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姥捨て村の産声

作者: よし

 町の外れ近くにあるコンビニエンスストアに立ち寄りタバコを買った村田清治は今にも雪になりそうな空を見あげて四輪駆動の軽四輪トラックに乗った。

 村田清治が住む峰岸集落は町から二里、約八キロ程離れた山の中にあった。清治が車を走らせて、ものの五分も経たない内にヘッドライトに照らされた暗闇に雪が舞った。

ー降り出したか・・。見る間にフロントガラスに大粒の雪が視界を遮った。ワイパーを回し目を凝らし雪が落ちる路面を見た。

 町を離れると山と山に挟まれた川沿いの道になり清治の住む集落まで人里はない。ただ暗闇の車線のない道が曲がりくねって続いて居る。四キロ程走った頃、昔走っていた私営バスの名残のバス停の看板が立っている場所に差し掛かりブレーキを踏んだ。

 古いバス停の看板脇に若い女が立っていた。清治は年甲斐もなく背中に冷たい物を感じ後ろを振り返って見た。ー何だ・・幽霊・・そんな筈はない・・ー車を止めてゆっくりと暗闇にバックした。バス停の看板の脇に紛れもなく若い女が立って青白い顔で清治の車を見つめていた。

 黒っぽいオーバーコートの胸に黒いナップザックを抱いているが、その腹は異様に大きかった。顔を見た限り太って居るのではない事は分かった。ー妊婦か・・。

 清治は運転席の窓ガラスを下ろし声を掛けた。

「娘さん。こんな時間に何処まで行く気だい。バスは廃止されているから待っても来ないよ。

良かったら小父さんが送って行こうか・・」

 青白い女の顔が清治の顔をしばらく見つめた。清治にはその目が潤んでいる様に見えた。

若い女は微かに震えていた。ー何時から立っていたのか・・。

「寒いから早く乗りなさい・・それとも誰か迎えに来るのかい・・」

 女は首を横に振った。「ほら早く・・行き先は車の中で聞くから・・」

 清治は車の助手席のドアを開いた。女は車の前を通り助手席に乗って来た。車の後方からライトの明かりが迫って来た。清治は車を発進させた。雪が降り続いている。しばらく走り小さな橋のたもとで清治はハンドルを右に切った。道幅三メートル程の狭い道が谷奥へと登っていた。

 後ろから走って来た車は通り過ぎて行った。清治は一旦車を止めた。若い女が不安そうな顔で清治を見た。清治は顔を女に向けて尋ねた。

「さあ話してもらおうか。小父さんは何処に送って行けばいいのかな。答えてくれなければ困るんだが・・」女はうつ向き顔を背けた。

「・・言いたくないと・・家に帰るのじゃあなかったのか・・それじゃあ何処に行くつもりだったんだ・・」

 若い女は胸に抱いたリュックサックを強く抱きしめてうつ向いたままだ。

「ううん・・困ったな。小父さんは若い娘を誘拐したと思われたくないのだがな・・」

 若い娘が顔を上げて清治に向けた。訴える様な涙ぐんだ目が清治に縋っていた。

「そうか・・言えない事情があるのか。じゃあ名前と歳位は教えてくれてもいいだろう」

 清治は娘から顔を背け車のライトが照らす狭い道に視線を移した。

「私の名前は彩香・・十八歳になりました・・」娘が初めて口を聞いた。

「十八だと・・それでは高校生か・・家はこの近くではないな。家族が心配しているだろう。送って行こう」清治が顔を娘に戻しそう告げると娘は泣き出してしまった。

「仕方がない・・今夜だけ小父さんの家に来るか・・」

 むすめが大きく首を縦に振った。「ふっ・・」やれやれと溜息をついて清治は車を発進させた。

 舗装されてはいるが削られた山の斜面の曲がりくねった道を車は登って行く。左の谷間は闇に沈んで見えはしない。道が平坦になったと思ったら明かりが見えた。闇に浮かんだ明かりは四軒だった。車はその内の一軒の門先に止まった。玄関の戸が開き三人の老婆の顔が覗いた。

「清さん遅かったな・・」一人の老婆が声を掛けてきた。

「米婆さん待たせて済まない。少し買い物に手間取って遅くなってしまった」

 清治はその老婆に答えて車から降り、後部荷台のシートを捲った。シートの下には大きな発泡スチロールの箱が二つ乗っていた。その一つを老婆に手渡し、清治は一つを持って家に入り土間の上がり框に置いて引き返した。老婆三人が車の助手席を覗きこんでいた。

「清さん遅くなったのは大きな買い物のせいなのかい・・」三人の老婆の顔が笑っていた。

「それもある・・」と清治は答え「降りなさい・・」と助手席に座る娘に短く声を掛けた。

 娘はおずおずと老婆達を気にしながら車から降りて来た。

「さあさ早く入りなさい・・」老婆達に囲まれる様に娘は家に入った。外の寒さとは違って土間に置かれた薪ストーブの御蔭で屋内は暖かかった。ストーブの周りに折り畳み椅子が三つ並んでいた。

「おや・・この娘はお腹が・・」老婆三人の目が彩香のコート下の腹に集中した。

「ああ・・それよりこの子に何か温かい物を飲ませてやってくれ」

 政治に言われて老婆達は勝手知ったる他人の家とばかりに動き始めた。ストーブ脇の上がり框に敷かれた座布団に腰かけた娘に、直ぐに湯気の立つ甘酒の茶碗が娘に差し出された。「熱いよ・・ゆっくりお飲み・・」老婆に言われこっくりと頷いた彩香は茶碗を吹きながら口元に運んだ。

