余談 塵芥のスウィング
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酒を飲みながら歓談に花を咲かせる男女。路上で吹き鳴らす静かなトランペットの音色。街に香る空腹をくすぐる料理の匂い。
夜の街はいつもと変わらない、賑やかで静かな日常を彩り見せている。
先の演劇祭の残響とも言うべきだろうか、街を歩く人の顔も蝋燭灯のようにどこか興奮した様子。ここには暗い闇など存在しないとでも言わんばかりに皆が淡い光の中を闊歩していた。
しかしだ、よくある話だが光が濃ければその分だけ影も濃くなるもの。繁栄の象徴である光の恩恵の代償は誰にも見られないところでひっそりと、だが確実に名も知れない誰かを蝕んでいる。
「………………」
そこは繁栄の光に照らされない、建物の間に挟まる闇に包まれた夜の路地。
そこに一人、いや一匹の飢えた獣がまるで塵芥のような無様な姿で横たわっていた。
「ぁぁ………………」
乱れた服の間に見えるのは痛々しいほど真っ赤に腫れた痕。それが肩、腕、そして背中に至るまで貼り付けたシールのようにくっきりと写し出していた。
それは彼の罪の象徴であり過去の屈辱を示す痕。正義という名の傲慢による鞭は彼の自尊心と虚栄心をこれでもかと打ち壊したのだ。
彼の名前はナブラル。かつて一人の画家の心と身体を思う存分に傷付け、差別した結果、一人の少女の炎のような言葉に怯え、最終的に捕まった哀れな男の姿だった。
ナブラルは手に持った酒瓶を口で挟むと、思いっきり傾けた。しかし空の酒瓶から流れて来るのは虚しい残り香と瓶の中で生まれた埃だけ。喉に引っかかた埃は無情に彼のからっぽの器官をかき乱し咳き込ませるだけだった。
「くそったれ!」
渇いた喉で心からの悪態を吐き捨てる。
くそったれ。そうだ、くそったれだ!
こいつの人生はまさにくそったれそのものだ!
ナブラルという男が産まれたのは砂埃が舞い上がる鉱山だった。
そして彼が産まれたことに両親は喜んだ。何故なら働く労働力が増えたのだから。彼の両親はワルツ家の所有する鉱山の鉱夫だったのだ。
順当に行けば彼は一端の鉱夫になり、ツルハシで石を叩き続ける人生で終わるはずだった。だが彼は芸術というものに興味を持った。持ってしまった!
当然両親は大反対。罵声と暴力が彼の最初の夢を儚く奪い去った。
しかしナブラルは諦めなかった。両親の目を盗んでまるで鹿の絵を残した原始人のように、鉱山の硬い壁をキャンパスに見立て尖った石という筆で絵を刻み始めたのだ。
砂埃が舞う鉱床にうるさく飛ぶこうもりが絵の教師だ。彼は鉱夫の作業を忘れて一心不乱に埃とこうもりの絵を壁に描き続けた。
描いて、描いて、腕が痛んでも書き続けながら彼は栄華を極めるダリアンの都の景色を夢見ていた。
そしてその機会は唐突に訪れた。
たまたま訪れた旅の行商人が都に行くと言ったのを聞いたのだ。彼は行商人の馬車に忍び込むと、両親に別れの挨拶をしないままに鉱山から脱走してダリアンの都に足を付けたのだ。
そんなナブラルには一つの才能があった。『模倣』という才能だ。
一度見た絵は鮮明に再現することができた。青い空も、雲も、そして絵に込められた感情すらも。完璧と言えるほどに表現することができたのだ。
都を訪れた最初こそ、その才能によって彼はもてはやされた。
まだ成人前の子供だったというのもあるだろう。彼の描く絵は模倣芸術として好事家から一定の評価を得ることができた。
しかしそれが彼の転落の第一歩だった。
ただの鉱夫だった子供が綺麗な服を着込んだ大人達から褒められる。これに勝る優越感は存在しないのだろう。
