赤い紅い年明け
中世という言葉を聞くと不思議な感覚に陥ることがある。「古代」という時代は世界中にある。「近世」「近現代」という時代は全世界にある。しかし「中世」は欧州と日本でしか聞かない。中国でも唐中期から宋の始めが中世と史学会で決まっているが、異論もあり、中世中国という語感はあまりなじみがない。
世界中で昔から文明が続いてきたのに中世日本、中世ヨーロッパという時空間は妙な、しかし特殊な存在感がある。
こういう事かもしれない、メソポタミアで文明の夜明けがあって以来、その流れで各地の文明が成立した。中東や中国ではその潮流が紆余曲折有りつつ、近現代の西洋の侵略に遭うまで続いていたが、ヨーロッパと日本では古代の経済資源を流れ込んだ技術・思想で思う存分生かして成立した古代国家が資源の枯渇で挫折し、停滞期に入った(ローマ帝国の崩壊→中世の開始。古代王朝の形骸化→動乱の中世へ。)、それを中世と称した。産業革命以前では富と言えば「中国やイスラム圏にあり」と決まっていたから、ヨーロッパや日本の様に中途半端な文明圏(同緯度耕作可平原の狭さ)が一度森林資源を使い切ってしまうと回復までの時間は減速の度合いがより大きくなってしまう。ローマ末期の森林の荒廃はルネサンスか産業革命ごろにやっと回復したというし、古代律令国家が続くことで畿内の森林は荒れに荒れ、生産は低下し続けた。そして近世の開始は関東が中心となった。中国は黄河付近の夏王朝(BC3000年)~長江の向こうの宋王朝(AC1000年頃)にかけて主要穀倉地帯はひたすらに南下し続けた。インドやイスラム圏は良く知らないが、中南米のマヤ、アステカ文明も主要な生産地を移して続いた。移ってゆける広大な生産平原を複数持っていた文明圏は中世は始まらず、ヨーロッパや日本には移れる主要穀倉平原がなかったか、耕地化できなかった。よって大きな減速を伴う中世が始まった。やがて森林資源や主要穀倉地帯の回復、新たな発見があると終わる。そのような持つところが少ない文明圏が経験するのが「中世」という時空間なのかもしれない。
「、、、、、、、っ!」
木曽の源義仲は驚いた。11月に京に都還りするや電光石火の近江源氏討伐、反抗する三井寺、南都への攻撃。これで都遷りのゴタゴタはキレイに拭い去られた。湛増を負かした新宮十郎(源行家)は昨年末の近江攻めから征途を延ばした尾張攻めで撃破した。これで畿内は治まった。
「木曽はいつやってやろうか。」
清盛は宗盛に言った。清々しい新年だ。関東の頼朝、木曽の義仲二方面の敵。しかし連携はない。互いに張り合っている。京に近い木曽は関東に出るならその隙ぐらいは狙うだろう。関東は木曽と戦端が開かれてもまだ動けない。陣容がゴタゴタしているし、西国の米不足を見て尻込みしている。動けないうちに木曽を屠る。一か八かで出てくるのを迎え撃つか、ひと休みして押し寄せるか、主導するはこちらだ。
「ここまで一気に天下の趨勢が変わろうとは!」
馬面の宗盛が感嘆の声を上げた。その宗盛を本来の平家の棟梁はお前なのだぞと思い見る太政入道の顔はやや赤ら顔であった。
小康に憩う平家を横目に高倉上皇は忙しい。去年の秋から新年に渡って高野山や厳島神社で天下泰平の祈願に回っている。10月の富士川での敗走に危機を覚えて始め、事態が落ち着きつつあるは願が叶いつつあると気力が起こり、より安定した状況になるように走り回っている。いくらなんでも無理をし過ぎではないだろうか?今度改めて憩うようにたしなめねばな、、、、父として思う後白河法皇、その耳に信じられない報が届いた。
「上皇御不例」
である。京都に帰って来るや病みついた。以仁に続き、、なんてことはあってはならない!と医者を差し向ける間に、2月、日本が安寧であれと懸命に努めた上皇は世を去った。
「なぜじゃ、、、なぜまたもや、、、我が息子を二人も、、、。」
皇后建春院、長男二条天皇、孫六条天皇に引き続いて以仁王の死、そして今、高倉上皇。天は皇統を絶やそうとしているのか?あるいはもはや平家の王が立った以上は我らは世から消え去る定めなのか?
