思え。」
言い終わるや意識が没して行った。
その2日後、病みついて7日、息を引き取った。
64歳の巨頭の死は天地を揺り動かす。屋敷の前は弔問の馬や牛車が行き交う大騒音。しかしそれも天下に鳴り響く清盛の死が招く兵乱に比べては嵐の前の樹のそよぎに過ぎなかった。信濃国の木曽義仲、関東に逃げた源行家、その後ろの頼朝兄弟、各地の源氏が清盛亡き世界に、はや動き始めたのだった。
熊野別当、、、、熊野三山(熊野本宮・速玉大社・那智大社)の統轄者
背走向未来於暗闇、、、、近世まで「未来に進む」ということは前を向いて進む事という感覚はなかった。「未来に進む」ならそれは後ろ走りに全く見えない地点に向かう、そんな感覚だった。
「前・先の世」に過去の世、未来の世の二つの意味があるのは近世以前の「未来は見えないし、予測も出来ない」という感覚の時代が「情報や知性を用いることで未来予測は出来うる」という近代に達するまで極めて人類の歴史の中で長く続いた、ということの現れなのだろう。ギリシャ古典でも「未来に進む」という言葉は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」的な言葉で表現される。あの有名な映画は古典時代の蓄積に「タイムワープ」を扱ったSFの意味を重ねた作品なのだ。
「世界の辺境とハードボイルド室町時代」を読んで。
トキ、、、、「子」が尊称だった時代。ならば時子は‘‘トキ’’、徳子は‘‘トク’’までが彼女らの本質を成す部分と思われていたのか?と思う。
「入道死去」