ナブラルは徐々に冗長してしまった。その傲慢な姿に他の芸術家からはどう見られてしまうだろうか。
出る杭は打たれる。その結果は言うまでもない。
全てを失ったナブラルは失意のままに両親のいる鉱山へ帰った。
勝手にいなくなったことを怒られるだろうかと心配した彼だったが、悲しいことに彼が怒られることは一切なかった。
いなくなった息子の穴を埋めるために無茶な労働をした結果、砂埃に肺をやられたのだ。
再開した時は両親は既に土の中。これで正真正銘、全てを失ったのだ。
ナブラルは芸術を憎んだ。自分が芸術に憧れなければこのような結果にならなかったから。
ナブラルは貴族を憎んだ。贅沢な生活を享受しておきながら誰も自分達を助けなかったから。
逆恨みも甚だしい。だが可哀想なことにそれでも憎まずにはいられなかったのだ。
そしてナブラルは『下』を求めた。
自分より劣る者を、虐げて良い者を求めてしまったのだ。安堵を得るために、自分の虚栄心を満たせるように。
その結果がこの様! その腕に刻まれた鞭の痕はまるで虐げられる奴隷の証そのもの! まさに自身が『下』である事の証明だ!
それでも彼は生きている。路地に横たわり、喉を渇かせながらも彼は栄華の都の影の中で生きていたのだ。
ダリアンの都はたとえこんな塵芥のような者でも生きる権利を与えているのだ。憎んでいる芸術の灯火を顔に浴びせながら彼を生かしているのだ。なんと素晴らしいことだ!
だが帰る家も無ければ頼れる組織は自分をお払い箱にした。浮浪者同然の彼はもはや生きながらにして死人のような姿を晒すことしかできない。
そして悲しいかな。この栄光と芸術の都に死人の居場所は存在しない。ただ消費されて作られた芸術の輝きにより出来た影に溺れる運命なのだろう。
そんな彼の哀れな憐れなあわれなアワレな姿を見てしまうと思わず笑みを浮かべながら酒を飲みたくなっちまうじゃないか!
「くそったれ!」
二回目だ。性根の変わらない彼にはもはや虚栄心すら己の虚しさを増長させる毒と化している。
可哀想なナブラル。このままだとまるで毒を飲まされた実験用マウスのように彼は路地でゆっくりと、誰にも見向きもされないままにくたばってしまうのだろう。
だが彼の悪運はまだ尽きていなかった。不幸なことに。
「……………………」
「あん? 誰だよテメェは」
いつのまにか、目の前に一人の人間が立っていたのだ。
その特徴を一言で表すなら『真っ黒』。
黒いコートに黒いパンツ、黒のハットに黒の靴。目に付く部分が一色の黒に染まっている。
唯一違う色があるとすれば首元に巻いている青紫色のマフラーぐらいだろう。しかしその協調性の無い色合いが余計に黒い人間の不気味さを引き立たせていた。
「もう一度聞くぞ。誰だテメェ」
「……………………」
黒い人間は答えない。月が輝く綺麗な夜の中で影のような真っ黒な日傘を差しながら、無様に地面に這うナブラルの姿を哀れそうに見下ろしている。
常人からすればただただ不気味な存在だ。しかし心の底から廃れた塵芥にはそんな不気味さなどもはや関係なかった。
「何見下ろしてんだよ、テメェ」
「…………………………」
「俺がくそったれだから見下ろしてんのか!! 俺を『下』に見てそんなに楽しいか!!」
気に入らないという感情の赴くままに目の前の人間へ怒鳴り散らす。
しかし彼は気付いていないがそれすらもちっぽけな虚栄心なのだ。その感情を見透かされているのか黒い人間は黙ったまま。
「テメェ!」
「………………」
その姿が神経を逆撫でしたのだろう。ナブラルは立ち上がって黒い人間に掴みかかろうとした。