 清治は娘を老婆に任せ買って来た食材を台所脇の冷蔵庫と、作り付けの古い黒光りする大きな戸棚に仕舞い込んでいた。台所脇は昔囲炉裏があった居間で今は少し大き目の炬燵が置いてある。

「娘さん貴女何処から来たの・・」「貴女の婿さんは・・」「腹の子供は今何か月だい・・」

 米と満と菊の三人の婆が彩香に尋ね始めた。彩香は目を伏せ俯いた。

「婆さん達、娘に晩飯を食べさせたいから婆達も早く帰って飯にしてくれ・・」

 清治が娘に尋ねるのは止めろと言っていると婆達は察した。婆達は既に夕飯を済ませて来ていたが「ああそうだね。私達も飯を食べに帰らねばな。さあ頼んでいた買い物を持って帰ろう」三人の婆は椅子から立ち上がり「清さん冷蔵庫にフキの佃煮と白菜の漬物を入れておいたからな・・それとガスレンジの上の鍋にマイタケと椎茸の澄まし汁を作って置いた。豆腐やネギは適当に入れてくれ。卵を落としてもいいよ・・それじゃまた・・」

 米婆はそれだけ言うと清治が買い物してきた発泡スチロールの箱を下げ二人の婆を促し玄関を出た。「わあーもう積もっている・・転ぶなよ・・」婆達の声が家の中まで届いて遠ざかった。

 清治は鍋のかかったガスレンジのスイッチを入れ火を点けた。それから冷蔵庫の中からフキの佃煮と白菜の漬物を取り出し居間の炬燵の上に置き更に買って来た刺身と巻き寿司も置いた。

 それから納戸部屋に入りこげ茶色の地味な綿入れ袢纏を持って出て来ると、ストーブの脇の上がり框に腰かけたままの彩香に声を掛けた。

「此方に来て炬燵にあたりなさい。それからコートを脱いで寒いのでこの袢纏を羽織るといい・・」動き回る初老の男を横目で追っていた彩香は手を伸ばしてその地味な袢纏を受け取ると腰を上げると居間に上がって来ていたコートを脱いだ。袢纏を羽織り炬燵に膝を入れた彩香は炬燵の上の食べ物を見てゴクリと生唾を飲み込んだ。今朝学校に行くように装い家を出て食べ物を口にしたのは名も知らぬ駅に降り立ち、立ち寄った店で買ったパンと小さなパック入りの牛乳だけだった。清治はガスレンジの火を止め鍋の澄まし汁を椀にいれて若い娘の前に置いた。

「さあ今日買って来た物ばかりだが遠慮せずに食べてくれ。お腹の子の分まで食べるのだよ」

 清治は箸を取る若い娘を目に止めると壁の戸棚から酒の一升瓶を取り出しコップに注ぎ入れた。同じ戸棚から眼ざし三匹を取り出し薪ストーブの上に乗せて炙った。その眼ざしをかじりながら清治はコップ酒を舐める様に飲んだ。炬燵の差し向かいに座る若い娘が美味そうに寿司をほう張り汁をすする様子を目を細めながら眺めた。娘が箸を置こうとするのを一度ならず二度までも止めて寿司も刺身も全て食べさせた。娘が箸を置き「頂きました。御馳走様でした」と頭を下げると清治はストーブの上のヤカンの熱い湯でお茶を入れて娘に勧めた。

「少しは元気が出たか・・」お茶を飲む娘に清治は微笑みながら言った。

「あの・・おトイレは・・」お茶の茶碗を置いて娘が恥ずかしそうに言った。

「ああそうか。それは気が付かなかった。そこの土間の横の木戸の中にトイレと風呂場があるよ」清治が指で示すと余程我慢していたのだろう娘は急いで靴を履き木戸を開け駆けこんだ。

 清治は納戸部屋から布団を取り出し居間奥の仏間に敷き、湯たんぽにストーブの上のヤカンの湯を注ぎ込みバスタオルで巻いて布団の中に入れた。

 娘が木戸を開けて出て来た。「何か悪い物を食べさせたかな・・」心配気に声を掛けた清治に娘は恥ずかしそうに首を横に振り「いえ・・我慢していました・・すみません・・」とはにかんだ。「そうか・・早く言えばよいのに・・」清治はタバコとライラ―を持って立ち上がりストーブの側の椅子に座りタバコに火を点けた。「タバコは胎児には悪かろう。離れて吸うので我慢してくれ・・」清治はストーブの上のヤカンが上げる蒸気と吐き出すタバコの煙が混ざって上空に消えて行くのを見つめて言った。

「小父さん私はそんな事は気にしません・・」炬燵から娘の返事が帰って来た。

「そうは言ってもな・・昔小父さんの子供が生まれた時奥さんからよく叱られたよ・・」

「小父さんが叱られたの・・」明るさが混じる声だった。

 ーやっと落ち着いてきたようだな・・。清治はストーブの下に置いている空き缶の灰皿に吸い殻を捨てて炬燵に戻った。


 テレビの画面にノイズが走っている。ー雪が激しくなったようだ。朝には雪かきが必要だな。

清治はテレビを消した。雨戸の揺れる音が聞こえて来た。ー風も出たか・・。何処からか冷たい隙間風が居間に流れ込んできた。「寒くはないか・・」清治は娘の隈の有る青白い顔を見た。

