第15話 恋路破れる午後十時
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淡く照らす蝋燭灯の光。夜空に昇る美しい月。けばけばしく騒いでいる街の人の声。時折聞こえてくる路上音楽の小気味良い音色はまるで仕事を頑張った者に贈られる今日といつ存在のフィナーレを奏でているようです。
全てが変わらない、愛おしい夜がそこにはありました。
もし私に門限という鎖が無ければ今にもこの夜の帷に溶け込んでしまいたいほど美しい光景。
ですが貴族、ひいてはワルツ家の者として約束は決して違える事はできません。後ろ髪を引かれる思いのまま淡い太陽で照らされている大通りを後にし、いつもの我が家へ戻るのでした。
出てきた時と同じ、裏口の扉からこっそり屋敷の中へ入り、足音を立てないようにして自分のお部屋へ戻ります。
抜き足、差し足。と小さな蝋燭で照らされた薄暗い廊下をゆっくり歩いて行くと、愛しのお部屋が見えて参りました…………のですが。
「…………お帰りなさいませ、お嬢様。そのご様子だと今しがた戻られたのですね」
「マリアン?」
そこには私のお世話をしてくれている頼れる侍女長がお部屋の前に立っていたのです。
いつもと変わらないシワ一つ無い給仕服、いつもと変わらない完璧な立ち振る舞い。ですがその表情はいつもとは違い大きな疲労の影が漂っていました。
「どうしたの、酷い顔をしているわ。確か今日は終日休んでいたのよね?」
「やはり気付かれてしまいましたか。ええ確かに、今日は旦那様から一日お暇をいただき悠々とした午後を過ごさせていただきました。ですが………………」
ああ、今のマリアンはおかしいわ。
こんなのまるで荒野に咲く一輪のお花のような儚さじゃない。私の知るマリアンがそんな雰囲気を醸し出すなんてありえません。
そして私には彼女の主の一人として彼女が儚くなった原因を知る義務があります。
「立ったままでは足に悪いわ、座ってお話しをしましょう。ちょうど目の前に腰を落ち着ける場所があることですしね」
「…………ありがとうございます。お嬢様のお言葉に甘えさせていただきます」
そうして私は自室の扉を開き、マリアンを中へ招き入れるのでした。
私とマリアンは共にベッドに腰掛け足を楽にさせました。
柔らかい雲のような感触が今日の疲れを吸い取っているようでとても心地が良いです。
「それで、聞かせてくれる? 何が貴女をそんな顔にさせているのかを」
「ええ、まあ簡単な話です。………………失恋したのですよ」
「……………………」
マリアンの告白は私の雄弁な唇を閉ざすのに充分な威力を誇っていました。
それは誰にでも起こり得る小さな悲劇。流行りの恋愛小説では飽きるほどに描写された展開であり物語の彩りにおいてある意味必要不可欠な出来事でした。
しかしそれはあくまで物語だからこそ面白いのであり、親しき隣人がこのような展開になるのはまた別の話です。
「…………ごめんなさい。お嬢様に聞かせるような話ではありませんね」
「ううん、大丈夫よ」
俯き謝る彼女に掛ける言葉が見つかりません。
また良い相手が見つかるはずです、と薄っぺらい慰めの言葉を掛ければ良いのでしょうか?それとも一緒になって泣き叫べば良いのでしょうか?
とても悲しいし、とても苦しいです。しかし彼女はその何倍も悲しく苦しい思いをしているはずなのです。
そんな私ができることと言えば。
「………………マリアン、扉を閉めてくれるかしら」
「…………お嬢様?」
「扉が開いていてはお父様に気付かれてしまいます」
そう言って私は背負ったケースの中身を取り出しました。
一挺のバイオリンに一本の弦。私が贈る事ができる物はこれしか無いのです。
それを見たマリアンは何か言いたげにしながらもその言葉を飲み込んで私のお願いに従ってくれました。
ああ、やっぱり貴女は優しいですね。ならば私もその優しさに応えなければなりません。
「…………リクエストはある?」
「静かな…………物憂げなブルースを」
「お任せください」
こうして小鳥も眠る深い深い夜の中で、小さな演奏会の幕が開かれたのでした。
「〜〜♪〜♪〜♪」
「……………………」
観客は一人、台の無いステージに消え入りそうなほどに小さな旋律。ですがそれで充分なのです。
弦に込めるのは気怠げなメランコリな気持ち。こんな全てを忘れたい夜には隣でそっと寄り添うようなスローなリズムに浸っていくのです。まるで湖の上に寝転び中へゆっくりと沈むかのように。
「………………いい、音色ですね」
もうすぐ夢を見る時間が近づいています。
ですが今はただ、寂しい気持ちと一緒に気の向くままこの憂うつな音色に沈んでいましょう。
眠って、何も辛いこと考えなくなれるまでゆっくりと。
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その日の私は夢を見ていました。
それはもう忘れてしまいそうになっていた遥か昔の記憶。小さな女の子とお姉さんとの出会いでした。
小さな女の子にはお母さんがいません。彼女が産まれてすぐに天に召されたのです。
産まれて以来お母さんの愛情を知らない可哀想な女の子。あわれなあわれなか弱い子。
毎晩「お母さんに会いたいよぉ、お母さんに会いたいよぉ」と雨のような涙を流してもお母さんが抱きしめてくれるはずもなく、いつもお父さんに怒られていました。
そんな女の子には産まれてからお世話をしてくれた頼れるお姉さんがいました。
血の繋がりは無く女の子とは立場も違うけど、いつも女の子の味方をしてくれた大好きなお姉さんでした。
お姉さんと女の子はいつも一緒。仲良く庭に咲くお花へ水をやったり、楽しく歌を歌って日々を過ごしていました。
ですが、そんな関係にも変化が訪れます。
女の子が八歳の頃でした。
「レイちゃ…………いえ、お嬢様。これからの貴女にはダリアンの貴族として礼節のある行動をしてもらいます」
その日を境に楽しい日々が変わってしまいました。
一緒にやっていたお花の水やりから机に向かって勉強をすることになり、楽しい歌の時間は格式ばったピアノの稽古になったのです。
そんな日々を過ごしていると女の子は気付くのです。
『自分は由緒ある貴族で彼女はただの侍女』だというどうしようもない『違い』に。
そのことに気付いてしまった時、女の子は小さな子供の時と同じように、沢山の涙の雨を降らせました。
そして女の子は物言わぬ人形のような子になりかけてしまったのでした。
あの泥臭くも心温まる出会いが訪れるまではね。