だが鞭に打たれ、ここ数日ろくに食べていない彼の身体では細い体型の人間一人掴むことすらできなかった。
結局は壁に身体を打ちつけ、無様に寝転ぶ結果に終わる。
「くそが! どいつもこいつも見下しやがって!」
「………………貴方を一番見下しているのは自分自身じゃないの?」
黒い人間が初めて声を上げた。
その声はまるで透き通る湖のように美しく、そして暗く降りしきる雨のように儚い女性の声だった。
声の主はゆっくりと日傘を閉じると、その顔を露わにした。
「なッ!?」
顔を見たナブラルは驚きながら後退り路地の壁に背中を預けた。だがそんな彼のことなど気にも止めずに女性は淡々と話し続けた。
「貴方は芸術を憎んでいるのでしょう。じゃあなんでまだここにいるの? どこか遠いところに行けばいいのに」
「何言ってんだテメェ…………」
「でも貴方はまだここにいる、芸術が憎いのにここにいる。つまり…………」
「やめろ! それ以上言うとぶちのめすぞ!」
それでも彼女は止まらなかった。
「貴方はまだ芸術を愛している」
「ッ………………」
目を逸らしていたもの。つまるところ『夢』という鎖が彼の心をこの都に縛り付けていたということだ。
ああ悲しいかな、悲しいかな!
ナブラルという男は過去の栄光に縋りながらも未練がましく消えない夢を抱いたままこの暗い路地を這っていたのだ。その無様な姿はまるでゾンビのようじゃないか!
ゾンビは死した者が辿る末路。しかしナブラルはまだ生きているのだ。死にかけの身体でも生きてしまっているのだ!
「私が言いたいのはこれだけ、あとは自分のやりたいように生きてみて。それがこの国の繁栄に繋がるから」
結局、黒い人間は言いたいことだけ言うと、再び日傘を刺して繁栄の光の中へ溶けていった。
黒い人間が去った後、ふと耳を澄ませば大通りの方からこの場には似つかわしくない舞曲の音色が聞こえて来る。
しかしナブラルは舞曲の音色に心惹かれることはなく、先程の彼女の言葉に歯軋りしながら壁に怒りの拳を突き立てていた。
「くそが! くそが! くそったれが!!」
三回目。そうだ、世の中なんて結局はくそったれなんだ!
自分の思い通りなんて行くことなんて絶対に無いし、やりたいことをしようとしても誰かに邪魔される。それが世の中という不条理なんだ。
だが芸術は違う。自分の思い通りにいかないし誰かに邪魔されるものだが結局は自身の力で作り上げられる唯一の存在なのだ!
「ッ………………!」
そしてまるで運命と言うべきだろうか、彼の手元には一本の黒ずんだ白チョークが落ちていたのだ。
芸術を、自身の『自分のやりたい』をぶつける機会がここに訪れた。訪れてしまった!
「チッ!」
舌打ちと共にチョークを手に取り、彼は目の前の壁に向かってそれを思いっきり打ちつける。
「ああああッ!!」
叫びながらナブラルは自身の表現したい芸術を、まるで尖った石で鉱山の壁に鹿の絵を刻みつけるようにぶつける。
「…………チッ! ぺっ」
そして作品が出来上がると、ナブラルはズボンでチョークの粉を払いながらそれに唾を吐き捨て路地を去って行った。
そして誰もいなくなった路地の壁には怒りと執念を滲ませるような大きな文字でこう書かれていた。
『芸術なんてくそったれだ!』と。
後日、偶然見かけた評論家がこの文字を『前衛的で斬新な芸術の先駆け』という評価を下すと、雨によって洗い流されるまでの四日の間だけこの路地を出歩く者から目新しい娯楽として愛され、数人の芸術家によって模倣された。
しかし当の作者がこの出来事を知ることは一切なかった。