「平気です・・寒くありません・・」「そうか外は大雪が降っている・・この姥捨て山は閉ざされるか・・」「えっ姥捨て山って・・」娘の驚いた顔が清治に向けられた。

清治は笑った。「冗談だよ・・この集落の婆達が口にするたとえ話さ。それでは少し小父さんがこの集落の話をしてやろう。連れて来られた場所がどんな所か知りたいだろ」

「はい。知りたいです・・とても・・」うつむいて彩香は言った。

「それでは小父さんの家の事から話そうか・・」清治は話始めた。もう少しこの若い娘の心を解きほぐすために。


「小父さんがこの峰岸集落を出たのは高校を卒業した十八歳の時だった。都会に出て苦学して夜間大学を卒業し企業に就職した。それなりの地位についていた五十八歳の時一人暮らしをしていた八十三歳の母が動けなくなった。已む無く母親の介護のため会社を早期退職しこの家に帰って来た。帰郷して三年母は他界した。依頼今日まで小父さんはこの家で一人暮らしをしている。次にこの集落の事を話そうか。彩香さんと言ったな。貴女が立っていた古いバス停までは高畑町から約四キロの地点だ。あの場所から更に二キロ進んだ場所から右手の脇道に入り二キロ程登った所がここ峰岸集落だよ」

 清治は話を一旦中止し戸棚からミカンを入れた籠を取り出し炬燵の上に置いた。

「ミカンでも食べながら聞いていればいい・・」清治は籠からミカンを取って彩香の前に置いた。彩香は小さく頭を振って「頂きます・・」とミカンを手に取った。

「この集落は小父さんが子供の頃は九軒の家に住人がいたが、今では人が住む家は四軒になっている。五軒の内三軒がこの集落を去り後の二軒はさっきまでこの家に来ていた満と菊の婆さんの家で、その家を空けてもう一人の婆さん米婆さんの家で共同生活を送っている。それは何故か・・寒い冬には電気代や暖房費がかさむ。暖房用の薪も三人で暮らせば節約できる。それに絶えず三人いれば寂しくもないし何事かあれば助け合えるだろう。安い年金も三人分であれば何とか不自由なく暮らしていける。小父さんがこの集落に帰って来て三人の婆さんにそうする様に進めた。依頼婆さん達は小父さんを頼ってこの家に集まる様になったのさ。薪ストーブがあるのは小父さんの家だけだから自分達の煮炊きの薪が節約できると言う訳だ。言い忘れたが我が家の風呂は二日に一度にしている。その日には三人の婆さん達も風呂を借りにやってくる。

さて次の二軒だが、婆さん達が住む向こう隣の家には市蔵と民という老人夫婦が住んでいる。市蔵爺さんは八十六歳だが痴呆症が進んで嫁の民婆さん八十七歳が面倒を見ているが、幸いの事に足が弱って歩き回ることは出来ない。足腰が丈夫だと山に入る恐れがある。これが幸いと言うことだ。それにもう一軒に暮らす徳一七十七歳と花七十五歳の夫婦は市蔵の身内で市蔵と民の面倒を見ている。だいたいこの集落のあらましはそんな所だ。要はこの集落の年寄り達は息子や娘に捨てられたも同然の境遇にあると言う事さ。一服吸ってくる」

 清治はタバコを持って薪ストーブの脇に立って行った。カタコトと風雪が戸を叩いている。

「明日の朝は雪かきになりそうだ・・」独り言をつぶやきながら清治は炬燵に戻った。


「雪が積もりそうですか・・」背中を丸めた彩香が尋ねてきた。

「ああ吹雪いている・彩香さん。小父さんに出会えてよかったかも・・あんな所に立っていたら今頃どうしていたか・・不幸中の幸いだったと思ってもらいたいね。今夜はきっと大雪になるよ」

「・・はい・・ありがとうございました。助かりました」青白い顔が目を伏せた。

「今夜はもうおやすみなさい。隣の部屋に布団を敷いてある。湯たんぽを入れておいたので布団は温まっているはずだよ。それから男物だが浴衣を出しておいた。よかったら着てくれ」

「はい・・では・・休ませて頂きます・・」彩香が隣の仏間に消えた。

 清治は電灯を豆球に落とし座布団を枕に炬燵で横になった。風の音は止む気配がない。隙間風の冷気が顔を撫でた。夜は更けてゆく。

 夜中清治の足は炬燵の中で柔らかい物に触れた。ーえっ。と半身を起こして炬燵の周りを見回した。炬燵の向かい側に何時の間にか布団が敷かれ、盛り上がった掛布団が見えた。その掛け布団から乱れた黒髪が覗いていた。

「寒かったか・・」清治は横になり目を閉じた。


 朝まだ暗い内に清治は目覚めた。遠くで婆達の声がしている。ソックスを履きジャンパーを着て冷えた薪ストーブの中から灰を掻き出した。古雑誌を破り薪ストーブの中に放り込み枯れた雑木の枝をその上に乗せて割り木の薪を入れて火を点けた。割り木の薪が燃え出すのを確認し玄関の戸を開けた。

 外は一面の銀世界だった。雪は一夜のうちに五六十センチは積もっていた。薄暗い空から粉雪が落ちている。清治は雪かき用のスコップを持って玄関先の雪からかき上げ道を作って行った。下の道迄雪を掻いて行くと婆達と合流した。