「鴨川の流れは思うままにならない、、。」
それどころか流れの中の木の葉ではないか。そう思った瞬間、足元がズブズブと地にのみ込まれてゆく気持ちがした。
朝廷の本拠はかつて大和国奈良盆地にあった。瀬戸内海の交通で有力な北九州のモノ達が山に囲まれた平地を求めて雪崩込んで成立した邦だった。土着の勢力を併呑し祭祀王として建った彼らは「聖」を持って政を成した。やがてその力が南は薩摩国、北は出羽国、陸奥国に及ぶようになると巨大になった自らを保つため震旦渡りの「法」を用いるようになった、、、、今、聖も法も失った天下を保つのは「威」ですらなくただの、むき出しの「武」だ。しかもそれは皇室のものではなく、平家のモノ。法皇である自分はそれに乗っているに過ぎない。
「何が天狗だ。何もできずにちょこちょこと騒がして回っているだけではないか、、、。」
だから天は不要で無力なモノを除こうとしているのか?だとするなら抗うすべはないのか?地に沈んでゆくような想いの中で法皇は呻吟した。
何かの前触れだったのかもしれない。上皇の死と共に小康を保っていた天下が乱れ始めた。特に九州、四国、中国の西国が。
2月、九州。豊後国大野郡住人、緒方三郎以下臼杵、戸次、松浦党までが平家から源氏に鞍替え大宰府の守りが脅かされた。
同月16日には四国。伊予国風早郡住人、河野四郎道清が四国の有力者をかたらって源氏へ。これを見た備後国奴可郡住人、親平家の額入道西寂が果断に瀬戸内海を渡り四国へ。道清を討った。この後四国の反乱を鎮圧するも、戦を終え備後に帰ったところを道清の息子、河野通信の奇襲を受け捕縛され、伊予国で首を斬られた。戦乱が大八洲の端々を揺るがす、しかしそれに面しても
「日本の中でずば抜けて豊かな畿内を保っているなら焦るな。それ以外の所でいくら騒いでも落ち着いて対応すれば良い。」
九州、四国の状況に当たっても太政入道清盛は落ち着いている。同じ2月に河内国石川在住源義基、その子義兼が東国に落ち延びて源頼朝に投じようとした。畿内での争乱は許さない。源季貞と平盛澄率いる兵3000を差し向けて討ち取った。天下の中心を握っていれば流れを変える機会は必ず来る。その時まで足元を確実に固めておくのみ!
甲斐国の武田氏の元で育った源範頼が頼朝の下に来て数カ月。これで義経、範頼と揃った。範頼がいることが心強い。義経は勝利を求めることに苛烈で我が強く、周辺との衝突が多い。強大な軍才に負うところだろうか?とにかく西に向かっていずれ攻め上げる軍勢を丸々任せることは危うさも感じる。ここで決められたことをきちんと成す、そう思える範頼がいると軍勢の統制も安定する。義経だと勝つ為には鈍足は不要!といって、手の者だけを率い勝手に飛び出しそうだからな、大将がちょろちょろ動き回られるとそれも困る。しかし戦に義経を活かさない手はない。
「その為の兄弟両頭構えよ。」
梶原景時に言った。軍監は景時。
「大変な役目になりそうですな。」
関東一帯の鎌倉からの団結に腐心する教養人武者は今から頭を抱えたくなった。
「やることには変わりない。」
信濃国、木曽の源義仲は巴に言った。その為に仲間に触れを出した。国中の武者が合力に応じる。根井の小弥太、海野の幸親も。そして乳兄弟今井四郎兼平。この兵を率いて京の平家と戦う。源頼朝ではなく自分が。源氏の正統、力を以てこの義仲に引き寄せる事でもある!ずっと思っていた。そして父、義賢は甥の源義平に討たれた。義平は頼朝の兄弟だ。奴らのせいで小さな頃の自分は母に抱かれて、力強い斎藤殿に助けられて関東から信濃国、木曽兼遠を頼り逃げてきた。その因縁のある相手達に思い知らせる事でもある。京に入り、畿内を取ればそれらが成る。そう思っていると樋口兼光も触れに応じるとのこと。義仲の眼に元服を石清水八幡宮で行った様子がよみがえる。それまでも兼遠に密かに連れられ京に来ていた。いつか戦う平家を知るためだ。しかしこの年の京の思い出はいつもと違った。
「四代前の源義家はこの八幡大菩薩の御子となり、名を八幡太郎とした。私もそれに習い、義家の跡を追おう!」
13の新たに成った男の言葉である。これより木曽次郎義仲と名乗る事とした。
「ただ、殿。機を見なければなりません。頼朝はまだまだ動けません。待ってもこっちが先んじます。ゆったり構えましょう。」
今井兼平は義仲に言った。西国の米不足、平家との戦力差、懸案は多い。その克服は絶妙の機会も手に入れねばならない。頼朝が動き出して平家が反応した時に手薄になった山城に進みたい。平家に連携していない義仲・頼朝相手に二方面を強いる。これが理想だ。
「そんなにゆったりしていると、平家から押し寄せてくるぞ?」
「、、、、それこそ願ったり叶ったり、我らの内地で戦えます。勝手知ったる山川が我らの戦に利を与えてくれます。」
「!」
義仲は納得した。そして、それは始める瞬間は「義仲と四郎で決める」ということ。あとは目を見張り、耳を澄ませる。
そして思わぬ早さでそれはやって来た。
新宮十郎=源行家、、、、源義朝の弟、よって頼朝や義経や義仲の叔父。
八幡大菩薩の御子となって、、、、昔は名付け親、鉄漿親、冠親など子供時代の節々に多くの人が参加する式と、それによって繋がりができる多くの「オヤ」が居た。将来にわたってこれらのオヤは世話をした嘗ての少年を助ける。自らの子として。神前でするならば、神も親として生涯の助力を乞うということ。
内地、、、、もともとは、故郷の意。