「清さん。えらい雪だ。こんな雪は子供の頃依頼だよ。異常気象のせいなのかね」

「ああ米婆、俺もこれ程積もった雪は知らないね。都会で降る雪は積もっても数センチだった」

「この調子だとまだまだ積りそうだね。昼にも雪かきをしなくては動けなくなりそうだよ。ところで、あの娘はどうして居るかね。えらい拾い物をしてきたものだ」

「あそこで出会わなかったら、あの娘は今頃どうなっていたやら・・死んだ長女はちょうどあの年頃だった。もう二度と若い娘の死は見たくないからな。

「長女が死んだ事はお母さんから聞いていたよ。確か白血病だったな。死んだ娘が引き合わせたのかも知れないね」

「そう思えば気持ちが安らぐがな。ところで満婆と菊婆はどうした。さっきまで雪かきをしていた筈だが・・」

「菊婆は痛風で寝ているよ。満婆は腰が痛いと早々にリタイヤしてしまったよ」

 リタイヤと言った米婆は飛びぬけてハイカラ婆さんだった。

「そうか。後は俺がやって置くから米婆は帰って休めばいいよ」

「そうかい。じゃあ頼むよ。雪かきは年寄りには重労働だよ。私も足腰が痛いよ・・」

 米婆は家に帰って行った。その先の家の前で徳一が雪を掻いていた。

「おおい。清さんひどい雪だな。これからどれ程降るのかな。この状態だと下の道までは降りられないだろう。暫くは冬眠するしかないか」

「ああこの状況では下の道も、町へ続く道も通れないだろう。この分だと役場の除雪車も上がって来れないだろうよ」

「そうだな。陸の孤島になってしまったな。役場の職員も対応うに追われてこの集落の事は忘れてしまうかも知れないな」

「そう言う事だな。峰岸集落なんてあって無きに等しい土地だからな。自分の身は自分で守るしかないって事よ」

「ああ・・今年の冬は厳しいものになりそうだ。やれまだまだ降りそうだ。朝飯でも食べて一休みするか」

 徳一は帽子と肩の雪を払って帰って行った。                    

 彩香が目覚めると部屋が温かく薪ストーブが燃えているのが判った。

ー小父さんは何処へ行ったのかな・・。玄関の戸を開けた。アッ彩香の目に見た事もない白い景色が広がっていた。下の道で声が聞こえた。一人は小父さんの声でもう一人は知らない男の声だった。門先に一筋の深い雪道が出来ている。ー雪掻き・・なの・・。テレビで見た事があった。

 首をすくめて彩香は部屋に戻った。

 清治は家に帰ると娘が起きて炬燵脇に座っているのを認めると「よく眠れたか・・」と笑顔を作って見せた。「すいません。寒かったし一人で寝るのは心細くて・・」彩香はペコリと頭を下げた。「いや眠れたのならいい・・朝飯を作るからちょっと待ってくれ」清治はジャンパーと帽子を脱ぎ雪を払って台所に入った。

「昨日買って来た食パンがあるが、それでもいいか・・」尋ねられて彩香は「食べさせて貰えるなら何でもいいです・・」と答えた。トントントンとキャベツを刻む音がして、小父さんは冷蔵庫から卵とハムを取り出しフライパンで焼いている。厚切りの食パンはレンジで焼いてバターを塗った。キャベツと目玉焼き、ハムとトーストがのった大皿が炬燵の上に置かれカップに入った熱い牛乳も置かれた。「さあ食べなさい。何度も言うが子供の分までな・・」

 朝食を目の前にして彩香は涙ぐんだ。実家でもこんな朝食を食べた事がなかった。確かに朝学校に行く前自分で焼いたパンと冷たい牛乳を飲んだがそれが日課だった。母親は仕事の関係で朝は寝ていて朝食を作ってくれた事はなかった。昨日出会った赤の他人の小父さんの優しさが涙を誘ったのだった。「どうした。早く食べなさい・・」促されて皿に置かれたホークを握った。 「小父さんは食べないのですか・・」「小父さんも食べるよ。気にせずに食べなさい」

 彩香が食べ始めると清治は戸棚から眼ざしを三匹取り出し薪ストーブの上に乗せ茶碗に飯をつぎ炙った眼ざしを乗せてストーブの上のヤカンから熱湯を注ぎ入れた。それから冷蔵庫から白菜の漬物を取り出し、湯漬けの飯を漬物と共に掻き込んだ。


 朝食が終わると清治は薪ストーブの脇の椅子に腰かけてタバコに火を点けた。彩香は炬燵の上に置いてある籠からミカンを一個取り出し皮をむいて食べていた。

 タバコを吸い終えた清治は炬燵に戻り娘の顔を凝視して言った。

「さあ今度は彩香さんの事を話してくれるかい・・」彩香は自分を見つめる清治の目を見て目を伏せた。「彩香さん。貴女は十八だと言ったな・・まだ高校生だよな・・」少し戸惑いを見せた彩香が小さく頷いて認めた。「家出して来たのはお腹の子の姓だな・・」また彩香は小さく頷いた。

「ご家族は何と言っていたんだ・・」「父も母もお腹の子供の事は知りません・・」

 彩香はうつ向いたままで蚊の鳴くような声で答えた。

「そうか。今まで変わってゆく娘の体系に気が付かない親とはどんな親だね・・」

「・・父は他県の大学に単身赴任していて月に二三度帰宅するだけで娘の私と顔を合わせる事はほとんどありません・・」「お父さんは大学の教授なのか」「はい・・」

 清治は天井を仰いで溜息をついた。ーまさか・・。娘に対する愛情が感じられなかった。清治に取って信じられない事だった。「それではお母さんは・・」「母は賃貸の出店で喫茶店を経営していて帰宅は夜遅いので母と顔を合わす事も少ないです・・。朝は私が学校に行く時間には何時も寝ていましたから・・」

「それで膨らんだお腹をきずかれる事無く過ごして来たと・・率直に聞くが相手の男性は貴女が妊娠しているのを知っているのか・・」「それは・・」彩香は口ごもってチラリと上目使いに清治の顔をみた。それは言いたくないと言う目だった。

「その男を愛していたのか‥今も・・」「はい・・でもその人に迷惑を掛けたくない・・」

「そうか・・ところで膨らむ腹の事を友達の誰も気ずかなかったとは思えないが・・」

「友達二人が知っています・・」「ほう・・その友達は何と・・」「一人は幼馴染の女友達でこれまで私を助けてくれました。制服など大柄だった二歳年上の姉の物をくれたり洋服もくれました。今着ているコートも友達から貰いました」「もう一人の友達も幼馴染か・・」

「はい・・近所の男友達です・・」「その男友達は何と言っていた・・」「お腹を見て妊娠しているのかと聞くので誰にも言わないでと頼みました・・相手の人の事は話していません」

「そうか・・来年三月には卒業だろう・・どうする積りだったんだ・・それまでに子供は生まれているだろう」「はい・・多分お腹の子は八九か月です・・それでどうすべきか悩んだ末に家を出たのです・・何処か知らない所で子供を産もうと・・」

「やれやれ・・今頃親は心配しているだろう。母親が貴女が家出したと知ったのは昨夜だろう。

今頃警察に家出人の捜索願いを出しているかも知れないよ」

「一応しばらくしたら帰ると書置きして置いたのですが・・」

「早晩スマホの位置情報でこの場所も知られるだろう。未成年者誘拐容疑で小父さんも捕まるかもしれないぞ」」「スマホの電源は切っています・・小父さんに迷惑は掛けられません。私出て行きます・・」彩香は鳴き声になって言った。

 ガタリと玄関の戸が開いた。


 砂山美佐子は喫茶店の仕事を終え家に帰って来た。ーあら・・。美佐子は首を傾げ玄関のカギを開けた。何時もなら二階の娘の部屋には明かりが灯っている筈だった。それが今日家の中は

真っ暗闇だった。ー彩香寝ているのかしら・・。部屋の電灯を灯しキッチンルームを覗いて見た。

 何時もなら食卓テーブルの上に夕飯のおかずが二三点乗っている筈だった。テーブルの上には何もなかった。胸騒ぎを覚え二階の娘の部屋に上がった。部屋の電灯を点けると娘の姿は無かった。机の上にノートが開かれていた。美佐子は開かれたノートを見た。

ーしばらく家を出ます。ごめんなさい。の文字が美佐子の心を取り乱させた。部屋の中を見まわした。壁に学校の制服が掛けてある。通学カバンも机の下にあった。

ー彩香何があったの・・どうして・・。美佐子はその場に座り込んだ。今何をすれば良いのか動転した頭に何も思い浮かばなかった。美佐子は自分の携帯電話で娘に掛けた。電源は切られていて繋がらなかった。夫の携帯電話に掛けた。電話に出た夫に彩香が家出したと伝えた。

 外食の夕食を終え赴任先のアパートに帰ったばかりの砂山勇は晴天の霹靂と携帯電話を持つ手を震わせた。「明日朝一番に帰る。昼過ぎには帰れるだろう・・彩香が行きそうな所に電話を掛けて見ろ・・」夫の電話は切られた。


 髙見健作は空いた彩香の机を見ていた。担任教師の浦川浩二が出席を取ったが当然彩香の返事はなかった。「誰か砂山彩香の欠席理由を知らないか・・」教室を見まわしたが誰も返事をしなかった。健作に彩香からラインが送信されて来たのは昨夜遅くだった。ラインメッセージにはーもうすぐ生れそう・・しばらく家を出て姿を消す事にするわ・・今日までありがとう。

ー何処に行くんだ・・必ず戻って来いよ・・元気な子供を産むんだよ。返信して健作は彩香の腹の膨らみに気が付いた日の事を思い出していた。其日から三か月が過ぎている。

 同じ教室にいる彩香の親友桜木麻紀と目が合った。麻紀が頷く様に首を小さく縦に振り健作も頷き返した。

 髙見健作の家では母親の雅子が健作の部屋を掃除していた。雅子は半開きになっていた机の引き出しを開けて見た。中には学校持ち込み禁止のスマホが入っていた。雅子は母親の好奇心からスマホのラインを開いて見た。ー・・これは何・・。雅子は目を疑った。ライン着信を何度も読んでみた。ーそんな・・まさか・・彩香って砂山彩香ちゃんの事・・大変・・どうしよう。

健作は何てことを・・。スマホを引き出しに戻し家の中を歩き回った。母親はラインの内容を勘違いしている様だった。


 彩香が家出した翌朝。砂山美佐子は学校に電話を入れた。電話口に出た担任教師の浦川浩二に彩香が家出した事を告げ、学校で何か問題になること。例えばイジメとかなかったのかと尋ねた。担任教師の浦川の声が震えた。「お母さん。学校ではイジメなど確認していません。家庭では何か心当たりになることは・・」電話から母親のヒステリックな声が帰って来た。

ー先生。我が家の問題なら学校に電話などしません。とりあえず娘は病気休暇と言う事で噂が広がらない様にお願いします。ーハイそれはもう・・学校側も望まない事ですので・・。

 電話を切った浦川教師の青ざめた顔を見つめて隣の席に居る若い教師が尋ねた。

「先生何か問題でも・・」「いや何でもない・・何時もの様に父兄からのクレームで・・」

 砂川教師は席を立ち教頭の席に向かった。


 村田清治の家の玄関から頭の雪を振り落としながら三人の婆達が入って来た。

「ひどい雪だね。掻いた道も、もう積もっているよ・・」三人は薪ストーブの脇の椅子に腰を掛けストーブに手をかざした。それを横目に清治は言葉を続けた。

「この大雪では町に降りられるのは何時になることか・・それでも貴女の家に連絡を取らなくてはな。親の心情を思うとこのままではいられないよ」

 彩香がコタツ板の上に眉間を乗せた。「父も母もお腹の子供の事は知らないのです。此の事を親にどう説明するのですか・・」コタツに向かって答える彩香に清治は思案顔で尋ねた。

「さあね・・何と説明しようか・・とりあえず家の電話番号を教えてくれないか」

 彩香は答えなかった。「娘さん。清さんが何と説明しようが貴女の悪い様には伝えないよ。それにこの雪だ。親も来れないし貴女も逃れられない。親が大事なら電話番号位教えておくれよ」

 米婆さんが横から口を挟んだ。「そうだよ清さんならきっと上手く説明してくれるよ・・」

二人の婆達も頷いて同調した。彩香は折れて家の電話番号を清治に伝えた。


 午後自宅に砂山勇は帰って来た。「どうだ・・行き先は判ったか・・」その問に妻は首を横に振った。「仕方がない・・昼飯を食べたら警察に家出人届を出しに行こうか・・」

 砂山勇はキッチンの椅子に腰を下ろした。昨夜は眠れなかったのだろう。顔にやつれが見える。妻の美佐子が昼食の準備に掛かった。家の電話が鳴った。勇が受話器を取った。

ーもしもし・・砂山さんのお宅ですか・・私は北の・・県の県境に住む村田清治と申します・・突然お電話をお掛けして申し訳ありません・・。砂山勇は要件も聞かず電話を切ろうとした。

ー実は彩香さんの事で・・。勇はあわてて受話器を取り直した。

ー娘がどうしましたか・・娘は無事何ですか・・娘は何処に居るのですか・・。

 矢継ぎ早に質問を繰り返す父親に受話器の向こう側の男は至って冷静に答えた。

ー彩香さんは至って元気です。その前に私が彩香さんと出会った経緯からお話します。これを話して置かないと不審に思われては迷惑ですのでね。

ーはい。何でもお話しください。お願いします・・。

ー昨日の夕暮れ時、雪が舞い始めていました。私は買い物に出かけての帰り道でした。町から遠く離れた今は使われていない古いバス停の看板脇に立って震えている彩香さんを見つけました。

ここまでは納得して頂けましたか・・。

ーはい。良くわかりました。それで貴方が助けて下さった・・。

ーそうですが・・娘さんは当初何も話してくれませんでした。送って行こうにも何も話してくれず、仕方なく私は山奥の集落にある自宅に彩香さんを連れて帰りました。ところが山奥でも経験した事のない大雪に見舞われ集落は孤立してしまいました。現在雪は七十センチを超えて尚も降り続いています。この分では一メートル積もるのも時間の問題でしょう。今我が家には近所の老婆達が身を寄せています。彩香さんはその老婆達と親交を深めています。

ーよくわかりました。出来れば娘と話したいのですが・・。

ー分かりました・・彩香さんお父さんが変わってくれといっている・・。

 勇の耳にも電話の向こうのやり取りが聞こえて来る。

ーお父さんやお母さんを安心させてあげなさい・・。電話の主の声が聞こえて来る。娘が悩んで拒否している事が伝わって来る。

ー娘さん・・小父さんを困らせるんじゃないよ。あんたが電話に出なければお父さんは小父さんを信じてくれないよ・・。

 勇の耳にも老婆の声が聞き取れた。

ーお父さん・・ごめんなさい・・でも・・今は帰る事は出来ないの・・外は大雪でこの山奥の集落は孤立しているの・・でも心配しないで・・皆親切よ・・精神的に落ち着いたら・・雪が解ければ家に帰るから・・。

 砂山勇は娘の声を聴いていた。受話器が母親の手に移った。

ー彩香お母さんよ・・心配かけないでよ・・お母さんは担任の先生に貴女の事を伝えたわ。当分病気休暇を取ると伝えておいたわ・・帰って来たら又学校に通ってね。来年は直ぐに卒業なんだからね・・。

ー分かったわ。お母さん心配かけてごめんなさい・・切るね・・。

 電話は切れた。父母は顔を見合わせて大きく溜息をついていた。安堵の溜息だった。


「やれやれ。これで俺は犯罪者にならずに済みそうだな」

 彩香と婆達に清治は苦笑して見せた。

「これで安心したかね・・」清治は彩香に行ってストーブの脇でタバコに火を点けた。

「娘さん・・彩香ちゃんと言ったかな。お腹の子供は今何か月だね。見た処もう産み月に入っている様に見えるが・・」 米婆が尋ねた。

「私の記憶では今九か月目と思います・・」彩香は自分の膨らんだお腹をさすって答えた。

「そうだろうね・・年明けには生まれそうだよ・・この雪では町の産婦人科に行くのは無理だね。

ここで生むしかなさそうだが・・」米婆さんが二人の婆に顔を向けた。

「米さん心配してはいないだろう・・おら達皆この集落で子供を産んで育てて来たからね・・」

 長老の菊婆さんが笑って言った。

「そうだよ・・おら達で子供を取り上げてやるわ・・下手な産婦人科の医者よりはましかもよ。

彩香ちゃん安心しなよ。この清治小父さんだって私達が取り上げたんだからね・・」

 婆達が笑った。 「そうなんですか・・小父さんもこの家で生まれたのですか・・」

 彩香は皆の顔を見まわした。清治は又苦笑していた。彩香の顔に安堵の表情が浮かんだ。


 電気が途切れたのは其日の夕刻だった。婆達の家まで雪をかいて道を作っていた清治が家に戻ると薄暗闇の家に電灯が点いていなかった。彩香はストーブの脇の上がり框に座っていた。

「何故電気を点けないんだ・・」清治が声を掛けると彩香は困った顔で「電気が点きません」

と答えた。「何・・」清治は部屋の電灯のスイッチを入れて見た。明かりは灯らなかった。

「停電したか・・雪で電線が切れたのだろう。これは困った事になったな・・」清治は仏壇から灯明のローソク立てを持ってきて上がり框に置きローソクに火を点けコタツを動かし始めた。彩香はそれを不思議そうに眺めている。

 清治はコタツの下に敷いていたコタツ敷をはぎ取ると現れた板敷の床を数枚はがした。その下から囲炉裏が現れた。清治は囲炉裏をそのままに薪小屋から炭を持ち出し薪ストーブに入れた。炭が赤くおこると清治は手火鉢を持ってきてその中におこった炭を入れ、その火鉢を囲炉裏の中を掘って半分埋めた。それから床板を火鉢を囲う様に戻すとコタツをもとの様に戻し炬燵敷は彩香が座る場所に敷き他の三方には座布団を敷いた。

「これで当分はしのげるだろう・・炬燵に入ってもいいぞ・・」

 もう一つのローソク立てをコタツ板の上に置いて家を出て行った。しばらく経つと毛布を頭から被った三人の婆を連れて清治が戻って来た。

「電気が通じるまで当分五人で生活する事になる・・彩香・・」

 清治はまるで自分の娘を呼ぶ様に彩香に言った。


 ちょうど其頃髙見健作は学校を終え家に帰って来た。玄関を開け家に入ろうとして狼狽した。

そこには会社に行って居るはずもない父と母が鬼の形相で立っていたからだ。

よく見ると母の手に自分のスマホが握られている。ーヤバイ・・彩香のラインを読まれた。

「ただいま・・」恐る恐る家に入ると父親に後ろ襟首をつかまれ部屋の中に連れ込まれた。

「健作この意味を説明してちゃうだい。お母さんはそんな子供に育てた覚えはないわ。彩香ちゃんとは何時からそんな関係に・・」口早にまくし立てる様に喋る母親に健作はそれは違うと手を横に振り父親に襟首を話すように哀願した。父親が手を離した。

「説明するよ。お母さん。勘違いするのも体外にしてくれよ。ラインの生れそうなのは、彩香が内緒で飼っている猫の事だよ。家を出ると言う件は親にバレそうだから猫を遠くに連れて行くってことさ・・これで分かって貰えたかな・・お父さん・・」

「なんだ・・どうせそんな事だと思った。お母さん息子は信じてやるもんだ・・やれやれ・・」

 あれほど怒りに染まっていた父親の顔が和んでいた。ー助かった・・。彩香のラインを見た時直ぐにバレた時の対応策を考えた健作だった。直ぐに自室に入った健作は彩香に電話を掛けた。

だが電話は通じなかった。電源が切られている様だった。其ころ彩香の親友桜木麻紀も電話を掛けていた。電話は通じなかった。ー彩香無事でいて・・。麻紀は祈っていた。

 其ころ彩香が通う学校にも彩香の母親から電話が掛かって来ていた。 ーそうですか・・それは良かった・・親戚の家に居たのですね・・精神的に傷つきやすい年頃です。心が休まるまで病気休暇と言うことで・・。担任の浦川浩二が安堵の表情を浮かべて応対していた。


 雪は連日降り続いている。年越しが迫った師走のある日。村田清治の家では集落全員八名が寄り集まって餅つきが行われていた。村田家の台所のカマドに数十年ぶりに火が入った。ガスレンジのガスは孤立している集落には緊急時以外には使えなかった。

 かまどの上には炊飯羽釜が水を張って乗せられ更にその上にもち米の蒸し器が乗せられた。

雪の門先を挟んだ納屋の軒先に石臼が引き出され納屋の奥に一畳台が置かれている。かまどの火の守は年長者の菊が担っていた。納屋の軒下には清治と徳一が杵を持って待ち受けている。その脇に徳一の女房の花と米婆が控え、納屋の奥には満と市蔵の女房民が待ち構えていた。

 もち米が蒸されて石臼の中に移された。餅つきが始まった。餅を搗く音が家の中にまで聞こえて来る。その音に混じって婆達の声と笑い声が聞こえて来る。

 彩香はコタツで横になり寝ている市蔵爺さんを横目に勝手口を開けて覗いて見た。彩香に取って初めて見る光景だった。

「どうだ・・餅つきなんてここ二三十年行っていないよ。電動餅つき機が停電で今年は使えないからね・・」カマドの前に腰を落とした菊婆さんが彩香の背中に語りかけた。つき上がった餅は納屋の一畳台の上に運ばれ丸められていく。丸めた餅はもろぶたに並べられ。何枚ものもろぶたが部屋に運ばれて来た。

 朝から始まった餅つきは正午に終わった。突き立ての餅がぜんざいになって皆に振る舞われた。ボケが進む市蔵爺さんも起き出して餅を食べている。

「市蔵爺さん餅を喉に詰まらせないように気を付けないと・・」側で見守る女房の民に米婆さんが声を掛けた。彩香はつきたての餅を初めて食べていた。

「彩香ちゃんしっかりお食べよ。お腹の子の分までな・・」満が笑顔で言うと「お代わりはどうだい・・」と菊も声を掛けた。「もう一杯・・」市蔵爺さんが椀を突き出した。皆が声を上げて笑った。

 峰岸集落は電気はおろか電話も繋がらなくなっていた。年が明けても外は吹雪いていた。


 彩香の体に異常が現れたのは一月半ばを過ぎた頃だった。

「お婆さん助けて・・」清治の家に彩香の声が響いた。「大丈夫よ・・彩香ちゃん・・お婆さん達がついているからね・・」米婆さんの声が彩香を力づけている。

「頑張るんだよ。昔の女は皆家で子を生んだのよ」満が手を握り力づける。

 清治は薪ストーブの脇に腰かけ白い蒸気を見つめていた。ーどうか無事に生まれてくれ・・。

無関心を装いながら清治は心の奥で祈っていた。

 彩香が子供を産んだのは産気付いてから三日目の夜だった。

「おぎゃあー・・」雪が舞い落ちる闇空に木霊した鳴き声に、納屋の軒下に止めた軽四輪トラックの中で聞いた清治は運転席を出た。ー無事に生まれたか・・。彩香の苦し気な呻き声に耐えきれず母屋を出た清治だった。

 音を立てさせない様にそっと玄関の戸を開けるとそれに気が付いた米婆さんが満面の笑みで清治に言った。「清さん生まれたよ。元気な女の子だよ・・」バスタオルにくるまれた赤子を抱いていた。「そうか・・母親は・・」尋ねると米婆さんはコタツの横に横たわる彩香を目で示し

「ああ母親も元気だよ。心配ない・・初産にしてはよく頑張ったよ・・」

 横たわる彩香が顔を向けた。目が笑っていた。その目に「よく頑張ったな・・」と声を掛け

清治はもう一度屋外に出てタバコに火を点けた。安堵の煙が闇空に溶けた。


 一月の終わろうとする午後部屋の電気が灯った。「清さん電気が・・」天井を仰いで米婆さんが言った。「やっと直ったか・・それなら電話も繋がっただろう。もうすぐ除雪車も上がって来るだろう・・」電気が切れて一月近く過ぎていた。

 彩香に抱かれた赤子がスヤスヤ眠っている。ー道が通れる様になれば返さねばならないが・・

薪ストーブに薪を投げ込み玄関窓の外を見た。雪が舞っている。北からの強い寒気は少し治まって来たが、まだまだ予断を許さなかった。積雪は一メートルを超えている。

 除雪車が上がって来たら買い出しに山を下りなければと清治は考える。蓄えた食品の在庫が残り僅かになっていた。

 道路の除雪を終えた除雪車が集落に姿を現したのは翌日の昼だった。

「遅くなりました。町も大変な積雪で幹線道路の除雪に手間取り、町道の脇道は遅くなってしまいました。まだまだ孤立した集落があるのですよ」

 出迎えた清治に町役場の職員が申し訳なさそうに言った。

「今なら町に買い物に行けますか・・食料が枯渇しそうなので・・」

「「ああ今なら大丈夫でしょう・・夜にならない内に行かれたほうが良いでしょう。家の登り口と門先も除雪しましょう。車を出しやすいように・・」

 人の好さそうな中年の役場職員は除雪車を門先まで乗り入れて除雪した。

「ご苦労様です」と米婆さんが熱い甘酒のカップを差し出した。


 清治は婆達がメモした買い物リストをポケットに軽四輪トラックに乗って山を下った。

 それから三日後、ゆっくりと町の小型タクシーが山道を登って来て村田家の家の下に止まった。助手席から降りて来たのは四十前後の男で後部座席からは恰幅の良い紳士とその妻らしい女が降りて来た。車のドアが閉まる音がした。ー来たか・・。清治は玄関を開けて待った。

「ごめん下さい・・」彩香が抱いている赤子を抱きしめた。

「娘が大変お世話になり・・」父親の声だった。「彩香さん・・苦労掛けた・・」玄関から入って来た四十絡みの男が薪ストーブの脇の框に手を着いた。「先生・・来てくれたの・・」

「待たせたな彩香さん・・ご両親から許しを得たよ・・もう心配はいらないよ」

 男の言葉に彩香は赤子を抱いて泣き伏した。男は彩香の高校の担任教師浦川浩二だった。

 独身教師とその教え子。禁じられた恋はこうして実を結ぶ事が出来た。

姥捨て村に雪解けの春が来た。清治と婆達四世帯八名、この限界集落が地図から消える日は何時の日か・・。合唱。


          完



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